新選組 第46回「鳥羽・伏見の戦い(二)」

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鳥羽・伏見の戦端開く

慶応四年(1868年)正月3日。

鳥羽街道赤池の地で、旧幕府軍と新政府軍との戦端が
開かれました。

ドゴーーーン

ドゴーーーン

ぎゃああ、ぐぎゃあああ

薩摩軍の放った大砲が、旧幕府軍に至近距離で
命中し、多くの者がふきとびます。

「ひるむな!」

旧幕府軍の竹槍部隊がワアーーッと攻めかかり、そこへ
ドカーン、ドカーーンと炸裂する薩摩の大砲。

新政府軍、旧幕府軍入り乱れ、ここ鳥羽街道沿いの赤池の地で、
激しい戦となります。

一方、伏見にも、鳥羽街道の砲撃の音は響いていました。

土方歳三率いる新選組は、

「ついに始まったな」
「おのれ、薩長の連中に、思い知らせてやる」

バカーーン

伏見奉行所の扉を開き、新選組は会津藩兵とともに

ウォーーー、ワァァーーー

ときの声を上げ、新政府軍の中に切り込んでいきますが、

ドドーーン、ドドーーーン

新政府軍は次々と砲撃を浴びせかけ、

タターン、ターン、タターン

重ねて銃撃を浴びせ、

ぎゃああ、

ひいいい、

新選組、会津藩兵、幕府歩兵隊からなる旧幕府軍は
なすすべもなく、あそこに、ここに、破られました。

戦いは深夜まで及びます。

「これ以上の戦いは無理」
「くっ…無念じゃ」

死屍累々と横たわるを見て
旧幕府軍は抵抗を断念。
淀城へ向けて撤退を開始します。

この戦において、新政府軍は最新式の西洋式軍装と
武器を身に付けていました。そのためわずか800人ばかりが
巧みに戦うことができました。

一方、旧幕府軍も徳川慶喜がフランスびいきだった
ことであり、最新式の軍装・武器を持ってはいたものの、
これをうまく使いこなせる指揮官がおらず、現場が混乱したことが
敗因となりました。

旧幕府軍 総崩れ

翌4日、旧幕府軍総崩れ。

5日、旧幕府軍はさらに撤退し、淀城に入ろうとするも、
淀城の城門は堅く閉ざされ、
中に入れてもらえませんでした。

「おのれ、我らを見捨てるのかーーッ!!」

淀藩主稲葉正邦は、戦乱が藩内に持ち込まれることを嫌って、
旧幕府軍を見捨てたのでした。

旧幕府軍一行は、やむなくは淀城を離れ
男山・橋本まで退却しますが、行き場を失い、見捨てられたことで
士気の低下は著しく、脱落者も多くありました。

6日。

新政府軍が敗走する旧幕府軍を追撃してきました。

ドドーーン、ドドーーーン
タターン、タンタン、ターン

激しい砲撃・銃撃の前に、次々と倒れていく旧幕府軍。

千両松の戦い

その中に新選組は千両松に布陣し新政府軍と向き合いました。
見廻組の佐々木只三郎が、かかれと
先陣を切って駆け出しますが、

タターン、タン、タターン

長州の銃撃を全身に受け、戦死します。

「新選組、前へ!!」

ウワーーーッ、ウオーーーッ

土方歳三の指揮のもと新選組も駆けていきますが、
タターン、ターン。ぎゃあ。ターン、タタタ
ぐぎゃあ。あそこに撃たれ、ここに撃たれ、

この戦で副長助勤井上源三郎、山崎蒸はじめ、
生え抜きの隊士だけでも30名が命を落とし
新選組は実に人数の三分の二を減らしました。

その上、味方であった津藩が裏切り、側面から
旧幕府軍に銃撃をしかけてきました。

「もはや、どうにもならぬ…」

この時土方歳三は、槍や刀で鉄砲や大砲に立ち向かうことの
おろかさを、身をもって悟りました。

徳川慶喜 逃げ出す

旧幕府軍はぼろぼろになって、大坂城まで撤退します。

大坂城 復元天守
大坂城 復元天守

徳川慶喜はこの戦いの間、ずっと大坂城にこもって
情勢を見守っていましたが、その徳川慶喜の前にかしこまって、
旧幕臣たちが報告します。

「鳥羽伏見の戦には破れました。しかし…
必ずや体勢を立て直し、薩長のカン賊どもに、
目に物みせてごらんに入れます」

それを聞いて徳川慶喜は思うのでした。

(頼みもしない戦を勝手にをはじめた上に、
まだ戦うじゃと?このバカどもが。
これ以上大坂城にいると、わしの立場まで危うくなる!!)

心にそう思いながら表面には、

「うむ。そのほうらの忠義、嬉しく思うぞ。
すぐに戦の準備をいたせ。こたびは余みずからが
出陣しようぞ」

「おお!なんとありがたい」

などと味方をまず欺き、その夜、徳川慶喜は、

老中板倉勝静(いたくらかつきよ)、酒井忠惇(さかいただとし)、
会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(まつだいらさだあき)ほか
数名の側近を引き連れてひそかに大坂城を抜け出し、
大坂天保山沖に停泊中の軍艦・開陽丸に乗り込みます。

「ああ…味方を見捨てての敵前逃亡!
後世が我々を、どれほど非難するでしょうか」

「やかましい!後世など、どうでもよいわ。
このようなくだらん戦に付き合いきれるか」

と口には出さないものの、徳川慶喜の本音としては、
そんな所だったではないでしょうか。

開陽丸は江戸を目指して出航します。

瓦解する幕府軍

大坂城では大騒ぎになっていました。

「大将が逃げた!」
「ばかな!そんなこと、ありえるか」

しかし、事実、
徳川慶喜は味方を捨てて、逃げ出したのでした。

「何のための戦だ」
「やってられねえ!」
「やめたやめた。もう国に帰ります」

誰も彼も戦意を失い、大坂城を出て、勝手に散っていきました。

翌七日。

朝廷から徳川慶喜追討令が出されます。

九日。長州軍が大坂城を接収。
十日。徳川慶喜の官位剥奪。領土没収。

徳川慶喜と旧幕臣は、これで完全に、朝敵となりました。

十二日。

新選組は近藤勇・土方歳三以下
順動丸・富士山丸に分乗し、
将軍の乗った開陽丸を追って、江戸へ向かいました。

150名の隊士のうち20数人の戦死者と行方不明者を出し、
残っているのは116名でした。

次回「新選組 第47回「新選組 江戸へ」」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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