御陵衛士

こんにちは。左大臣光永です。
秋の味覚もいろいろと楽しみな昨今、いかがお過ごしでしょうか?
私は『論語』を読むためのソフトウェアを発売するために、
ここ一週間は大変でした。ようやく準備が整いました。
中国語・現代語訳・書き下し朗読つきで、近日発売いたします。
お楽しみに。

さて本日は新選組の第40回、
「御陵衛士」です。

御陵衛士 結成

慶応三年(1867年)3月20日。

新選組から分離した伊東甲子太郎以下15名は西本願寺の屯所を出発し、
その夜は三条城安寺に泊まります。

翌21日、五条大橋たもとの善立寺(ぜんりゅうじ)に入り、ここを屯所と定めます。

「さあみなさん、今日からは私たちの新生活が始まるのです。
ともに尊王攘夷のサキガケとして、君のために尽くしましょう」

「伊東さん、それはそうと…
御陵衛士(ごりょうえじ)というのは具体的に何をやる仕事ですか?」

「孝明帝の陵をお守り申し上げる。尊い仕事です。
といっても…さしあたって何かやることがあるわけでは
ありません。まあ、しばらくはぶらぶらしていてください」

「………」

眉をしかめる斉藤一。

斉藤一は無口な、剣術の達人で、
近藤勇とは試衛館道場以来の同志です。

伊東甲子太郎一派が新選組を離れるにあたって
同じく試衛館道場からの同士である藤堂平助とともに
伊東に従ってきたものでした。

しかしその実は近藤勇の密命をおびており、
伊東の動きを監視する間者でした。

そして伊東は斉藤をまるで疑わず、
すっかり信じていました。

御陵衛士の仕事は孝明天皇の陵を守ることですが、
それは名目上のことで、すぐに伊東は各地に出かけ、
薩摩の大久保一蔵(いちぞう)など、
薩長の志士たちと交わりを持ちます。

尊王攘夷のサキガケとなる。

いよいよ伊東の当初の目的が
形になってきたかに、見えました。

(そうだ。私がやりたかったのは、
こういうことだ。新選組は、やはり私の居場所では
なかった…)

東山 高台寺

同年6月8日。

御陵衛士は東山高台寺の塔頭月真院に屯所を移します。

高台寺の塔頭月真院
高台寺の塔頭月真院

「ああ…もう萩が咲いてるんですね」
「はい。この寺の萩は、見事ですよ」

風流人の伊東は庭先の萩を見て、
ほがらかな顔をします。

門前には「禁裏御陵衛士屯所」の表札を掲げました。

高台寺は豊臣秀吉の北の政所・高台院が
住んだところで、臨済宗の古刹です。

京都で産寧坂を歩いたことがある方は、
きっと高台寺も通ったことがあるはずです。

産寧坂
産寧坂

しかし、あまり目立たない小さな寺ですので、
見逃してしまう方も多いことでしょう。

清水寺観光の後なんかによく通る道に、
ひっそりと立っているのが高台寺です。

高台寺
高台寺

高台寺
高台寺

高台寺
高台寺

伊東甲太郎は弟の三樹三郎、側近の篠原泰之進らと共に
尊王攘夷派の志士と交わる一方、業務そのものは暇ですので
たびたび茶屋に飲みに出かけました。

伊東以下、黒縮緬でシャキンと決めており、特に伊東は
もともと美男子だけあって、そぞろ歩く姿は役者のようでした。

「あれ、伊東先生やわ」
「まあ伊東先生、ええ男っぷり」

などと女性にもモテモテだったことでしょう。

新選組 幕府直参となる

一方、新選組は、
伊東らが東山高台寺塔頭月真院に入った2日後の
慶応三年6月10日、幕府直参に取り立てられます。

これまで新選組は会津公預かりという不安定な立場でしたが、
ようやく5年間にわたる働きが認められ、
幕府直参となれたのです。

「とうとうここまで来ましたか」
「うんうん、ようやくだよ」

祝宴を挙げながら、共に歩んできた新選組結成以来の
道のりをしみじみ思い返す隊士たち。

近藤勇は見廻組与頭(くみがしら)格として
三百俵の旗本となり、

土方歳三は見廻組肝煎(きもいり)格として
七十俵五人扶持、

土方歳三は見廻組格として
七十俵三人扶持。

平隊士たちも、見廻組各で
十人扶持を与えられました。

(とうとう新選組も幕府直参か…)

