法然の生涯(十一)法然と平重衡

こんにちは。左大臣光永です。電車の乗り換えの時に、「降りる用」と「乗り換え用」の改札があって、よく間違えるんですが…私だけですかね?特に飯田橋で間違えます…

まずはお知らせです。発売中の商品「中国語朗読つき 李白 詩と生涯」を、近く再発売します。あらたな詩を加えて、解説音声はすべて録りおろししました。以前お買い上げいただいている方には無料でダウンロードしていただけます。ご期待ください!
http://sirdaizine.com/CD/Rihaku01.html

さて本日は、「法然の生涯(十一)法然と平重衡」です。

▼音声が再生されます▼

スポンサーリンク

▼前回までの話▼
法然の生涯(九)吉水
法然の生涯(十)南都炎上

平重衡

平清盛の五男・重衡は平家一門の中にあって「牡丹の花」にたとえられるほどの美男子でした。しかも快活で、気が利いて、ユーモアもありました。ある時、宮中で女房たちが数人で炭櫃を囲んで話し込んでいると、何くわぬ顔で重衡が入ってきました。

「まあ、重衡さま、ここは殿方の立ち入りは禁止ですわよ」
「そう難い事言わないでください。私もみなさんの話にまぜてくださいよ」

などと、女房たちの輪に加わり、面白い話や、怪談話をしました。女房たちはキャッキャと大喜びです。イケメンで、話が面白く、気が利くとなると、そりゃあモテるわけです。

そんな重衡ですが、南都攻めでは大将軍に任じられ、興福寺・東大寺・そして大仏を焼くという損な役をになわされることとなりました。以後、奈良の僧兵たちは重衡のことを「仏敵」として激しく忌み嫌うこととなります。

捕らわれた重衡

南都炎上の翌年の治承五年(1181年)閏2月、平清盛が熱病に冒され、没します。以後、平家一門は没落への道をひた走り、ついに寿永2年(1183年)7月、都落ちの日を迎えます。

寿永3年(1183年)2月。摂津一の谷の戦いにて、源義経の奇襲攻撃により平家軍は不意をつかれ、散り散りになって逃げていきます。その中に重衡の姿もありました。ひょーーーう、ふつっ。ドダーーン。

「ぐっ、ぐぬぬうう」

重衡の乗った馬は矢に射ぬかれ、転倒。

こんな時、郎等の用意した乗り換えの馬に乗るものですが、重衡の乗り換え馬に乗っていた乳母子の後藤兵衛盛長は、わが命惜しさに乗り換え馬に乗って、バカバカと主君重衡を無視して逃げていきました。

「ああっ、盛長ッ、われを捨てて、いずこへ行くぞーーッ」

取り残された重衡は波打ち際で心静かに自害せんと覚悟を決めますが、駆けつけた源氏方の梶原景季らに取り押さえられました。

処分を待つ重衡

こうして生け捕りになった重衡は、京都に護送され、六条通りを引き回されます。車の前後のすだれを上げ、左右の戸を上げて、外から丸見えの形でさらしものにされます。

「亡き入道相国さまにも、二位殿にも重衡さまは
あれほど可愛がられていらっしゃったのに…。
これも南都を焼き討ちにした仏罰であろうか…」

老いも若きも尊きも卑しきも、重衡がさらしものになっているのを見て涙を禁じえませんでした。

そして八条堀川の御堂に閉じ込められ、土肥実平が警備にあたります。

後白河法皇は、四国讃岐の屋島に拠点を置く、平家棟梁・平宗盛のもとに使者を遣わします。重衡の身柄と、三種の神器を交換しようと迫りました。

「すぐに三種の神器を返還しましょう!」
「あいや、待たれよ。重衡卿一人と、三種の神器とは、替えがたい」

なにしろ三種の神器は帝が帝である証。それを返してしまえば、安徳帝は帝でなくなり、平家一門の大義名分は失われてしまいます。結局、平家一門は申し入れを拒否しました。

都にもどってきた使いから一部始終を
知らされた重衡は、

「当然といえば当然です。重衡一人と三種の神器をはかりにかけるなど…
誰が考えましょう。
無様に命乞いをしたりして、どんなにか一門の人びとは
重衡のことを見苦しく思ったことでしょう。
…出家をしたいと思いますが、かないましょうか」

