法然の生涯(四)智慧第一

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迷い

法然は18歳の時比叡山黒谷にうつってから、43歳まで25年間を黒谷に過ごしています。その間、報恩蔵(ほうおんぞう)という書庫にこもって学問研究に熱心に打ち込みました。しかし、いくら知識が増えても迷いが消えることはありませんでした。

どんなに勉強に打ち込んでいても、父を殺した明石定明への憎しみがたびたび思い出されました。

(父は敵を許せといった。仏の道を志す者として、私も理屈では、そうすべきだと思う。だが、できない。身を焼かれるような憎しみが、何度も蘇るのだ。なんという心の弱さだろう)

その上、法然の学問研究への姿勢と、当時の比叡山のそれとは、明らかに食い違っていました。

当時の比叡山では師の言葉を弟子が盲目的に従うだけでした。えらい学者とされる人々も、ただ権威ある古人の言葉を注釈するだけでした。みずから考え研究する姿勢はありませんでした。

しかし法然の考えでは、

「学問ははじめて見立つるはきわめて大事なり、師の説の伝習はたやすきなり」

「学生(がくしょう)かならずしも先達なればということはなきなり」

学問は最初に真理を発見するのが大事であって、師の説を習うだけなら簡単なものだ。先輩が必ずしも優れているというわけではない。

つまり、ただ上から下に与えられるだけの比叡山の学び方を法然はまっこうから否定しています。真理を学び求めることが大事なのであって、師であるとか弟子であるとかは、関係ないと。

真剣に学問研究に打ち込む故の、法然の姿勢でしたが、当時の比叡山では受け入れがたいものでした。

「弟子が師にはむかうなど、思い上がりもいい所だ」
「法然は和を乱す。困った男である」
「まったく…たかが地方豪族の出身のくせに」

そんな声もあったことでしょう。しかし黒谷という比叡山でも僻地にいたことであり、この段階ではさほどの問題にはされていませんでした。

往生要集

また法然は天台宗の厳しい修行に疑問を感じていました。

滝に打たれ座禅を組み、難しい経典を解釈して…そんなことを何十年もやって、やっと救われる。ならば、庶民はどうなるのか。庶民は日々の生活に追われ、修行などしている暇はない。殺生そのものを生業とする者さえいる。

では武士は救われないのか?漁師は救われないのか?

ヒマ人と金持ちしか救えないのか?

ならば、そんな教えは無意味だ。だいたい、生き物を殺すなといったって、ただ歩いていても蟻をふんづけるではないか。

戒律を完全に守るなど、どだい不可能だ。私自身、これほど学問研究に没頭しているのに、いまだに父を殺した明石定明への憎しみから、逃れられずにいるではないか。

師の叡空に対しても、必要以上に侮辱し、憎まれ口を叩かないではいられない。師の言葉に無批判に従うあの態度と、わかったような顔を見ていると、どうしてもムカムカしてしまうのだ。ああ、どうしたものか。

この頃から法然は恵心僧都の『往生要集』に傾倒していました。そこに説かれたある教えに、法然は注目しました。

往生の業(ごう)は念仏を本(ほん)と為す


極楽往生するための業としては、念仏が根本だ。

「念仏。ただ念仏を唱えるだけなら、庶民にもできる。
自分のような弱い人間にも、できる。これなら、無理はなさそうだ」

しだいに法然は『往生要集』の研究に没頭し、そのもととなった唐の善導大師の教えに導かれていきました。

しかし、当時の比叡山では、念仏はあくまで補助的な業であって、中心ではないという考えでした。この点も、法然と比叡山の相容れないところでした。

(決めた。比叡山を下りよう)

目指すは南都(奈良)でした。南都(奈良)では善導大師の著作が多く書写され、称名念仏を掲げる僧も多いと聞いていました。比叡山で学べなかったものが、南都で見つかるかもしれませんでした。

保元元年(1156年)24歳の法然は6年ぶりに比叡山を下ります。

嵯峨清涼寺

法然がまず向かった先は嵯峨の清涼寺(せいりょうじ)でした。清涼寺には霊験あらたかな釈迦如来像が安置されていました。そこには、救いを求めて押し寄せた庶民の姿がありました。

「仏さま、どうか私の息子を返してください」
「家にはもう働き手がおりません。なのにお上は取り立ててきます。
これじゃあ、もう死んだほうがマシです」

それは、六年間を比叡山にこもっていた法然には強烈すぎる光景でした。比叡山が相手にするのは、しょせんは社会の上流層。金も暇もある人たちばかりでした。

しかし、庶民はこんなにも苦しみあえぎ、救いを求めていたのです。

(天台の教学を極める。すべての人を救う。理屈ばかりそんなことを言って、俺は何も見てはいなかったのだ。この人たちを前に、ちまちまとした経典の解釈をやったり、小難しい法論を述べたところで、何になるのか。庶民はまさに今、飢え苦しんでいるのだ。私はそれを前に、何ができるのか。何もできない。無力だ)

法然はなりふり構わず駆け出し、庶民にまじって釈迦如来像の前にがばとひざまづき、

「この身、このままで救われる道を示したまえ」

わあーーっと慟哭していました。

その後、七日間の参籠を終えて、法然は南都へ向かいます。

南都遊学

南都では興福寺、東大寺をはじめとする寺院を訪れ、大歓迎を受けます。ことに法相宗第一の碩学とうたわれた興福寺の蔵俊(ぞうしゅん)は、法然の学識におどろき、「今後、貴僧のことを一生供養いたしましょう」と約束しました。

天台宗以外の仏教、法相宗や華厳宗、三論宗にも見識を深めたい、というのが法然の南都訪問の目的だったようです。ある程度の成果はありました。しかし、救いにいたる道を見出すには、やはり、至りませんでした。

(南都にも、私の求めるものはなかった…)

法然はむなしく、比叡山黒谷に立ち返り、ふたたび学問研究に没頭します。

この頃から法然に対し、「智慧第一」の評判が高くなります。ことに、摂関家の氏の長者である藤原忠通(保元の乱の勝利者)が法然を高く評価してから、周囲の見る目が変わってきました。これまで法然をバカにしていた者たちも、認めざるを得なくなりました。

しかし、そんなことでは法然の気持ちが満たされることはありませんでした。

保元の乱

この年、都では保元の乱が起こっています。鳥羽上皇の崩御にともない、かねてから対立関係にあった崇徳上皇と後白河天皇の兄弟の対立が一気に深まり、これに摂関家の内部抗争が結びついて、ついに武力衝突に到りました。

後白河天皇、崇徳上皇はそれぞれが源平の武士を招集し、崇徳上皇方がたてこもる鴨川の東白河北殿にて合戦が行われました。

京都の町中で、武士対武士の市街戦が行われるなど、平安京の歴史はじまって以来はじめてのことでした。いよいよ貴族の時代が終わり武士の時代が到来した…人々は肌で実感したことでしょう。

合戦は4時間で終結。崇徳上皇は讃岐に島流しとなり、崇徳上皇に加担した藤原頼長は戦死しました。後白河天皇方の、勝利です。

戦後、後白河の側近・少納言入道信西(しんぜい)が中心となってさまざまな政治改革をおしすすめますが、反対派に憎まれ、三年後の平治の乱で信西は殺害されています。

さて信西が殺害されたことが、めぐりめぐって法然の生涯を大きく転換させることになるのですが…

次回「求法」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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