法然の生涯(十三) 建永の法難

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住蓮と安楽

法然に二人の若い弟子がありました。その名を住蓮・安楽といいます。

住蓮・安楽は共に東山鹿谷に庵(鹿谷草庵)を築き、専修念仏の教えを説いていました。彼らはとても美男子で、声がよかったのです。

それも、六時礼賛といって、一日に六回決まった時間に、二人のリードで念仏を即興のリズムに乗せて唱えるのです。

「ああ住蓮さま、うっとりしちゃうわ」
「あら私は安楽さま派よ」

などと特に女性のファンが次々と感化され、浄土門徒になっていきました。

その中に、当の最高権力者・後鳥羽上皇の寵愛していた二人の女房の姿がありました。

「安楽さまの説かれる御仏の教えのなんと素晴らしいことでしょう。
「お姉さま、もういっそ、二人して出家しちゃいましょうよ」
「そうね。それが一番ね」

建永元年(1206年)12月、後鳥羽上皇が熊野詣で都を留守にしているスキに、松虫姫と鈴虫姫はひそかに京都小御所を抜け出し、出家してしまいました。

「なんということだ!わしの寵愛する女房を、
たぶらかしおって!!」

もともと後鳥羽上皇のもとには興福寺から、専修念仏を取り締ってほしいという奏上がたびたび届ていました。しかし宮中にも法然の信奉者は多く、後鳥羽上皇も慎重に考えていました。それが、この事件によって一転します。

浄土宗に対する激しい弾圧が始まりました。

住蓮と安楽は罪に問われ、住蓮は近江八幡で安楽は六条河原で斬首されました。

二人の女房(松虫・鈴虫)は瀬戸内海の島で念仏三昧の余生を送ったとも伝えられます。

現在、銀閣寺そばの「哲学の道」からちょっと東にはずれた所に、安楽の名を冠した「安楽寺」があります。

境内には住蓮・安楽の墓、二人の女房(松虫姫・鈴虫姫)の供養塔があり春と秋のみ一般公開公開されています。

安楽寺
安楽寺

島流しとなる法然

さらに後鳥羽上皇は監督不足であるとして、法然を土佐に島流しにすることにしました。時に法然75歳。

「法然さま、お体が心配です。
一時、専修念仏はとりやめてはいかがでしょうか」

「そうですよ。ほんの一時、それだけで
上皇さまのお気持ちもおさまるでしょう」

「何を言うか。遠く都を離れ、地方の人々に専修念仏を伝える、またとない機会である。これも、阿弥陀仏のお導きであろう」

「では、一時、念仏を称えることだけでもおよしください。
今は危険でございます」

「たとえ死刑となっても、念仏をやめることはできない」

この時、弟子の親鸞も越後へ島流しとなりました。建永2年(1207年)のことでした。この事件を建永の法難といいます。

すでに九条兼実は政権から退いており、権限が無かったので、法然を救うことができませんでした。いよいよ法然が都をたつ建永二年(1207年)3月16日前夜、九条兼実は東山法性寺(ほっしょうじ)で一晩中名残を惜しみ、惜別の歌を送りました。

ふりすててゆくは別れのはしなれどふみわたすべきことをしぞおもふ

私をお見捨てになって旅立っていかれるのは、今生の別れの始めとなるかもしれませんが、私は上皇さまに赦免状を奏上して、赦免の橋渡しをするつもりです。

法然の返し、

露の身はここかしこにと消えぬともこころはおなじ花のうてなぞ

露のようにはかない人の命はどこで消えてしまうかわかりませんが、浄土の蓮の台の上で再会することを同じ心に思っていきましょう。

九条兼実は、法然を救えなかったことによほど心を痛めたのか、この別れの後一月もせずに59歳で亡くなっています。

次回「土佐配流」に続きます。

解説:左大臣光永

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