すぐに大将軍源義経に取り次ぐと、義経の返事は、

「頼朝公に会って後ならばいかにも取り計らいましょう。只今は、どうにもできません」

「では、長年お世話になっております聖にお会いして、後生のことを、お教えを請いたいのですが、それは、かないましょうか」

「聖をば何と申します?」

「東山吉水の、法然上人という方です」

法然と重衡

すぐに法然はやって来ました。

「上人!」
「ああ重衡殿…」

時に重衡27歳。法然52歳、

法然は、9歳で父を殺されて以後、さまざまな世の辛酸を舐めてきましたが、あの栄華をきわめた平家御一門の、しかも清盛公にあんなにも可愛がられていた重衡卿が今目の前で捕らわれの身となっているのを見て、涙がこみ上げるのを禁じえませんでした。

重衡はまず先年の南都焼討ちのことについて触れ、焼討ちは自分の意思ではなかったが当時の大将軍であったことで責任は覚悟していると語ります。

「このように捕えられて恥をさらしておりますのもすべてその報いでしょう。
出家して仏門に入りたく思うのですが、それもかなわぬようです。
地獄でどれほどの責めをこうむることか…。
願はくは上人、このような悪人の救われる道が、
もしございますなら、どうかお示しださい」

重衡はひどく怯えていました。大仏を焼いた罪により、地獄行きとなることを。仏典にあるアジャセ王子が、父殺しという大罪を犯し、その罪により地獄行きとなることを恐れ怯えている、その姿と、目の前の重衡の姿が、法然の中で重なります。

法然は静かに言います。

「人として生まれながら悪業を重ね、むなしく悪道に陥るのは、
悲しんでもあまりあることです。しかし今、煩悩にまみれた現世を厭い、
浄土にお気持ちが向かっておられますこと、
三千の御仏たちもさぞかし喜んでおられしょう」

「往生の道はさまざまですが、かかる末法の世においては、
称名をもって第一とします。南無阿弥陀仏。ただその六文字に
あらゆる仏教の修行を集中させ、称えるのです。

罪が深いからとって卑下なさることはありません。
どれほどの悪行を犯した者も、心を改めれば往生できます。
功徳が少ないといって望みを絶たれてはなりません。
念々に弥陀の名号を唱えれば、必ず往生できます」

「ああ…上人!この上は、戒を授かりたく存じますが、
出家をしないでは、叶いますまいか」

「出家せぬ人も戒を保つことは、世の常の習いです」

そこで法然は重衡の頭にカミソリをあてる真似をして、受戒、仏教の戒めを受けることで、仏の弟子となったことの証としました。

重衡はよろこびの涙を流し、硯を一つ持ってこさせ、

「どうか上人、これを重衡を思い出すよすがとしてください」

この硯は入道清盛が宋の国に砂金を送った際にそのお礼として贈られたもので名を「松陰」といいました。

その後、重衡は鎌倉で頼朝と対面した後、その身柄を南都に引き渡され、「仏敵」として木津川沿いで斬られました。法然の教えによって最期まで念仏を唱え、その毅然とした態度は、仏敵として重衡をあれほど憎んでいた南都の僧たちも、思わず涙を流すほどでした。

次回「大原問答」に続きます。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

音声つきメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」のご案内

現在18000人以上が購読中。

メールアドレスを入力すると、日本の歴史・古典について、楽しくわかりやすい解説音声を無料で定期的に受け取ることができます。毎回10分程度の短い解説で、時間を取りません。楽しんで聴いているうちに、日本の歴史・古典について、広く、立体的な知識が身につきます。スマートフォン・Androidでもお聴きになれます。不要な場合はいつでも購読解除できます。

いつも使っているメールアドレスを入力して、 「無料メルマガを受け取る」ボタンをクリックしてください。次回からお使いのメールアドレスにメルマガが届きます。

≫詳しくはこちら



スポンサーリンク