新選組 第50回「流山の落日」

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

永倉新八と原田佐之助

鉄の結束を誇った新選組でしたが、
その秩序は、もはや完全に崩れていました。

慶応4年(1868年)3月。

甲州勝沼の戦い後、近藤勇と決裂した
永倉新八は、数百名で靖共隊を組織し、
近藤らとは別に戊辰戦争を戦うこととなります。

原田佐之助はすぐに永倉の後を追いかけて
合流するつもりが、官軍にはばまれ合流できませんでした。

その後、原田は彰義隊に加わり、
上野戦争で官軍と戦い、討死することになります。

板橋駅前
板橋駅前

近藤勇像
近藤勇像

五兵衛新田で再起をはかる

(去る者は去れ。今はやるべきことをやるのみ)

近藤は隊を立て直した末に佐幕派の雄、
会津藩と合流するつもりでいました。

3月13日、近藤・土方らは武州足立郡
五兵衛新田(ごへえしんでん 現足立区綾瀬)の
大農家・金子健十郎邸に入り、隊士を募集します。

集まった者、227名。

金子邸は三千坪の大農家でしたが、227名の
兵士がごったがえし、大変なことになりました。
宿所だけでは足りず、金子家の菩提寺観音寺や近くの農家、
馬小屋も借りて兵士を泊まらせました。
兵士はよく食うので、まかないも大変でした。

この時、近藤は名を大久保大和と改め、近藤勇の名は
隠していました。家を提供した金子健十郎も、まさか
この男がかつての新選組局長近藤勇だとは知らずにいました。

流山で出頭

4月1日、大久保大和こと近藤率いる一行は会津を目指して
五兵衛新を後にします。

五兵衛新田から西へ向かい、葛飾区新宿(にいじゅく)から
水戸街道に入り江戸川を渡って松戸を経て流山に至ります。

次の拠点、宇都宮へ移動するまでの中継点です。

翌4月2日全隊士が流山に集結しました。
流山では味噌屋の屋敷を借りて本陣を置き、
光明院という寺をも宿所にしました。

一方、新政府軍も宇都宮攻略をもくろんでいました。

板橋から日光街道を北上して千住に入り、
4月2日、粕壁(現春日部)に入ります。

4月3日。

新政府軍に武装集団蜂起との知らせが入り、偵察のために
一部隊が流山に向かったところ、流山の宿所では
甲陽鎮撫隊が新兵に訓練を行っていました。

「あっ!きさまら、こらっ!何をしておるかーっ」
「ひいい!」「うわああ!」

新兵たちは実戦経験の無い寄せ集めの烏合の衆です。
突然の新政府軍乱入にパニックに陥り、
散り散りになって逃げていきました。

後には250挺の銃が残されました。

流山は新政府軍によって完全包囲されます。

隊士たちは訓練のために外に出ていたところで、
本陣には近藤、土方ほか数名しか残っていませんでした。

「どうするトシ?」
「俺に任せろ」

土方歳三は供の者を二名連れて本陣を出ます。
陣羽織をはおった薩摩藩士が、じろりと土方をにらみつけます。

「それがしは薩摩藩士有馬藤太と申す。
そのほうら、何者じゃ」

「私は幕臣の内藤隼人と申します。
江戸面から歩兵が逃げ込んできて、このあたりで暴れており、
また農民が一揆をおこすのでこれらを取り締れと、
幕府の命を帯びてまいったのです」

「幕府?幕府なら江戸で恭順しておるではないか。それに
武士や農民の鎮撫ならば、われわれ官軍総督府の役目である。
そのほうらの預かることではない。
即刻武器を差し出して恭順すればよし。
さもなくば誅罰を加ねばならぬ」

話になりませんでした。

土方歳三はいったん本陣に引返し、
近藤に事の次第を報告すると、近藤は言います。

「もはやどうにもならぬ。
この上はいさぎよく、自刃するまで」

「近藤、ここで死ねば犬死にだ。腹ならいつでも切れる。
まず板橋へ行き、あくまでも幕臣の大久保大和として、
潔白を訴えるのだ。新選組の正体がばれていないなら、
どうとでも、やりようはある。
いいか、新選組はまだ負けてはいない。
俺たちの新選組は、まだ負けてはいないのだ」

