聖徳太子(六)国書の編纂

こんにちは。左大臣光永です。

亡くなられた志村けんさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

子供の頃、家族でみた『8時だョ!全員集合』、なつかしいです。

徹底して下品に、不謹慎に、フェミニストや自称良識派からの批判など蹴散らす勢いが、ほんとうに素晴らしかったです。真の物作りとは、ああいうことだと思います。

本日は「聖徳太子(六)国史の編纂」です。

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聖徳太子(一)欽明天皇の時代
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聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の争い
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聖徳太子(三)推古天皇
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聖徳太子(四)冠位十二階と十七条憲法
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聖徳太子(五)遣隋使の派遣
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新羅使

推古天皇18年(610)7月、新羅の使と任那の使いが筑紫に到着しました。この時期、新羅は北からは高句麗、西からは百済の攻撃を受け、隋に援助を求めるも得られず、ならば日本と同盟を結び少しでも助けてもらおうという考えたようです。

10月8日、使節一行は飛鳥に入り、小墾田宮の南門から入り、前庭(朝廷)に入ると、蘇我馬子に拝謁します。608年の隋の使いと違い、日本式の「両度再拝」はせず、「再拝」だけだったようです。

『日本書紀』によるとこの時、推古天皇と廐戸皇子は立ち会っておらず、蘇我馬子が最終的な責任者だったようです。隋に対する扱いと、新羅に対する扱いの差が、出ています。

儀式の終わりに、使には貢物が下されました。これも隋の時にはなかったことで、倭国が隋を対等の交渉相手とみなしているのに対し、新羅を格下と見ていることがわかります。

以後、倭国と新羅との関係はしばらくよくなりました。しかし推古天皇30年(622)廐戸皇子が亡くなると、翌年から新羅征伐の議が起こされています。おそらく廐戸皇子が国内の反新羅勢力をおさえ、両国の友好関係を保とうと努力していたんでしょう。それで廐戸皇子がなくなるとすぐに新羅との関係が悪くなったのでしょう。

平和な日々

こうして外交問題が片付いた後は、聖徳太子=廐戸皇子の活躍は少なくなります。世の中が平和になってきたせいでしょうか。『日本書紀』にも狩や宴など、のんびりした記事がふえます。

推古天皇19年(611)夏5月、太子一行は狩に出かけました。深夜暗いうちから藤原池(所在地不明)のほとりに集まり、曙とともに出発しました。行く先は飛鳥から東に直線距離10キロほどの菟田野(うだの)です。後に柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩にしたがって、東の野に炎の立つみえてかへり見すれば月かたぶきぬ、と詠んだことで有名です。

行列はしずしずと進みました。行列の中程に、馬に乗る太子の姿がありました。お供の役人たちは冠位によって色分けされた冠をかぶっていました。狩の内容は、薬草を摘んだという説と、強壮剤の原料になる鹿の角を取った猟であるという説があります。いずれにしても、優雅なレクリエーションだったことでしょう。

推古天皇20年(612)正月7日の記事では、朝廷で宴が開かれ、蘇我馬子がお祝いの歌を献上しています。

やすみしし わが大君の 隠ります 天の八十蔭(やそかげ) 出で立たす 御空を見れば 万代(よろずよ)に かくしもがも 千代にもかくしもがも 畏みて 仕え奉らむ 拝(おろが)みて 仕へ奉らむ 歌献(つ)きまつる

わが大君がお住まいの広大な御殿、お立ちになる御空を見れば、千代も、万代も、このようであってほしい。私は畏まってお仕えしよう。拝んでお仕えしよう。歌を奉ります。

これに推古天皇が答えて、

ま蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき

蘇我よ、蘇我の子らは馬ならば日向の駒、太刀ならば呉の真剣に例えるほどすばらしい。当然であるよ。そんなに素晴らしい蘇我の子らを大君がお使いになるのは。

国史編纂

また太子はわが国の歴史をしるした、国史の編纂に取り組みました。

皇太子、島大臣(蘇我馬子)共に議りて、『天皇記』及び『国記』、臣・連・伴造・国造百八十部ならびに公民等の本記を録す。

推古天皇28年

『天皇記』及び『国記』、それと全国の氏族たちの歴史を記録させたと。

『天皇記』および『国記』は645年乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされた時、燃えてしまいました。焼け残った『国史』を中大兄皇子に仕える船史恵尺(ふねのふひとえさかが取り出して中大兄に奉ったとことが『日本書紀』にあります。その後『国史』がどうなったか不明です。よって『天皇記』も『国記』も、なにが書いてあったか不明です。

タイトルからして『天皇記』は天皇や朝廷を中心にした歴史をまとめたもの、『国記』は日本国の歴史をまとめたものでしょうか。たとえば遣隋使の派遣や十七条憲法についても書かれていたかもしれません。あるいは『風土記』のように各地の地理や伝承についてまとめた書物だったかもしれません。

次回、最終回「入寂」に続きます。

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解説:左大臣光永