法然の生涯(一)九歳の受難

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本日から、数回にわたって
「法然の生涯」をお送りします。貴族の時代から武士の時代へ、
大きく社会が動いた大変革の時代にあって、
武力でも政治の力でもなく、ひたすら念仏を唱えることによって、
極楽往生を願い、人々の魂を救済をしようとした法然上人。

法然上人像(知恩院)
法然上人像(知恩院)

エリート主義に凝り固まり、特権階級のものになっていた
当時の仏教を、「すべての人の救い」という仏教のそもそもの
在り方に戻した法然上人。

日本仏教史を語る上で、
いや、日本人の精神の成り立ちを知る上で、
ぜったいに欠かせない人物です。

九歳の受難

法然は長承二年(1133年)美作国久米南条稲岡荘(くめなんじょういなおかのしょう 現岡山県久米郡)の武士の家に生れました。

父は漆間時国(うるまときくに)。美作国の押領使です。押領使とは地方の治安維持をになう役職で、今でいう警察署長のようなものです。

父は生まれたばかりの息子に、勢至菩薩のようなすばらしい知恵が備わるよう、勢至丸と名付けました。勢至菩薩とは、観世音菩薩とともに阿弥陀仏の横でお供をしている菩薩のことです。

優しい両親のもと、勢至丸は将来の跡取りとして何不自由なく大切に育てられました。しかし、勢至丸9歳の時、事件が起こります。

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかっ

「こじ開けろーーーーッ」
「ブチ殺せーーーッ」

保延7年(1141年)3月のある夜、

突如、軍馬の群が、漆間家を襲撃しました。

ひょう、ひょうひょう、

どすっ。ぐはっ。
どすっ。ぎゃあああ

不意をつかれた漆間家の家人たちは、次々と討ちとられていきます。そして

ひょーーーっ

飛んできた遠矢が、

どすーーーっ

「ぐうううっ」

「ち、父上ーーー!!」

「なんの、勢至丸、これしきのことで。
お前も弓を持てッ」

父漆間時国は奮戦し、何とか賊を退けましたが、受けた傷は深く、とうてい回復は無理でした。

賊の正体は、稲岡庄の荘園管理人・明石定明(あかしじょうみょう・さだあきら)とわかりました。明石定明は漆間時国の上司にあたる人物ですが、かねてから所領地の問題で漆間時国と明石定明は対立していたようです。

「おのれ明石定明。許さぬ。父上、父上の敵は、私が必ずッ」

「ならぬ…!」

枕元で復讐を念じるわが子・勢至丸を遮り、父は言います。

「勢至丸よ。父を討った敵を恨んではならぬ。
お前が敵に復讐すれば、今度はその子がまた、
お前を怨みに思って復讐するだろう。
そうなれば、この世は永遠に怨みが尽きることがない。
それよりも仏門に入って、わしの菩提を弔ってくれ。
そしてお前自身に迷いも消え、救いが得られるように…」

「なぜです父上!」

「聞け。勢至丸。今日のようなことになったのは、
私が明石を軽んじたことがそもそもの原因。
お前が仇を討てば、さらなる争いが続く。
お前は御仏から授かった大切な子じゃ。
仏門に入り、自他共に、救われる道を目指しなさい」

「う…うう…父上。わかりました」」

息子の言葉をききとげると、父漆間時国は息を引き取りました。

自分を討った敵に対し、復讐を、するなと言った父の言葉は、その後の法然の生涯を方向づけるものとなりました。

叔父のもとで学ぶ

父の死から9ケ月後、勢至丸は母の弟観覚(かんがく)が住職をつとめる山深い菩提寺という寺に預けられます。どうか叔父さま、よろしくお願いします。うむ。よく学ぶのじゃぞ。

僧になれという父の遺言によって…だけではありません。当時武士の間では、やられたらやり返せ。仇討ちは当然でした。明石定明も、漆間時国を亡ぼしたとはいえ、その息子がいつ復讐に来るかと戦々恐々していたはずです。

やられる前にやってしまえと勢至丸を襲ってくる危険がありました。その危険を避けるためにも、寺に預けたのでした。

こうして勢至丸は菩提寺に預けられ、叔父である観覚のもとで学問・修行をします。すぐに観覚は、勢至丸のたぐいまれな向学心と器量に引きつけられました。

「この子は…ただ者ではない。こんな田舎に埋もれさせておくのは惜しい」

そこで観覚は、ある日勢至丸に言います。

「そなた、比叡山に登ってみないか」
「比叡山に…?」

「そう。こんな草深い田舎でなく、本格的な学問・修行を行うには、比叡山が一番じゃ。わしもかつて比叡山にいたから、もしお前が望むなら、紹介状を書いてやろう。どうじゃ」

(比叡山で…本格的な学問修行を!)

13歳の勢至丸は胸躍りました。

勉強したい。極めるところまで極めてみたいと。

比叡山へ

「では、母上、行ってまいります」
「勢至丸、体にはくれぐれも気を付けるのですよ」

天養4年(1145年)勢至丸は、比叡山西塔(さいとう)北谷の持宝房源光のもとへ出発しました。青雲の志を抱いてようようと出発する13歳のわが子の背中を、母は涙ながらに見送ります。

岡山県久米郡美咲町(みさきちょう)の丘陵地帯には、「仰叡の灯(ぎょうえいのひ)」と呼ばれる灯籠があります。勢至丸と別れた後、母が毎日この高台に立って、息子のいる比叡山の方角をながめて涙を流したと伝えられます。傍らなる石碑には、母の歌が記されています。

かたみとて はかなきおやのとどめてし この別れさえ 又いかにせん
母秦氏詠

殺された夫が残した忘れ形見である息子勢至丸と、またこうやって別れなくてはならない。ああ、私はどうしよう。

叔父観覚は、勢至丸を比叡山の持宝房源光に遣わすにあたって、手紙を持たせました。その手紙には「文殊菩薩を一体贈ります」とありました。文殊菩薩は智慧を象徴する菩薩です。手紙を受け取った源光が「はて…?」すっと外に出て見ると、そこには利発そうな少年がぽつんと立っていました。

(そうか。この子が文殊菩薩というわけか…)

「お前が勢至丸だね。観覚から話は聞いているよ。
さあ、入るがよい」

「はい。源光さま、今後、よろしくお願いいたします」

次回「比叡山」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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