「トシ…そうだな。
俺たちの新選組は、まだ負けてはいない」

土方は近藤が出頭している間に手をまわし、
救出するつもりでいました。

板橋総督府

4月3日夕刻。

近藤勇は野村利三郎と村上三郎の
二人に警護されながら、官軍総督府に陣営に赴きます。。

新政府軍の面前まで来ると、
近藤は礼儀正しく刀を鞘におさめ、
新政府軍を見渡しました。

「大将の大久保大和である。今朝から
数度射撃を交えたが、菊の御旗を見て
観念した。降参いたす」

「そうか…では軍規によって
取調べをせねばならぬ。
越谷までご同行願う」

大久保大和こと近藤勇は薩摩藩士有馬藤太に従って
籠に乗せられ、まず越谷の本営に連行されます。
道中、新政府軍の兵士たちはひそひそと言い合いあいました。

「あれ、近藤勇じゃねえのか?」
「えっ!まさか…」
「新選組の近藤勇が、なんで武州に」

翌4月4日正午、板橋総督府に到着。

板橋宿本陣跡
板橋宿本陣跡

板橋宿本陣跡のある仲宿商店街
板橋宿本陣跡のある仲宿商店街

「わしが大久保大和じゃ。どのような罰も
甘んじて受けよう」

あくまで大久保大和を貫く近藤勇。

しかし、ここに強力な証人があらわれます。

伊東甲子太郎の御陵護士の残党
加納鷲雄(かのうわしお)です。

加納は御陵護士が新選組に壊滅させられた後、
薩摩藩に身を投じていました。

現場に呼ばれた加納鷲雄が障子の穴からのぞくと…
そこに端坐しているのは、忘れもしない
近藤勇、その人でした。

油小路で惨殺された伊東甲子太郎と
同士たちの姿が加納の脳裏によみがえり、
近藤への激しい憎しみが言葉となってあふれます。

「大久保大和、あらため近藤勇」

近藤ははっと顔色を変えます。

からりと障子を空けて、室内に歩み入った加納鷲雄は
ぐっと近藤の顔をのぞきこみ、

「近藤さん」

「……」

「近藤さんですよね」

「……」

近藤は一言も答えず、胸を張って正座していましたが、
その表情には明らかな動揺が見てとれました。

土方の奔走

その間、土方は江戸で大久保一翁、勝海舟の2人に
願い出ていました。

「近藤に罪はありません。将軍家のために。
その一心であいつは戦ったのです。どうか、どうか寛大なご処置を」

「さて、土方君はそうおっしゃるが…
どうしたもんかねえ」

勝海舟はうむむとうなって見せたものの、
気がすすまないことでした。

勝は幕府側の最高責任者として将軍徳川慶喜の身を
なんとしても守らなければいけませんでした。

そしてこの時、勝は江戸城の無血開城に向けて
薩摩の西郷隆盛と秘密裏に話を進めていました。

ここで近藤を助命して新政府軍の感情を損ねるわけには
いきませんでした。最悪の場合、怒り狂った
新政府軍が江戸になだれ込み、江戸が火の海になるかもしれません。

勝の立場上、近藤を助命することは避けたいことでしたが、

「どうか、どうか」

必死に嘆願する土方歳三。

「わかったわかった。おいらも近藤の奴は、
嫌いじゃねえんだ。そりゃあ殺したかねえよ」

「あ、ありがとうございます!」

こうして勝海舟は近藤勇の助命嘆願書を下記、
相馬主計(かずえ)に板橋の官軍総督府まで運ばせますが、
途中、官軍に捕えられ、書状は総督府には届かずじまいでした。

近藤勇の最期

4月25日、近藤勇は板橋で斬首されます。享年35。
武士として切腹することも許されない、無念の最期でした。

しかし近藤はずいぶん前から死罪は覚悟しており、
すずしい顔で、のび放題だった髯をそることの
許可を最後に求め、許されました。

辞世の詩があります。

近藤は幼いころから漢詩文を学び、
特に頼山陽を愛好していました。

そんな近藤らしい、義憤あふれる詩です。

孤軍 援絶えて囚俘(しゅうふ)と作(な)る
顧(かえり)みて君恩(くんおん)を念えば 涙 更に流る
一片の丹衷(たんちゅう) 能く節に殉ず
スイ陽千古 是れ吾が儔(ともがら)

近藤勇の墓
近藤勇の墓

近藤勇の墓
近藤勇の墓

近藤勇 土方歳三 記念碑
近藤勇 土方歳三 記念碑

三条河原

増援が得られず官軍に敗れてしまった無念と
死をもって徳川への忠義をあらわそうという信念が
あらわれていて、涙をさそいます。

新政府軍の中に鬼将軍と呼ばれた土佐の谷干城(たにたてき)は、
坂本竜馬暗殺の犯人が近藤勇だと信じていました。そのため、
近藤に対して怒りをあらわにします。

「近藤を京都にて市中引き回しの末、さらし首にすべきです」

近藤の首は板橋の刑場前で3日さらされた後、
塩漬けにされて京都へ送られ、三条河原にさらされました。
その後一説には、近藤の親族が掘り起こし、生まれ故郷調布の
龍源寺に葬ったと伝えられます。

近藤が処刑されたほぼ一ヶ月後の
5月30日。

千駄ヶ谷で病の床にあった沖田総司が
静かに息を引き取りました。

心配させてはならぬと、沖田総司には
近藤勇の死は知らされませんでした。

そのため沖田は、死の直前まで、

「先生は、お元気でしょうか。
お便りは、ありませんか」

と、言っていました。

沖田総司 終焉の地の碑のある今戸神社
沖田総司 終焉の地の碑のある今戸神社

沖田総司 終焉の地の碑のある今戸神社
沖田総司 終焉の地の碑のある今戸神社

沖田総司 終焉の地の碑
沖田総司 終焉の地の碑

土方歳三は、宇都宮へ、会津へ。
そしてさらに北、北海道へ向かいます。

一年以上にわたってお話してきました
語りによる新選組。いかがだったでしょうか。
今回が最終回となります。

次回から武田信玄についてお話します。
お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル