近藤勇の少年時代

こんばんは。左大臣光永です。二月に入り、心機一転
新しい気持でお過ごしの頃でしょうか。
私はだいぶ風邪が直ってきました。しばらく病に伏せると
健康体のありがたさがしみじみ実感できますね。

さて、今回から数回に分けて
新選組の話をお届けします。

私は大学時代、板橋の近藤勇の墓の真横にある
マンションにあるデザイン事務所でバイトしていましたので、
近藤勇には深い思い入れがあります。

近藤勇の、有名な腕を組んで座っている写真がありますね。
いかにも、そのへんにいそうな、愛想のいい兄ちゃんという
感じがします。どうにも、この顔が、そのへんの工事現場で、
現場監督をしてそうな、そんな気がしてならないのです。
愛着をおぼえます。

▼音声が再生されます▼

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近藤勇像
近藤勇像(ミカンがお供えしてありました…)

近藤勇の出生

後の新選組局長近藤勇は、天保5年(1834年)10月9日、
現在の東京都調布市野水に位置する、
武州多摩群上石原村の農家宮川家の三男として生まれます。

父は久次郎(きゅうじろう)。母はみよ。
上に音五郎と粂次郎という二人の兄がいました。
他に姉一人妹二人がいましたが、この三人は幼い頃に亡くなっています。

近藤勇の幼名を勝五郎と言いました。近藤の生家宮川家は
近藤の父久次郎の代で財をなして中流農家となっており、
生活には余裕がありました。

調布 龍源寺の近藤勇像
調布 龍源寺の近藤勇像

調布 近藤勇生誕の地にある近藤神社
調布 近藤勇生誕の地にある近藤神社

調布 近藤勇生誕の地にある近藤神社
調布 近藤勇生誕の地にある近藤神社

近藤勇 産湯の井戸
近藤勇 産湯の井戸

軍談

父久次郎は農民ながら名を久次と武士風に呼ばせていたほどで、
気位が高く、子供たちにも、
お前たちは立派な武士になるんだぞといいきかせていました。
そして幼い頃から子供たちに軍談を語り聞かせていました。

父の活き活きと語る源義経や楠正成、
加藤清正、張良、韓信、…

中にも幼い勝五郎(近藤勇)がもっとも胸躍らせたのが、
関羽の活躍でした。

「その時!関羽は!長い髭をたなびかせて敵陣の中にただ一騎駆け込み、
われこそは袁紹配下にその人ありと聞こえた顔良字は…
と名乗りも果てまで言わせず、ズバァーーとふるう一閃の青龍偃月刀のもと、
武将顔良をまっぷたつに切り伏せ、その首を持って
バカラバカラバカラバカラ…」

などと、幼い勝五郎を膝に乗せて語るのでした。

ある時、勝五郎は父にききました。

「お父、関羽は今、生きているの?」

「それがな、悲しい話だが…関羽はあの立派な性格がわざわいして、
ズルい奴らに殺されちまったんだ!だがな、関羽は最後まで蜀の国に
忠義をつくして、立派に散っていった。まさに武士の鑑だ!
勝五郎。お前もきっと、関羽みてえな立派な武士になるんだぞ」

「うん。おいら、立派な武士になる」

幼い勝五郎は目を輝かせました。

時勢

農民の子が武士になる。

本来、ありえない話ですが、時代は大きく動いていました。

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーが
浦賀に来航し開国を迫り、
この時から世論は二つに割れます。

「開国だ」
「いやいや、外国人など、打ち払え」

しかし、議論の決着もつかない安政5年(1858年)、
大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を待たずに
日米修好通商条約を結び勝手に開国してしまいます。

時の孝明天皇は攘夷論者であり、伊井の独断に対してお怒りになります。

「朝廷の許しを得ず勝手に開国するとはけしからん」

孝明天皇のお怒りを受けて、公卿や大名、
尊皇攘夷派の志士たちも井伊直弼許すまじと怒りを高めていきます。

そこで井伊直弼は反対派の大弾圧をはじめます。
安政6年(1859年)8月、安政の大獄です。

尊皇攘夷派の大名に謹慎・蟄居などを命じ、
吉田松陰など尊皇攘夷派の志士たちの多くを死罪にしました。しかし、

「伊井の言いなりは、もう、ごめんだ!」

井伊直弼による弾圧に腹を立てた水戸浪士らは、
万延元年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で、
井伊直弼を斬り殺します。桜田門外の変です。

変わって幕政を担当した老中安藤信正(のぶまさ)は、
朝廷と幕府の接近をはかる公武合体を推進し、
孝明天皇の妹和宮(かずのみや)と
徳川家茂(いえもち)の縁組をすすめました。

しかし文久2年(1862年)1月15日、
まだこの縁談が成立する以前に、
安藤信正は江戸城坂下門外で襲撃され(坂下門外の変)、
負傷し、国政から退きます。

その後も「天誅」と称して尊皇攘夷派の志士による
幕府要人や開国派の殺害が相次ぎました。

江戸も、京都も、治安がいちじるしく悪化していました。

「徳川の世も、もはや泰平ではない…」

多くの人が、肌で感じていました。

入門

そんな時勢の中、

父久次郎は自宅を道場として、
三人の息子たちに剣術の修行をさせていました。

また市谷で道場「試衛館」を開いていた
天然理心流の三代目・近藤周助が
たぴたぴ宮川家まで来て出稽古をつけてれました。

エイ、ヤア
エイ、ヤア

宮川家からは表まで元気な稽古の声が響いていました。

嘉永元年(1848年)15歳になった勝五郎は、
近藤周助の道場「試衛館」に正式に入門します。

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡 付近

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡 付近

試衛館道場跡 付近
試衛館道場跡

翌嘉永2年(1849年)には目録を与えられます。

一年で目録を与えられるというのは、
勇の剣の素質の高さを示しています。
ふつうなら3、4年かかるものでした。

「キェーーー」

勇の声は立会いにおいてはカン高く、
しかも腹の底から出る鋭い声で相手の腹にぴいーんと響きました。

ふだんはごく細く低い声なのに、
立会いとなると急に調子の高いするどい声となりました。

また勇は口が大きく眉が迫っているがいつもニコニコ笑顔で、
顔が大きいわりに両方の頬に笑窪があるので、
やさしいかんじがありました。

よく自分の拳を口の中に入れたそうです。

「近藤さん、あぶないですよ。アゴがはずれちゃいますよ」

「なに、加藤清正は、俺みたいに口が大きくて、
こんなふうに自分の口に拳を出し入れしたというぞ。
俺も加藤のように出世したいものだ」

そう言って、ガボガボと拳を口に出し入れするのでした。

次回「近藤勇の盗賊退治」です。
お楽しみに。

解説:左大臣光永