聖徳太子(五)遣隋使の派遣

こんにちは。左大臣光永です。

京都講演「鴨長明」を4/18に予定しておりましたが、新型コロナウイルスの流行のため、延期します。
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早く収束してほしいものです。

本日は、日中関係の話です。

「聖徳太子(五)遣隋使の派遣」

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聖徳太子(一)欽明天皇の時代
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聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の争い
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聖徳太子(三)推古天皇
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聖徳太子(四)冠位十二階と十七条憲法
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小野妹子の遣隋使派遣

推古天皇15年(607)倭国は小野妹子を正式な使者として隋に遣わします。小野妹子は経歴も出自も謎の人物で、607年の時点で突然歴史に登場します。そして二度の遣隋使をつとめた後、どんな生涯を過ごしたかもわかりません。平安時代前期の文化人で百人一首にも歌が採られている小野篁は、小野妹子の子孫だと言われています。

隋の皇帝(煬帝)が仏教を盛んにしていることを讃え、仏教を学ぶことを目的に僧数十人が同行しますが、この時提出した推古天皇の国書があまりに有名です。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや

太陽が昇る所の天子が、文書を、太陽が没する所の天子に送ります。調子はどうですか。

隋の煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ」野蛮人の書だ、無礼な者だ、二度とこんなものを見せるなと言って怒りました。

確かに一見して無礼な書状です。日本を「太陽の上る所」と言い、隋を「太陽の没する所」と言っていることは、とても無礼に思えます。しかしこれは仏典にある「東」と「西」をあらわす慣用表現にすぎません。

煬帝はここに怒ったのではありませんでした。

煬帝が怒ったのは「天子」という言葉に対してです。野蛮人の分際で、わが国と対等に天子をいただくなど、何様のつもりだ。世界に天子をいただくのは中国だけであると。

(国書を起草したのは聖徳太子=廐戸皇子と思われます。『日本書紀』にも『隋書』倭国伝にも聖徳太子とハッキリ書いてはいないですが、推古天皇のおそばにあって仏教や国際情勢にここまで通じている者といえば聖徳太子以外に考えられないからです)

では聖徳太子は、不注意から煬帝を怒らせてしまったのでしょうか?おそらく、そうではないでしょう。外交上の計算があったものと思われます。

小野妹子を遣隋使として派遣するにあたって、倭国は隋と対等な関係を結びたいという強い願いがありました。冠位十二階や十七条憲法といった制度を整えてきた自負もありました。

隋と対等な関係を結ぶ。そのためには倭国が隋と同じく、「天子」をいただく対等な国家であると、たとえ形式上だけでも認めさせる必要がありました。そこで「天子」という二文字を認めさせる必要がありました。

隋の煬帝は聖徳太子の書状に怒り、使者を斬り捨てることもできましたが、結果としてそれをしませんでした。隋にも切羽つまった外交上の問題があったからです。

隋は先代の文帝の時代からたびたび高句麗征伐を試みていましたが、成功していませんでした。この時も煬帝は次の高句麗遠征を計画中でした。こういう時期なので、倭国の使者が無礼をしても咎めず、高句麗征伐に組み入れようとしていたかもしれません。

おそらく聖徳太子は隋が直面している切羽つまった立場を計算に入れた上で「今ならこの書状を受け取らざるを得ないだろう」と勝負をかけたのではないでしょうか。

推古天皇16年(608)4月、小野妹子が帰国するにあたり、隋から答礼使として裴世清(はいせいせい)が「下客(しもべ)12人」とともに同行しました。

これで隋は倭国を臣下ではなく対等の「国家」と認めた形になりました。もっとも裴世清は下級の役人にすぎず、倭国を認めたといっても形式的なことでしたが、対等外交へ一歩踏み出すことができたのでした。

裴世清一行への歓迎

裴世清はじめ隋の使節一行は筑紫で接待を受けた後、船に乗って瀬戸内海をすすみ、難波に至りました。倭国の飾り立てた船三十艘が、裴世清一行を歓迎し、江口で迎えます。江口はこの頃から奈良時代まで外国の使節が到着する港でした(現東淀川区南江口)。

国書紛失事件

ところがこの後、『日本書紀』は小野妹子についての奇妙な話を載せています。隋の皇帝から賜った国書を、持ち帰る途中に、百済国で百済人に盗まれてしまったため、小野妹子は奏上することができない旨を報告した。役人たちは小野妹子の怠慢をせめ、流罪にした。しかし天皇は、隋の使節団の耳に入るといけないからと、罪を許したと。

外交官として隋に赴いた小野妹子が、大切な国書を盗まれる。あまりにもバカバカしい、ありえない話です。だいたいそんな失敗をしたなら小野妹子が次も遣隋使に任じられるわけがないです。

どういうことなのか?

