新選組(45)鳥羽伏見の戦い(一)

こんにちは。左大臣光永です。
正月もようやく終わりましたが、また脳の片隅に
正月の空気が霞とかかっているようなこの時期、
いかがお過ごしでしょうか?私はしばらく故郷熊本より
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さて本日は、新選組の第四十五回
「鳥羽伏見の戦い(一)」です。

王政復古の大号令

大政奉還は打算と自己保身の産物でした。

将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返しても、
自分の身柄は保障されるだろう。
新政府の中でしかるべき地位を与えられるだろうと期待していました。
少なくとも、自ら頭をたれてきたものを、
悪いようにはするまいという考えがありました。

しかし西郷隆盛・大久保利通らには別の考えがありました。

12月9日。

朝廷から王政復古の大号令が発せられます。

その内容は徳川家は400万石の領土と領民を天皇家に返上せよというもので、
慶喜の予想にまったく反した厳しいものでした。

ここには西郷隆盛・大久保利通の意見が大きく反映していました。
西郷・大久保は徹底して徳川は潰すぺしという考えでした。

しかし、徳川慶喜はここでグッと自分を抑えます。

新政府への恭順の意を示すため、慶喜二条城を出て大阪城へ移ります。

「余の一存で決められることではないので、
よくよく検討してから…」

…などと曖昧な態度を取りつつも、
慶喜の頭の中では自己保身のための計算がうずまいていました。

保身をはかる徳川慶喜

大阪城に移った慶喜はしきりに朝廷に使者を送り、訴えます。

「徳川の領土をすべて取り上げるというのは現実的ではない。
いや私個人はどうなってもいい。
しかし徳川の臣は無理矢理領土を奪われてどう思うか?

朝廷に恨みを持ち、薩長を敵と見て、
死に物狂いで戦うであろう。

戦が長引れば、多くの命が失われる。
国力も疲弊する。

そんなことになっていいのか。よくない。

それよりも、徳川の領土はそのままにして、
新政府の中で旧幕府にそれなりの地位を与えるのが、
現実的である。それならば、双方に恨みを残さず、
血を見ずして新時代を迎えることができるではないか」

慶喜の主張はだいたい、こんな内容でした。

「なんという自己保身。
これが徳川最後の将軍とは!
家康公も草葉の陰でさぞお嘆きであろう」

そんな、せせら笑う声もある一方、

「いや、たしかに無駄な戦が
避けられるならそれに越したことは無い。
徳川の臣に新政府における一定の地位を与えるのは
現実的な策である」

という意見もありましたが、

「いいや、徳川は徹底して潰すべきである。
でなければ新政府はならぬ」

そう強く主張したのが、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らです。

薩摩の挑発

中にも西郷隆盛は、慶喜の思い通りにはさせじと、
旧幕府側を挑発する策に出ます。

益満休之介(ますみつきゅうのすけ)・
井牟田尚平(いむたしょうへい)ら薩摩藩士を江戸に遣わし、
500名の浪人を使って江戸の市中で乱暴狼藉を働かせました。

さんざん飲み食いして、じゃ、あばよ。
お客さま、お勘定は。ああん。勘定とはなんだ。
新しい時代だぞ。御一新である。御一新であるのだから、
勘定なんて、そんな古い法は知ったことか。
そんなメチャクチャな。なんであるか。文句があるなら、たたっ斬るぞ。
ひいい。などと…暴れまくりました。

