聖徳太子(四)冠位十二階と十七条憲法

こんにちは。左大臣光永です。

先日、京都から名古屋に行く新幹線に乗ったら、なぜか左の席だけ混んでて、右側はガラガラでした。なんかあるんでしょうか。みんな琵琶湖が見たいのかなとも思ったのですが、新幹線から琵琶湖は見えないし…左に見える目ぼしいものといえば伊吹山ですが、それほど多くの人が伊吹山に興味があるとも思えず。不思議でした。、

さて先日から「聖徳太子」について語っています。

聖徳太子。31代用明天皇の皇子。

33代推古天皇の摂政となり、斑鳩に宮を築き、冠位十二階・十七条憲法をさだめ、遣隋使を派遣し、国史を編纂し、日本で仏教が栄える土台を築きました。

本日は第四回「冠位十二階と十七条憲法」です。

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聖徳太子(一)欽明天皇の時代
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聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の争い
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聖徳太子(三)推古天皇
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大楯と靱

推古天皇11年(603)11月、聖徳太子が推古天皇に奏上して儀式用の大楯と靱(ゆき)を作り、旗幟にみずから絵をしるした記事があります。靱とは矢を入れる細長い木箱のことです。これらは実用上のものではなく、儀式用のものです。こうした記事が書かれているということは、聖徳太子の朝廷における役割がいよいよ大きくなってきたことを示しているようです。

冠位十二階

推古天皇11年(603)12月、蘇我馬子と聖徳太子で「冠位十二階」の制度を定め、翌12年(604)正月より実施しました。冠位十二階とは朝廷に仕える役人の位を、冠の色で示したものです。

徳・仁・礼・信・義・智。それぞれを大小に分け、

大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智

冠位十二階
冠位十二階

十二の冠位を定めました。

「へーえ、じゃあ遠くからでも冠の色を見ればわかるなあ」

「そりゃあ、わかりやすい」

「遠くから偉いのが近づいてきたら、へへーって頭下げりゃいいし、
下っ端がきたら、こっちがふんぞり返ってりゃいいんだ」

役人たちは、大いに盛り上がったことでしょう。

憲法十七条

推古天皇12年(604)4月3日、「十七条憲法」を定めました。

憲法十七条。十七条の憲法。わが国最初の成文法です。

現在の憲法とは違い、役人が守るべき心構えを示したものです。仏教・儒教・法家思想などの影響が強くみられます。

ただし聖徳太子自身が「憲法」という言葉を使ったかはあやしく、『日本書紀』作者の手が入っている説もあり、十七条憲法の実態はまだまだ、わからないところが多いです。

『日本書紀』には全文が載っています。

それぞれ主文のみ読んで、かんたんに解釈します。

一に曰く、和を以て貴しとし、忤(さか)らふことなきを宗(むね)とせよ。

(和が大切。集団で決めたことに逆らうな)

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧なり。

(仏教と、その教えと、僧侶を敬え)

三に曰く、詔を承りては必ず謹しめ。

(天皇の命令は謹んで従え

四に曰く、群卿百寮、礼をもって本とせよ。

(役人たるもの、礼が大事である)

五に曰く、味ひのむさぼりを絶ち、財(たから)のほしみを棄て、明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。

(食い物を貪らず、財産がほしいという気持ちを棄てて、訴訟は公平に行え)

六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、古の良典なり。

(勧善懲悪)

七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ることよろしく濫(みだ)れざるべし。

(人にはそれぞれ職分ある。自分の担当する職分からはずれたことをするな)

八に曰く、群卿百寮、早(と)く朝(まい)り、晏(おそ)く退(まか)でよ。

(役人たるもの朝早く出仕し、夜遅く帰れ)

九に曰く、信はこれ義の本なり。

(信は義のもととなる、大事なものですよ)

十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。

(心の怒りを絶ち、顔に怒りを棄て、人が自分と違っていることを怒るな)

十一に曰く、功過を明らかに察(み)て、賞罰必ず当てよ。

(手柄と、失敗とをしっかり見て、賞罰を適切に行え)

十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。

(役人は人民から貪り取ってはならん)

十三に曰く、諸々の官に任ずる者、同じく職掌(しょくしょう)を知れ。

(自分の仕事については熟知しておけ)

十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。

(嫉妬してはいかん)

十五に曰く、私を背きて公に向ふは、これ臣の道なり。

(私を棄てて公につくすのが臣下の道だ)

十六に曰く、民を使ふに時をもつてするは、古の良典なり。

(人民を使役するにも時というものがある。たとえば農作業で忙しい時に労役を課したりしてはいかん)

十七に曰く、夫れ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに論(あげつら)ふべし。

(一人で決めないでみんなで話し合って決めよう)

一に曰く、和を以て貴しとし、忤(さか)らふことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。亦達(さと)れる者少し。ここをもって、或は君父に順はず、またと隣里に違ふ。然れども上(かみ)和(やら)らぎ、下(しも)睦びて、事を論(あげつ)らふに諧(かな)ふときは、事理自(おのづか)らに通ず。何事か成らざらん。

