聖徳太子(一)欽明天皇の時代

こんにちは。左大臣光永です。

こんにちは。左大臣光永です。京都御苑の九条池でアオサギを観察してきました。ひさしぶりにアオサギをたっぷりと見て、満たされました。子供がエサを投げるのをくちばしでキャッチするも、アオサギはすぐには食べずに池の水にちょんちょんと漬けてから食べるのが、しゃぶしゃぶ食べてるみたいで、おもしろかったです。

本日から9回にわたって「聖徳太子」について語ります。

聖徳太子。31代用明天皇の皇子。33代推古天皇の摂政となり、斑鳩に宮を築き、冠位十二階・十七条憲法をさだめ、遣隋使を派遣し、国史を編纂し、日本で仏教が栄える土台を築きました。本名は厩戸皇子(うまやとのみこ)とされますが、聖徳太子、豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)ほか、さまざまな異称があります。

本日は第一回「欽明天皇の時代」です。

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法隆寺夢殿
法隆寺夢殿

系譜

聖徳太子(厩戸皇子)は30代敏達天皇3年(574)生まれ。父は31代用明天皇。母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。系図をごらんください。

父用明天皇と母穴穂部間人皇女は腹違いの兄妹です。しかも腹違いといっても、それぞれの母は姉妹です。こうした濃密な近親婚によって生まれてきたのが、聖徳太子(厩戸皇子)というわけです。

中宮寺 穴穂部間人皇女の発願
中宮寺 穴穂部間人皇女の発願

太子が生まれた場所は不明です(明日香村の橘寺が当てられているが後世の付会)。

橘寺
橘寺

太子と母を同じくする兄弟には、来目皇子(くめのみこ)・殖栗皇子(えくりのみこ)・茨田皇子(まんだのみこ)の三人がいました。

太子の腹違いの兄弟には、用明天皇と蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)との間に多米皇子が。葛城当麻倉首比里古(かづらきのたぎまのくらのおびと ひろこ)の女、伊比古郎女(いひこのいらつめ)との間に麻呂子皇子(当麻皇子たいまのみこ)と酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)が、いました(『古事記』『帝説』『日本書紀』によって記述は少しずつ違う)。

名前とその由来

「聖徳太子」は、生前の名ではなく死後の諡です。しかも「聖徳太子」の初出は太子の時代よりずっと後年、天平勝宝3年(751)年の漢詩集『懐風草』の序文においてです。また天平15年(738)ごろに成立した大宝令の注釈書『古記』には「聖徳王」の名が見えます。

聖徳太子にせよ聖徳王にせよ、死後の諡(おくりな)であり生前の呼び名ではありません。

では生前は何と言われていたのか?『日本書紀』には「厩戸皇子(うまやとのみこ)と曰ふ」とあり、そこに注をつけて、「更の名、豊耳聡(とよとみみ)、聖徳(しょうとく)、或いは豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)と名づく。或いは法主王(のりのうしのおおきみ)と名づく」とあります。

また平安時代に成立した太子の伝記『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』には「上宮厩戸豊耳聡(かみつみやのうまやとのとよとみみ)」とあります。

『日本書紀』には言葉の所以が書かれています。

「厩戸」は母である穴穂部間人皇女が、宮中を巡回していて、厩(馬小屋)の戸の前で太子を生んだと。

もちろん作り話です。実際は生まれた場所の地名から取ったと思われます。新約聖書のキリスト誕生の記事が影響しているというのは単なるこじつけと思います。

「豊耳聡(とよとみみ)」の所以としては、10人の訴えを同時に聞き分けたという有名なエピソードが上げられていますが、これも「耳」という文字から後世創作されたお話でしょう。

ようするに、太子の名前とその由来については、「わからない」という他ありません。

欽明天皇

太子の祖父・欽明天皇は偉大な帝王でした。『日本書紀』によれば32年、『帝説』によれば41年の長きにわたり磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや。奈良県桜井市)にて天下をおさめました。皇后と五人の妃との間に皇子16人、皇女9人をもうけました。

※今日の話は人物関係がとても入り組んでいますが、ようするに、すべて「欽明天皇の息子たち・娘たち」の話です。ただしそれぞれ母の違う、腹違いの兄弟です。腹違いの、欽明天皇の息子たち・娘たちが戦ったり、手を結んだり、結婚したりする話です。

「欽明天皇の息子たち・娘たちの話である」

ここをおおざっぱに踏まえた上で、聴いてください。

欽明天皇の時代に有名なことに、日本に仏教が伝わりました。仏教の受け入れをめぐって、蘇我氏と物部氏との間で争いが起こったことはよく知られている通りです。


仏教伝来之地碑(奈良県桜井市)

結局、蘇我氏が勝ち、仏教を受け入れる流れとなります。また蘇我稲目は欽明天皇に二人の娘を嫁がせ十一男七女が生まれ、蘇我氏は外戚としての地位をたしかなものにしていきました。