その上益満休之介らは江戸の治安維持にあたる
庄内藩の屯所に鉄砲を撃ち込みます。

ここに庄内藩士たちの怒りが爆発します。

「薩摩のやり方の汚さよ」
「ここまでやられて何もしないでは、武士の名誉にかかわる」

薩摩藩邸 焼き討ち事件

慶応3年12月25日。

庄内藩士たちは三田の薩摩藩邸前に大砲をすえて、ぶっ放ちます。

ドコーーン

「薩摩のカン賊ども、覚悟ーー」

ワァー、ワァーー

「おのれ徳川の犬どもが」

キン、カン、キキーーン

江戸の薩摩藩邸は双方数百名が入り乱れての大混戦となり、
薩摩側は50名あまりが討ち死にしました。

この頃、徳川慶喜は大阪にあって
新政府で一定の地位を保障されるための工作をしていました。

徳川が所領する400万石からの収入を新政府の運営資金にあてる見返りに、
新政府においてそれなりの地位を保証される、というものです。

ようは、金で地位を買ったのです。

ようやく一安心と胸をなでおろす徳川慶喜。

そこへ、早馬の使者が到着します。

「江戸で庄内藩士が薩摩藩邸を焼き討ちにしました!」

「な…なんじゃと」

真っ青になる徳川慶喜。

ようやく新政府における足場が
確保できそうになっていた矢先にです。
ぶち壊しになってしまいました。

薩摩藩邸焼き討ちの知らせは、
ほぼ同時期に新政府側にも届いていました。

「したり!」

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らは大喜びします。
これで、旧幕府軍を根絶やしにする大義名分が立ったのです。
また西郷・大久保らは徳川つぶしにやっきになっていた筆頭だけあって、
もし慶喜が期待に反して新政府の中で重要な地位をしめてしまうと、
西郷・大久保のその後の立場が危なくなることは目に見えていました。

そこに、勝手に向こうから暴発してくれたのです。
西郷も大久保も笑いが止まらなかったことでしょう。

しかし、新政府以上にわきたったのは旧幕府側でした。

「江戸の同志に続け!」
「これ以上薩長の好きにさせておけぬ!」
「今こそ家康公以来の恩義に答えるとき」

もはや暴発は避けられない勢いでした。

「トホホ…余計なことをしおって」

ヘナヘナと肩を落とす徳川慶喜。

わが身かわいさに必死に自己保身を続けてきて、
いよいよその地固めができかけた時、臣下の者の暴発で、
こんなことになったのです。

もはや戦いは避けられなくなりました。
慶喜の、もっとも望まない筋書きとなりました。

両軍の布陣

慶応四年(1868年)元旦。

徳川慶喜は薩摩を打つべく、
「征薩の表」を発し、諸藩に協力を呼びかけます。

1月2日。

老中格・大河内正質(おおこうち まさただ)を総督に、
若年寄並・塚原昌義(つかはら まさよし)を副総督にした
1万五千の兵力が大阪を出て京都を目指します。

軍勢は淀でいったん終結し、ここに大本営を置きます。

一方、会津藩兵を中心とする旧幕府軍は
伏見に集結し、伏見奉行所を本営としました。

その中に新選組も加わっていました。

近藤勇は昨年末に篠原泰之進らに襲撃された際、
肩を負傷していたので土方歳三が指揮をとります。

「なに!旧幕府軍が大阪を動いた!?」

その報告は、すぐに京都の新政府側に届きます。

「どうあっても、徳川をつぶさねば、
新時代は始まりません」
「一気に、叩くべきです」

西郷隆盛・大久保利通はしきりに岩倉具視らの公卿に働きかけ、
その日のうちに旧幕府側を追討する決議を得ます。

「戦だ。もはや戦は避けられん!!」

最初の砲撃

鳥羽では桑名藩兵や京都見廻組からなる
旧幕府軍が鳥羽街道を北へ軍勢を進めていました。

これに対して新政府側は薩摩藩兵を中心として
鳥羽街道の基点である四塚関門から南へ向けて軍を進め、
鴨川にかかる小枝橋を渡りました。

鳥羽街道を北へ向かう旧幕府軍。
同じく鳥羽街道を南へ向かう新政府軍。

両陣営は午後4時頃、赤池(現千本通赤池)で向かい合います。

「それがしは幕府大目付・滝沢具挙(たきざわともたか)である。
我々は慶喜公の無実を朝廷に訴え、君側の奸を除かんがため、
京都に上ろうとしているのである。
通されよ」

それがしは薩摩藩士椎原小弥太(しのはらこやた)と申す。
貴官の訴え、笑止なり。
われわれは天子さまの勅命を受けて、
そのヨシノブを追討せんとて来たのである」

「ぐぬぬ。ではどうあっても通さぬか」

「通さぬ」

「かくなる上は、武をもって押し通るまで。
続けや殿原」

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ

駆け出した後から、「続けーー」

旧幕府軍がいっせいに駆け出したのを見て薩摩軍は、

「打てッ、打てーーーッ」

狙いを定めて待機していた大砲がいっせいに、

ドーン、ドンドン、ドーーーン

いっせいに火をふきました。

戊辰戦争の始まりです。

次回「鳥羽伏見の戦い(二)」に続きます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永