国書の内容が無礼であったので、盗まれたと小野妹子がウソをついた説、『日本書紀』の作者が小野氏に対してなんらのの理由で反感をもっており、小野氏を故意に悪く書いたなどの説があります。

まあ『日本書紀』はウソばかり書いてある書物ですので、小野氏を故意に貶めた説は、ありそうです。とはいえまったく根拠もない話を「創作」までしたとも思えません。

なにかこれに類する小さな失敗を小野妹子がやった。それをおおげさに解釈したのかもしれません。真相は闇の中です。

海石榴市

使節団は難波で一ヶ月をゆったり過ごし、昔の大和川をさかのぼり、いまの奈良県王寺町を経て、斑鳩のすぐ南を経て初瀬川をさかのぼって、推古天皇16年(608)8月3日、海石榴市術(つばいちのちまた)に至りました。この日、倭国の使いが75匹の飾騎(かざりうま)を遣わして、海石榴市術に使節団を迎え、挨拶のことばを述べました。


海石榴市(奈良県桜井市)

海石榴市術は現在の奈良県桜井市金屋(かなや)。三輪山の西にあり、人が多く集まる交通の要衝でした。柿本人麻呂が歌に詠み、上田秋成の『雨月物語』にも舞台として描かれています。

裴世清、推古天皇に拝謁

推古天皇16年(608)8月12日、使節団は飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや。奈良県明日香村の雷丘周辺とされる)で推古天皇に謁見しました。すべての皇子・王子・臣下が参列しました。

当然、その中に聖徳太子と蘇我馬子もいたことでしょう。参列者は皆、金の髻華(うず。古代の頭部のかざりもの)を頭に挿していました。これは最大級の歓迎のしるしです。

裴世清は南門から入り、「両度再拝」つまり四度おじぎをして、隋国皇帝の国書を読み上げました。

「皇帝は世に広く徳化を及ぼそうとしている。倭国皇帝もよく国内をおさめ隋に朝貢したことは誠意のあることであった。ここに裴世清を遣わし、物を贈る」

両度再拝…四度おじぎをすることは、日本の古い習慣です。中国皇帝は裴世清を遣わすにあたって中国式のやり方を押し通すのではなく、日本式のやり方を調べ、それに合わせたのでしょう。しかも。昨年の国書で煬帝は「天子」という言葉に腹を立てたのに、今回は「皇帝」の称号をゆるしています。「朝貢」という言葉で、隋のほうが上なんだぞと釘をさしてはいますが。それにしても当時の中国の度量が広く礼を尽くしていることには、驚くばかりです。今の習近平ごときは、とうていマネできないでしょう。

その後、阿部鳥臣(あべのとりのおみ)が国書を受け取り、奥へ進み、大伴噛連(おおとものくいのむらじ)が天皇の御前に国書を奉りました。

『隋書』倭国伝によると、この時、推古天皇が裴世清に直接言葉をかけたとあります。

其の王、清と相見え、大いに悦びて曰く、我れ聞く、海西に大隋礼儀の国ありと。故に朝貢せしむ。我れは夷人。海隅に僻在(へきざい)して礼儀を聞かず。是を以て境内に稽留(けいりゅう)し、則ち相見えず。今故(ことさら)に道を清め館を飾り、以て大使を待つ。冀(こいねがは)くは大国維新の化(け)を聞かんことを。

大意
推古天皇は、裴世清と対面して、大いに喜んで言った。「私は聞いています。海の西に、礼儀を知る大隋の国があると。それで私は臣下の小野妹子に命じて朝貢させたのです。私は野蛮人です。海の隅の僻地にいて、礼儀を知りません。そのため倭国の国内にとどまって、顔をあわさなかったのです。今、格別に道を清め館を飾り、そうやって隋からの大使を待っていました。どうか、わが国が大国に生まれ変わるための教えを聞かせてください」

推古天皇の言葉はおおげさすぎる気がします。

おそらく『隋書』の作者が話を盛ったんでしょう。

しかし、ここまでへりくだってはいないとしても、推古天皇は大海をわたってきた裴世清に対して、何らかのねぎらいの言葉をかけたと思います。

第二回遣隋使

裴世清はじめ使節団は、推古天皇16年(608)9月のはじめに帰国しました。裴世清が帰国する船に同行して、第二回の遣隋使が派遣されます。大使は小野妹子、小使は吉士雄成(きしおなり)、通事は鞍作福利(くらつくりの ふくり)。留学生・留学僧が八人同行しました。

この時の国書には、

「東天皇、敬みて西皇帝に白す」

としるしました。第一回のときの「天子」は遠慮して「天皇」と変えていますが、なお対等外交をめざそうという聖徳太子の強い意思が読み取れます。

留学生・留学僧らは中国で大いに学問に励み、仏典・経典やさまざまな文物を持ち帰りました。その中には乙巳の変の中大兄皇子、中臣鎌足に教えた南淵請安や、大化の改新のブレイン僧旻、高向玄理らもいました。小野妹子は推古天皇17年(609)帰国しました。

第三回遣隋使

第三回の遣隋使は推古天皇22年(614)、犬上御田鍬・矢田部造(やたべのみやつこ)が派遣され翌23年(615)帰国しました。『日本書紀』にはかんたんな記述があるだけで『隋書』にはまったく書かれておらず、詳細は不明です。

次回「国史編纂」に続きます。

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解説:左大臣光永