敏達天皇

欽明天皇が没すると、欽明の次男が敏達天皇として即位します。敏達天皇は以後、14年間にわたって天下をおさめました。

はじめ、皇后である息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・広姫との間に男子(押坂彦人大兄皇子 おしさかのひこひとのおおえのみこ)が生まれました。

その後、皇后広姫が死んだので、敏達は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)をあらたに皇后として迎えます。これも腹違いの兄妹どうしの、近親結婚でした。豊御食炊屋姫は後の推古天皇です。

そして敏達と豊御食炊屋姫との間に男子二人、女子五人が生まれました。男子を竹田皇子(たけだのみこ)・尾張皇子(おわりのみこ)といいました。

こうなると先妻の子と、後妻の子の間で継承争いになる典型的なパターンです。しかし、敏達天皇崩御後に即位したのは先妻の子でも後妻の子でもなく、敏達の腹違いの弟、用明天皇でした。息子たちの争いを避けるための折衷作だったと思われます。

敏達天皇の崩御

585年、敏達天皇が崩御します。『日本書紀』によると、蘇我馬子は葬儀の席で長い刀を帯びて天皇の生前の功績を讃える言葉(誄言 しのびごと)を奉ります。すると物部守屋が、

「おい馬子の奴を見ろ。まるで矢で射られた雀みたいじゃないか」

あざ笑いました。次に守屋の番となりました。

守屋は緊張して震えながら誄言を奉りました。

すると蘇我馬子は、

「鈴をつけたらよく鳴りそうじゃな」とバカにしました。

こうして、二人はしだいに恨みを抱くようになっていく様子が『日本書紀』に書かれています。

穴穂部皇子の野心

敏達天皇崩御にともない、野心を抱いた男がありました。

敏達天皇の腹違いの弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)です。

素行の悪い人物として『日本書紀』に描かれています。

敏達天皇崩御後、敏達天皇が信頼していた三輪君逆(みわのきみさかう)は、家来に命じて、もがり(死体をおさめる宮)の警護をさせていました。そこへ穴穂部皇子は、

「どうして亡くなった王のところに仕えて、生きている王のところに仕えないのか」

そう言い放ったと。

敏達天皇が崩御した翌月、敏達天皇のべつの腹違いの弟である、用明天皇が即位します。

亡き敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ=後の推古天皇)はもがりの宮で夫敏達天皇の冥福を祈っていました。

(あなた、どうか安らかに…)

そこへ、穴穂部皇子はもがりの宮を訪れ、

「中に、誰かいるか」と声をかけます。

この時、穴穂部皇子は権力を継承するため、カシキヤヒメを犯そうと考えていました。権力者が亡くなった時、その后を手に入れるのは、権力を継承することを意味していました。

「誰かいるのか」

もがりの宮の内側から、忠実な家臣・三輪君逆(みわのきみさかう)が返事をします。

「三輪君逆がおります」

「門を開け」

しかし忠実な家臣・三輪君逆は穴穂部皇子のたくらみを見抜き、門の内から答えます。

「お断りいたします」

「なに。断る。ばかな。もう一度言う、門を開け」

「お断りいたします」

「開けといったら開け」

七度言われても、三輪君逆は門を開きませんでした。

「無礼者めが!」

穴穂部皇子 三輪逆を滅ぼす

穴穂部皇子はこれを恨みに思い、三輪君逆を殺そうと考えます。そこで穴穂部皇子は物部守屋に命じて、軍勢をさしむけ三輪君逆の家を取り囲み、二人の息子ともども、攻め滅ぼしました。

これを知って、蘇我馬子は悲しみ嘆き、穴穂部皇子に申し上げました。

「なんということを。逆は忠実な奉公の者でした。それを、さしたる証拠もなく殺害するなど。天下が乱れるのも、遠くはありませんぞ」

「なにい。蘇我馬子。お前は何様じゃ。立場をわきまえろ。お前のような下郎が、天下を論ずるなど、片腹痛いわ」

穴穂部皇子は蘇我馬子を追い返します。

「やれやれ。あのような男が天下を握ったら大変だ」

ほかに人材はいないものか?

そこで蘇我馬子は、穴穂部皇子の母を同じくする兄・泊瀬部皇子に目をつけます。この人を時期天皇に立てようと。

一方、物部守屋は穴穂部皇子からかわいがられ、癒着を深めていました。

こうして、

蘇我馬子・泊瀬部皇子陣営と、

物部守屋・穴穂部皇子陣営が

対立を深めていきます。

蘇我馬子も、物部守屋も、それぞれ自分の担ぐ泊瀬部皇子と、穴穂部皇子を、「次期天皇にはこの人を」と考えるのでした。

次回「聖徳太子(二)丁未(ていび)の変 蘇我・物部の戦い」に続きます。

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解説:左大臣光永