聖徳太子(七)法隆寺釈迦三尊像光背銘文

こんにちは。左大臣光永です。

北野天満宮に参拝してきました。閑散としてました。春なのに。桜の季節なのに。いつもの北野天満宮の賑わいは、ありませんでした。地元の子供とおぼしき兄弟が、はしゃいで駆け回っていて、お母さんが、「今はどこにも行けないからねえ~」とつぶやいていたのが、印象的でした。

本日は「聖徳太子(七)入寂」です。

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聖徳太子(一)欽明天皇の時代
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聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の争い
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聖徳太子(三)推古天皇
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聖徳太子(四)冠位十二階と十七条憲法
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聖徳太子(五)遣隋使の派遣
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聖徳太子(六)国史の編纂
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聖徳太子と仏教

聖徳太子は政務を行う傍ら、経典の講義をしたり、注釈書をしるしました。

推古天皇14年(606)推古天皇が太子を招いて『勝鬘経(しょうまんきょう)』の講義を、おそらく飛鳥の小墾田宮で行い、三日で終わったとあります。

また同年、岡本宮で『法華経』の講義をした、推古天皇はたいへんお悦びになり、、太子に播磨国の水田百町を贈り、太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)におさめたとあります。岡本宮とは、斑鳩宮の近くにあった聖徳太子の離宮と思われ、後に息子の山背大兄王に与えられ、この地に法起寺(ほっきじ)が創建されます。

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法起寺三重塔

太子が書いたとされる義疏(経典の注釈書)は、

『法華経』に対して『法華義疏』、
『維摩経』に対して『維摩義疏』
『勝鬘経』に対して『勝鬘義疏』

これら三つをあわせて三経義疏(さんぎょうぎしょ)といいます。ただし実際に太子が書いたのかについては、さまざまに議論があります。

摂政として多忙な毎日の中、これだけの活動をするのは大変だったでしょう。しかし推古天皇18年(610)新羅の使節を接待してからは大きな政務もなくなったため、斑鳩宮にあって思う存分、執筆活動にうちこんだものと思われます。

太子が建立したと伝わる寺は、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(所在地未詳)、これらを聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)といいます。

入寂

太子は推古天皇30年(622)2月22日、亡くなりました。

太子薨去を悼んで作られた仏像と刺繍が現存しています。

法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像は、中央の須弥壇に銅造の釈迦像、左に金銅の阿弥陀如来像、右に銅造の薬師如来像。それぞれの上に木造の天蓋が吊るされています。これらを取り巻いて、木彫の四天王像が立ちます。

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法隆寺金堂

光背の裏面に刻まれた銘文に、太子薨去のいきさつが書かれています。

前年(推古天皇29年)の12月に母穴穂部間皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなり、30年正月22日より太子は病にかかり、その看病に当たった膳(かしわで)夫人も病にかかり、2月21日に亡くなり、翌22日、太子が亡くなったと。

三人が相次いで亡くなっているのは、何らかの伝染病だったようです。亡くなった場所は斑鳩宮と思われます。

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法隆寺夢殿

現在、斑鳩の中宮寺に国宝として安置されている天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)、もしくは天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)は、太子の妃橘大郎女(たちばなの おおいらつめ)が太子の薨去を悼んで織らせたものです。

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中宮寺

妃橘大郎女が太子は天寿国(極楽浄土的な彼岸の世界)に生まれ変わりになられたのだろうから、その往生の図を刺繍にしたい旨を推古天皇に訴えると、推古天皇は采女二人に命じて二帳の刺繍を織らせた、といういきさつが銘文に書かれています。通常非公開で、レプリカが展示されています。

埋葬

太子と膳婦人、母穴穂部間人皇女は河内の磯長(しなが)の墓に合葬されました。大阪府南河内郡太子町大字太子の叡福寺境内の聖徳太子磯長墓(しょうとくたいししながのはか)がそれです。近くには太子の父用明天皇の墓や、叔父敏達天皇の墓、小野妹子の墓もあり、まさに「聖徳太子ファミリー」の感があります。

『日本書紀』には、太子の薨去を知って、諸王・諸臣および天下の百姓が、老人は愛児を失ったごとく、幼い者は両親を失ったごとく嘆き悲しんだとあります。

『法皇定説』には、巨勢三杖大夫(こせのみつえのたいふ)という者が太子が亡くなったことを悼んだ歌が三首あります。

いかるがの 富の小川の 絶えばこそ わが大君の み名忘らえめ

いかるがの富の小川の流れが絶えないように、わが偉大な君のみ名をけして忘れませんよ。富の小川は現在の富雄川。奈良県を流れる大和川の支流です。

太子の師である渡来僧・恵慈(えじ)は、高麗で太子薨去をききました。

「浄土において太子にお目にかかろう。私は来年2月22日に死ぬ」

といって、実際その日に死んだと『日本書紀』などにあります。

七回にわたって聖徳太子についてお話してまいりました。いかがだったでしょうか?聖徳太子=廐戸皇子について残っている史料はけして多いとはいえず、近世の人物のように豊富な史料に基づいて活き活きと語れないのがはがゆい所ですが、斑鳩や飛鳥を歩けば、今もあちこちに「聖徳太子」の名が見え、あらためて日本人にとって聖徳太子=廐戸皇子の存在の大きさを実感します。

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