法然の生涯(九)吉水

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回心

承安5年(1175年)43歳の法然は「専修念仏」の教えに行き着きました。

一心専念称弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者是名定之業、順彼仏願故

一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節を問わず久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく。かの仏の願に準ずるが故に。

一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を唱えることを、どんな時も時間の長い短いを問わず、心に留めてやめないことを、往生のための正しい行いと言うのだ。それこそが弥陀の本願にかなうことなのだから。

(そうだ。ただ阿弥陀仏のお名前を唱えること。それだけで、人は阿弥陀仏の救いにあずかることができるのだ)

その確信を得た法然は30年間を過ごした比叡山を下ります。以後、法然は二度と比叡山に戻ることはありませんでした。

西山 広谷

比叡山を下りた法然は、西山(にしやま)の広谷(ひろだに)に庵を結び、暮らし始めました。

西山の広谷がどこかというと、現在の京都府長岡京市・浄土宗西山派(せいざんは)の総本山・光明寺(こうみょうじ)から少し山を登った所です(ただし法然の庵の正確な位置は、不明です)。

光明寺 参道
光明寺 参道

光明寺 本堂
光明寺 本堂

広谷は地形が悪く湿気が多く、とても人が長く住むような場所ではなかったと言われます。それでも法然がこの地を選んだのは、一人の人物によってでした。

その名を遊蓮房円照(ゆうれんぼう えんしょう)といいます。

遊蓮房円照は法然より早く専修念仏(せんじゅねんぶつ)…極楽往生にはひたすら念仏するのが大事という考えにめざめ、念仏聖として西山で念仏三昧の暮らしをしていました。法然は円照と仏縁を結ぶべく、西山に庵を結んだのでした。

円照はかの少納言入道信西の第11男で俗名を藤原是憲(これのり)といいました。父である信西は保元の乱の後、後白河上皇のもとで急進的な政治改革を押しすすめ、そのことで反対派に怨みを買い、平治の乱で殺害されました。

父信西が殺された後、是憲は出家し円照と名乗り、広谷で念仏聖として念仏三昧の生活を送っていたのでした。

法然も幼い頃に父を殺害されているので、その点において通じ合うものがあったのかもしれません。

時には並んで念仏をすることもあったでしょう。

「なーむあみだーぶつ、なーむあみだーぶつ、なーむあみだーぶつ。あっ…おおお!」
「なーむあみだーぶつ、ぬ?どうされました、円照殿」

「見えました。今念仏していると、目の前に阿弥陀仏と、極楽浄土が」

などと、円照はたびたび念仏の中で「霊証」を得たと語っています。「霊証」とは一種の興奮状態の中、阿弥陀仏や極楽浄土のイメージを目の当たりに見ることです。

(やはり、ひたすらに念仏せよという教えは、正しいのだ)

円照との交流によって、法然の確信はいよいよ強まります。しかし、二年後の治承元年(1177年)円照は39歳の若さで亡くなってしまいます。それを看取ったのは法然でした。

「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏」

苦しげな息の下に九念まで唱えた円照を、枕元の法然が励まします。

「円照殿、もう一念!」

「な…なな…南無阿弥…陀仏…」

すっ…と円照は息を引き取りました。

浄土の法門と、遊蓮房にあへるこそ、人界(にんがい)の生をうけたる思出にはべれ

後年、法然は円照についてこう語っています。

浄土宗と、遊蓮房円照に会えたことが、この世に生を受けた思い出であると。法然と円照の交際はわずか2年間のことでしたが、法然は円照の人柄につくづくほれ込み、法然が専修念仏を確信する上で、貴重な交わりでした。

東山 吉水

治承元年(1177年)円照を看取った法然は広谷を後にし、東山吉水に移ります。広谷の庵を壊して、そのまま持っていきました。その場所は、現在の知恩院御影堂のあたりです。

知恩院御影堂
知恩院御影堂

吉水という地名は、円山公園の東北の円山安養寺の境内に湧きだす清水に由来すると伝えられます。

現在の、りっぱな知恩院からは想像もつかないですが、法然の庵は8畳から10畳程度の、ごく質素なものでした。後に門人が増えてきて西と東に新しい房を建てたので、まんなかの法然の庵は、中の房と呼ばれることになります。

法然は75歳で讃岐に流罪になるまでの三十数年間を、ここ東山吉水・中の房に過ごし、この地は浄土宗の中心地となりました。

「お念仏を唱えるだけで極楽往生できるんやて」
「ほんまかいな」

噂を聞きつけて、洛中洛外から人が集まってきます。身分のある人から庶民まで、法然はわけへだてなく接しました。その説法も、難しい専門用語を使わず、大らかな感じで、庶民にもじゅうぶんわかる、やさしい言葉で語ったのです。人気が人気を呼び、どんどん人が集まってきます。

「法然さま、わしら農作業で忙しいんです。一日の仕事でクタクタんなって、、
いざ念仏ちゅうことになっても、こっくりこっくり寝てしまいます。
どないしたらええでしょうか?」

「起きてから念仏されたらよろしい」

「法然さま、酒を飲むのは、悪いことなんでしょうか?」

「これは、本当はよくないんですが…酒を飲むのは世のならいですから」

「法然さま、百万遍念仏したら往生するといいますが、
その前に死んでしまったら、どうなりますか?」

「これは間違った考えです。百万遍でも往生できます。
十度でも、また一偏の念仏でも、往生できます」

「口を洗わずに念仏するのは、どうなんでしょうか?」

「問題ありません」

「にんにくや肉を食べて、まだ臭いが残っていてる時でもいいんですか?」

「念仏を唱えるのに差しさわりは、何も、ありません」

にっこりほほ笑んで、法然は大らかに答えるのでした。智慧第一と言われ、才気ばしってはいたがいつもイライラしていた、若い頃の法然の姿は、もうそこには、ありませんでした。

表情は丸くなり、常に大らかな微笑みが満ちていました。法然に接する人は、誰もが真綿に包まれるような、やさしさを感じました。

末法の世

一方、世の中はいよいよ騒然としてきました。さまざまな災害や社会不安が世を襲います。

治承元年(1177年)法然が吉水に移った年には、都の三分の一を燃やす「太郎焼亡」と呼ばれる火事が起こりました。またこの年、平家一門に対するクーデター未遂事件「鹿谷の陰謀」が発覚し、平清盛によって関係者が次々と捕えられました。

ついで恐ろしい辻風が吹き荒れました。また疫病が流行し、飢饉が発生し、路上には餓死者の死体があふれました。

治承4年(1180年)後白河法皇第三皇子・以仁王が打倒平家の令旨を発し、全国の源氏に挙兵を呼びかけました。これにより治承・寿永の内乱と呼ばれる源平の合戦が始まります。

人の心は荒れ、強盗殺人がはびこります。また地震が都を襲います。比叡山の僧兵はたびたび都に強訴し、人々は末法の世の到来を、実感しました。

次回「大原問答」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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