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧なり。則ち四生のよりどころ、万国のおほむねなり。何れの世、何れの人か、この法を貴ばざらん。人はなはだ悪しきもの鮮(すくな)し。能く教ふるをもて従ふ。それ三宝によりまつらずば、何をもつてか枉(まが)れるを直さん。

三に曰く、詔を承りては必ず謹しめ。君は天なり。臣は地なり。天は覆ひ、地は載す。四時順行して、万気通ふことを得。地、天を覆はんとするときは、壊るることを致さんのみ。ここをもつて君言(のたま)ふときは臣承る。上(かみ)行ふときは下(しも)靡(なび)く。故に詔を承りては必ず謹しめ。慎まずは自(おのずか)ら敗れん。

四に曰く、群卿百寮、礼をもって本とせよ。それ民を治むる本は、要(かなら)ず礼にあり。上(かみ)礼なきときは下斉(ととの)ほらず。下礼なきときは必ず罪あり。ここをもつて群臣礼あるときは位次乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治まる。

五に曰く、味ひのむさぼりを絶ち、財(たから)のほしみを棄て、明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。それ百姓(ひゃくせい)の訟は、一日に千事あり。一日すらなほしかるを、況や歳を累(かさ)ねてをや。このころ訟を治むる者、利を得るを常とし、賄(まかなひ)を見てことはりもうすを聴く。便(すなわ)ち財あるものの訟は石をもて水に投ぐるがごとし。乏しき者の訟は水をもて石に投ぐるに似たり。ここをもつて民はせんすべをしらず。臣道亦ここに闕(か)く。

六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、古の良典なり。ここをもつて人の善を匿(かく)さず、悪しきを見ては必ず匡(ただ)せ。それ謟(うたが)ひ詐(あざむ)く者は、国家を覆へす利器なり。人民を絶つ鋒剣なり。亦(また)佞(かだ)み媚ぶる者は、上に対しては好みて下の過を説き、下に逢ひては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それこれらの人は皆君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。

七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ることよろしく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌音則ち起こり、姧者、官をたもつときは、禍乱繁し。世に生れながら知る人少し。尅(よ)く願ひて聖となる。事、大小となく、人を得て必ず治む。時、急緩(きゅうかん)となく、賢に遇ひておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国家永久にして社稷危からず。故に古聖王、官のために人を求め、人のために官を求めず。

八に曰く、群卿百寮、早(と)く朝(まい)り、晏(おそ)く退(まか)でよ。公事いとまなし。終日にも尽し難し。ここをもつて遅く朝るときは急なるに逮(およ)ばず。早く退るときは必ず事尽くさず。

九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗必ず信にあり。群臣共に信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事悉く敗れん。

十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼れ是とするときは我れは非とす。我是とするときは彼れは非とす。我れ必ずしも聖にあらず。彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、%#35406;(た)れかよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもつて、彼の人は瞋(いか)ると雖も、還(かえ)つて我が失を恐れよ。我れ独り得たりと雖も、衆に従つて同じく挙(おこな)へ。

十一に曰く、功過を明らかに察(み)て、賞罰必ず当てよ。この頃、賞は功においてせず。罰は罪においてせず。事を執る群卿、賞罰を明らかにすべし。

十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君靡(な)し。民に両主無し。率士の兆民、王をもつて主となす。よさせる官司はみな是れ王臣なり。何ぞ敢へて公と百姓に賦斂(おさめと)らん。

十三に曰く、諸々の官に任ずる者、同じく職掌(しょくしょう)を知れ。或は病ひし、或は使ひして、事を闕(おこた)ることあらん。然れども知ることを得る日には、和(あまな)ふこと曾(いむさぎ)より識れるが如くせよ。それ与り聞くことなしと伝ふをもつて、公務をな妨げそ。

十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我れ既に人を嫉(にく)めば、人亦我れを嫉む。嫉妬の患へ、その極りを知らず。ゆえに智、己れに勝るときは悦ばず、才、己れに優(まさ)るときは嫉妬(ねた)む。ここをもつて五百歳(いほとせ)にしていまし賢に遇ふとも、千歳にして一聖を待つこと難し、それ賢聖を得ざるときは、何をもつてか国を治めん。

十五に曰く、私を背きて公に向ふは、これ臣の道なり。凡そ人、私あるときは必ず恨みあり。憾(うら)みあるときは必ず同(ととの)ほらず。同はざるときは、私をもつて公を妨ぐ。憾み起るときは制に違ひ法を害(やぶ)る。故に初章に云ふ、上下和(あまな)ひ諧(ととのほ)れと。それまたこの情(こころ)か。

十六に曰く、民を使ふに時をもつてするは、古の良典なり。故に冬月には間(いとま)あり、もつて民を使ふべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使ふべからず。それ農(たつく)りずば、何をか食はん。桑とらずば゜、何をか服(き)ん。

十七に曰く、夫れ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに論(あげつら)ふべし。少事は是れ軽し。必ずしも衆とすべからず。唯、大事を論ふに逮(およ)びては、もしくは失あらんことを疑ふ。故に衆と相弁(わきま)ふるときは辞(こと)則ち理を得ん。

(書き下しは吉川弘文館『聖徳太子』坂本太郎著による)

次回「遣隋使」につづきます。

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