新選組 第21回「新選組誕生」

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「新選組」の名を賜る

文久三年九月。

芹沢鴨の一派が壬生浪士組から一掃され、近藤勇がただ一人の局長となった頃、会津候松平肥後守容保より、近藤勇にお召出しがありました。

ここは黒谷・金戒光明寺。会津候の屯所。

黒谷 金戒光明寺
黒谷 金戒光明寺

黒谷 金戒光明寺
黒谷 金戒光明寺

黒谷 金戒光明寺
黒谷 金戒光明寺

「昨今のそのほうらの働き、まことに目覚ましきものがある。余も京都守護として誇らしく思うぞ。それにしても…芹沢のことは気の毒であったな。あれほどの有為の士が、賊に討たれてしまうとは」

「ははっ…」

芹沢鴨はつい先日の夜、壬生の八木邸で沖田総司、山南敬介、原田左之助、土方歳三らの襲撃を受け、仲間の平山五郎とともに討たれました。享年32(享年は諸説あり)。

土方らに指示を出したのは近藤であり、近藤に指示を出したのは会津候松平容保だったと思われますが、あくまで、「賊の手にかかった」ということで処理されました。

「それでな、いつまでも壬生浪士組と呼んでいるのも何であるから、新しく隊の名前を授けたい。以後、新選組、と名乗るがよい」

「新選組…?」

新選組とは、寛政年間(1789-1800)に存在した会津藩の精鋭部隊で、武力に優れた藩士の子弟で構成されていました。その後世の中が平和になり消滅しましたが、まさに最強の剣客集団にぴったりの名前です。松平容保候より新選組の名の由来を説明されて、近藤は感涙にむせびます。

「重ね重ねもありがたきは会津候のご恩。われら、これより新選組と名を改め、ますます会津候のために尽くす所存でござります…」

「おおお、新選組」

「新選組か、なんか…ものすごいのう!!」

新選組の名を会津候より賜り、がぜんいきり立つ隊士たち。

攘夷実行されず 高まる不満

しかし、新選組に任じられる仕事はその後も日々の市中見回りばかりでした。治安維持。そういえば聞こえはいいですが、こんなことは本来町奉行所がやればよいことで、最強の剣客集団である新選組がわざわざやる仕事でもありませんでした。新選組と名は変わっても、やっている事は何も変わりませんでした。

(これでよいのか…)

近藤勇の気持ちは、すぐれませんでした。芹沢鴨を粛清してまで新選組を一手に握り、これが、自分のやりたかったことなのかと。

そもそも京都に来たのは将軍徳川家茂の護衛をするため。そして攘夷のさきがけとなるためでした。しかし、将軍家茂はなかなか上洛せず、やっと上洛したかと思うとすぐに江戸に戻ってしまいました。攘夷を行うそぶりもありませんでした。

翌文久四年(1864年)正月。将軍家茂は再び上洛しますが、やはり攘夷を行うそぶりもありません。攘夷のさきがけとなる。その願いはかないそうにもありませんでした。幕府はすっかり開国論に傾いていたのです。

2月に改元あって元治元年。

(そろそろ潮時か…)

5月3日。近藤勇は会津藩を通して老中に願い出ます。

「市中見廻りなどは別に我々のやることでもありません。攘夷を行わないなら、新選組の意味がありませんので、解散させてください」

「なに解散。バカな。せっかく出来た新選組ではないか。京都の治安維持には貴君らが不可欠なのだ」

「しかし…」

「まあまあ、攘夷のことは、そのうち機会もあろうから…」

結局、なあなあにされてしまいました。近藤としては、新選組の解散をちらつかせることで幕府に攘夷を行うことを迫れたら…という考えもありました。しかし幕府はすっかり開国論に傾いており、攘夷を行うそぶりもありませんでした。5月16日、将軍家茂は江戸に戻っていきます。

この頃から、新選組にいても攘夷はできないと見て、脱退者が相次ぎます。新選組の掟では脱退は許されませんが、これでは、無理も無いと思うのでした。

(我々は何をしに京都まで来たんだ…)

このまま行けば、近藤は重ねて幕府に願い出て、その時点で新選組は歴史から消えていたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。

これからわずか一か月後、幕末史に残る、あの大事件が起こります。

次回「新選組 第22回「池田屋事件(一)」」お楽しみに。

解説:左大臣光永

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