つくづく、近藤勇には感慨深いものがありました。

実はずっと以前にも新選組を幕府直参に、
という話がありました。

初代局長芹沢鴨が暗殺された直後のことです。

しかし近藤は、その誘いを断りました。

当時、まだ近藤には幕府に尽くすよりも
尊王攘夷を行いたいという気持ちが強かったのです。

しかし、この4年で
時勢はすっかり変わりました。

幕府はすっかり開国に傾き、
もう尊王攘夷など忘れてしまっていました。

新選組はもともと尊王攘夷を旗印に
結成した組織であったのに、すっかり
幕府を助ける、佐幕の組織となっていました。

新選組にいても尊王攘夷を行えないと見て、
失望して去っていく、伊東甲子太郎のような
者も多くありました。

幕府の力が衰え切っていることは、
誰の目にも明らかでした。

15万の幕府軍が、わずか1万の長州軍に撤退させられたのです。

もはや幕府の力は地に落ち、薩長の世の中に
なろうとしていることは誰の目にも明らかでした。

この時点で幕府直参になるということは、
どう考えても、愚かでした。損なことです。

しかし、それでも、むしろこの時点だからこそ、
近藤は幕府直参になることを承諾したのでした。

(滅びゆく徳川に殉じる。
それで、よいではないか。
誰も彼もが利に走り、旧主を裏切り、旧恩を忘れる中、
最後まで徳川に忠義を貫いた男たちがいたことを
薩長の連中に、その記憶に、刻み付けてやろうではないか)

斉藤一 動く

一方、伊東甲太郎はあせっていました。

薩長の尊王攘夷派の志士たちと交わりを持てば持つほど、
「元新選組」という肩書が、足をひっぱるのでした。

「新選組?ぶるぶる…
あんたはんも、池田屋でぎょうさん殺しなすったんか」

「うまいこと言うて、
新鮮組の間者とちゃうんか」

はっきり口には出さないまでも、
どこへ行ってもこのような態度をされるのでした。

(これではいけない。元新選組が足をひっぱって、
認めてもらえない。尊王攘夷のさきがけとして、
何か大きな手柄を立てないと…)

その上、慶応三年(1867年)10月14日には
将軍徳川慶喜が大政奉還ということで
260年来の政権を天皇家に返上しました。

新しい時代が始まろうとしている…。

ここで乗り遅れたら、一生浮かび上がれない。
旧時代の象徴たる新選組の影は、
断ち切らなければいけない。

伊東甲太郎は同士を集め、
計画を打ち明けます。

「近藤勇を殺害し、新選組を乗っ取りましょう」

「…なんと!!」
「伊東先生、本気ですか!」

「時勢がこうも勤王派に優勢となってくると、
ぐずぐずしてはおられません」

「しかし、近藤のそばには
土方歳三、沖田総司、永倉新八という
強者が控えています。正直、われらごとき
太刀打ちできませんぞ」

「ぐぬぬ…」

そう言われると、実戦経験の浅い伊東甲太郎は
口ごもるしかありませんでした。

その時、無言で寝そべっていた斉藤一が
むくりと起き上り、

「先生、その仕事、私にお任せください」

「な!斉藤さん」

「私が新選組の屯所前に、
乞食の格好をして張り込みます。

近藤が出てきた所でこの…
仕込み杖をもって、一息に殺ってしまいます。

ただし近藤も聞こえた腕達者。
斬られながらも拙者に一太刀あびせかけるでござりましょう。
だが、たとえ相打ちとなっても、必ず仕留めてごらんに入れます」

(この男でもこんなに長い言葉をしゃべることがあるのか…)

伊東甲太郎はじめ御陵衛士の面々は、言葉の内容に加えて、
ふだん無口な斉藤一がとうとうとまくし立てたことにも
驚きを覚えます。

伊東は大いに喜んで、

「斉藤さん、貴君の志、痛み入ります。万一のことあれば、
後生のことは、必ず立派にお弔いいたします」

がしと斉藤一の手をつかみ、涙にむせぶ伊東甲太郎。
伊東は斉藤のことを、信用しきっていました。

次回「油小路の血闘」お楽しみに。

解説:左大臣光永