法然の生涯(十ニ) 元久の法難と興福寺奏状

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元久の法難

法然が九条兼実のために『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』をあらわしたのが建久9年(1198年)。66歳の時。

その後も法然はひたすら念仏三昧のうちに過ごし、多くの人々を専修念仏の道に導きました。法然のもとには身分・立場を問わず多くの男女が集まり、法然の門弟はどんどん増えていきました。

しかし、組織が大きくなると困った者も出てきます。念仏を行わない他の宗派をののしったり、バカにする者。強引に専修念仏に引き込もうとする者。そうか念仏さえ称えれば救われるんだ。なら何やっても自由だと酒色にふけり、乱れた生活をする者。はては法然の教えを曲げて勝手な教義を唱える者まで出てきました。

「浄土教団のありようは、目に余る!なにが専修念仏か。
では天台の教学も、修行も、
ないがしろにしてよいというのか
そんなバカな話は無い!」

「浄土教団こそ、仏法に仇なす邪宗である!!」

元久元年(1204年)比叡山の大衆が大講堂に集まり、天台座主真性(しんしょう)に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴えました。世にいう「元久の法難」です。この時法然72歳。

(ついに来たか…)

法然はつねづね門弟たちの行き過ぎた行為に心を痛めていました。

いずれは既存仏教から、何らかのお咎めを受けるだろうと、法然は感じていました。

法然は京都にいる門弟や近隣の弟子たちを集めます。

「よいか。これらの教えを、けして破ってはならぬぞ」

ばっ…

それは、七箇条から成る、これをやってはならぬという掟でした。これを七箇条制誡(しちかじょうせいかい)、または七箇条の御起請文(しちかじょうのごきしょうもん)といい、その原文は京都嵯峨二尊院に伝わっています。

一、仏の教えを十分に受けてもいないのに、真言宗・天台宗を批判し、阿弥陀仏以外の仏をそしることをやめよ。

一、智慧の無い身でありながら智慧のある人や念仏以外の行を行っている人に対して、好んで争論をおこすことをやめよ。

一、念仏門においては戒行(禁止された行い)は無いといって、ひたすら酒・色・肉食にふけることをすすめ、まじめに守っている者を雑行人(ぞうぎょうにん)となづけて、弥陀の本願をたのむ者は、悪をなすことを恐れるなという事をやめよ。

一、物事の是非をわきまえぬ愚か者が、正しい仏教の教えを離れて、師の説に背いて、好き勝手に自分の考えを述べ、みだりに争論を起こして、知恵ある者に笑われ、愚か者をまどわせる事をやめよ。

一、愚か者の身でありながら特に説教を好み、正しい仏教の教えを知らずにさまざまな邪法を解いて、人を教化しようとすることをやめよ。

一、自分勝手に仏教ではない邪法を説いて、いつわって師の説だとすることをやめよ。

「よろしいかな」

念を押す法然。

さすがに開祖たる法然上人に言われると反論しようがなく、門弟たちは行き過ぎを恥じました。法然は百人以上の門弟たちに署名させ、これを天台座主真性(しんしょう)に提出しました。署名した門弟の中には綽空(しゃくくう)…後の親鸞の姿もありました。

この時、法然にとってありがたい助け船がありました。

「わが命にかえても、法然上人をお救いしたい。
どうかお座主さま!なにとぞ」

前関白九条兼実。法然の導きで出家して円証と名乗り、愛宕山の月輪寺に隠棲していました。兼実は法然に深く帰依し、法然の人柄に心酔していました。今回、法然の危機ときいて、しきりに訴えます。どうか法然上人をお救いくださいと。

「ううむ…そこまで言われるなら…」

天台座主真性は、これ以上は問題にするに足らぬと、延暦寺大衆の訴えを退け、ひとまず難は避けられました。

興福寺奏状

翌元久2年(1205年)、今度は南都の興福寺から声が上がります。

「法然の専修念仏は、まことにけしからん!」
「もう黙っていられないですよ!」

興福寺大衆は「専修念仏停止」を訴えるとともに、法然はじめ門弟たちの九つの過失を列挙し、これを後鳥羽上皇に奏上しました。世に言う「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」です。

一、新宗を立てるの失
法然は、正当な論拠も、朝廷の勅許もなく、勝手に新しい宗派を名乗っている。

二、新像を画(かく)するの失
専修念仏者だけが阿弥陀仏の救いにあずかり、天台宗や真言宗は救われないという間違った絵図をもてあそんでいる。

三、釈尊を軽んずる失
阿弥陀仏のみを重んじ、釈迦を軽んじている。

四、万善(まんぜん)を妨ぐる失
念仏のみが大事だとして、寺の造営や仏像の造営といつた良い行いを妨げている。

五、霊神に背く失
春日社や八幡社など、日本古来の神々に背いている。

六、浄土に暗き失
極楽往生にまつわる教えのうち、念仏だけを重く見て、考えが偏っている。

七、念仏を誤る失
さまざまな念仏の種類がある中で、もっぱら称名念仏にだけ偏っている。

八、釈衆(しゅくしゅ。仏弟子)を損ずる失
救われるには念仏さえ唱えればいいという極端な教えにより、ならば念仏さえ唱えればデタラメにやってても許されるのだという困った信者を生んだこと。

九、国土を乱る失
古来日本仏教は仏の力で国を治める鎮護国家の考えから起こってきたが、凡夫救済を旨とする浄土宗には、鎮護国家の発想が無い。

文書の草案を書いたのは京都笠置寺(かさぎでら)の解脱坊貞慶(げだつぼうじょうけい)といい、南都仏教の実力者でした。

訴えを受けて、後鳥羽上皇は、

「さて、どうしたものか…」

頭をお抱えになります。なにしろ朝廷にも院にも、法然に帰依する者は多かったのです。専修念仏は禁止。そう言って簡単にすむ問題ではありませんでした。とはいえ一方で、浄土教団を潰せという声もあり、また興福寺からたびたび専修念仏を禁止してくれと奏上が繰り返されていました。

しかし後鳥羽上皇は、この時点においては、法然と浄土教団を弾圧するでもなく、保護するでもなく、一定の距離を保とうとしていた様子があります。

ところが翌年の建永元年(1206年)、事態が一変します。

次回「建永の法難」お楽しみに。

解説:左大臣光永

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