聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の戦い

こんにちは。左大臣光永です。

先日、熊本県田原坂の「七本(ななもと)官軍墓地」に行ってきました。西南戦争田原坂の激戦で命を落とした官軍兵士300名ほどの墓が、整然とならんでいます。墓石には名前、所属部隊、出身地など、細かく記されています。2016年の地震で倒壊した後、修復したとおぼしきセメントの跡があちこちに見られました。歴史を残そうという強い意気込みが感じられました。

さて前回から「聖徳太子」について語っています。

聖徳太子。31代用明天皇の皇子。

33代推古天皇の摂政となり、斑鳩に宮を築き、冠位十二階・十七条憲法をさだめ、遣隋使を派遣し、国史を編纂し、日本で仏教が栄える土台を築く。

本名は厩戸皇子(うまやとのみこ)とされるが、聖徳太子、豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)ほか、さまざまな異称あり。

本日は第二回「丁未の変 蘇我・物部の戦い」です。

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「聖徳太子(一) 欽明天皇の時代」はこちら
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用明天皇 崩御

用明天皇2年(587)、用明天皇は病にかかります。そしておっしゃいます。吾は仏に帰依しようと思うと。なにをおっしゃいますか。わが国は古来八百万の神々をいただく国です。異国の神などあがめては、国つ神のお怒りにふれますぞ。すぐに反対したのは物部守屋です。一方、蘇我馬子は、「すばらしいことです」と大賛成しました。

結局、内裏(天皇のおすまい)に仏法の師として豊国法師(とよくにほうし)という僧を入れることになりました。物部守屋は横目でにらんでチッと舌を打って怒ったと『日本書紀』にあります。

天皇の病はいよいよひどくなり、ついに、お亡くなりになりました。遺体は磐余(いわれ)の池上(いけがみ)の陵に葬られ、後に、推古天皇の時代、河内の磯長の陵に改葬されました。大阪府南河内郡太子町にある方墳(四角形の墓)がそれです。

蘇我馬子 穴穂部皇子を滅ぼす

用明天皇2年(587)、用明天皇が亡くなると、物部守屋は穴穂部皇子のもとに人を遣わして、「皇子さまといっしょに淡路で狩がしたいのです」ともちかけます。あなたを次の天皇に立てるために、打ち合わせをしたいです、ということです。

しかし、この動きは蘇我馬子に漏れていました。蘇我馬子は敏達天皇の后・豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ=後の推古天皇)らと計り、軍勢を整えて穴穂部皇子の館に押し寄せます。

兵士が高楼の上に登って穴穂部皇子の肩をずばと斬ると、ぐっはああああぁぁ、どさーっ。地面に落ちたた穴穂部皇子はしかし、足を引きずり、引きずり、傍らの家屋に逃げ込みますが、火を放てッ。ひゅん、ひゅん、ひゅん。もはやこれまでか、ガクッと息絶えてしまいました。

こうして、敵・穴穂部皇子をのぞいた蘇我馬子。残る敵は物部守屋一人ということになりました。

蘇我馬子と物部守屋の対立

欽明天皇~推古天皇まで
【欽明天皇~推古天皇まで】

蘇我氏は第八代孝元天皇の子孫である武内宿禰にルーツがあるとされますが、あくまでも伝説的な話です。蘇我稲目以前の系図はあやしく、信用に足りません。

蘇我馬子の父・稲目は仏教伝来直後の日本にあって、熱心に仏教を取り入れようとしました。仏教を取り入れることで、大陸の進んだ文化や制度をも取り込むことができる、と考えたためです。

しかし、日本古来の宗教を重んじる物部尾輿との間で、激しい対立が起こりました。

蘇我氏と物部氏の対立
蘇我氏と物部氏の対立

「仏教を取り入れることで、大陸の文化にも近づけるのです!」

「倭国は古くから八百万の神々がまします国。
異国の神を拝むなど、とんでもない!」

蘇我稲目と物部尾輿の対立は、それぞれの息子である蘇我馬子、物部守屋に引き継がれます。

これは仏教を取るか、神道を取るかという単なる宗教論争ではなく、朝廷の指導県を蘇我が握るか?物部が握るかという勢力争いでした。

穴穂部皇子=物部守屋 vs 泊瀬部皇子=蘇我馬子
穴穂部皇子=物部守屋 vs 泊瀬部皇子=蘇我馬子

聖徳太子の四天王像

蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害した翌月、泊瀬部皇子、廐戸皇子(聖徳太子)らとともに河内衣摺(きぬずり)の物部守屋の舘(大阪府東大阪市衣摺光泉寺に比定)に押し寄せます。

「身の程知らずのクズどもがッ!!」

物部守屋がえのきの木の上から雨のふるようにひょうひょうと矢を放てば、蘇我の軍勢は、

「ぐはっ」「ぎゃぁあ」

次々と射殺されていきます。

「退けっ、いったん退けーーッ!」

物部守屋の前に蘇我の軍勢は苦戦を強いられ三度まで撃退されます。

蘇我の軍勢は退いて全軍を休め、反撃の機会をうかがっていました。

その中に、廐戸皇子は鎧のままで小刀でしきりに何か彫っていました。

「皇子さま何をしておられるのですか」

「あっ馬子さま。見てください。
けっこう上手くできたと思うんですが」

廐戸皇子は「白膠木(ぬりで)」の木を切り取って四天王の像を掘っていました(四天王…東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)。

「ほう四天王像ですか!皇子さまは手先が
御器用ですなあ!」

廐戸皇子は四天王像を髪の頂に置いて、

「この戦、必ず勝てるように。もし勝たせてくださるなら、
この地に立派なお寺を立てますと」

「では私も祈らせていただきます。助け護って
勝利させてくださるなら、立派な寺を建てます」

廐戸皇子と蘇我馬子は小さな木彫りの四天王像に、手をあわせました。

物部守屋の最期

四天王のご加護を得て、蘇我馬子率いる軍勢は再度、物部守屋の舘に攻め寄せます。

物部守屋はえのきの木に昇り、攻め寄せる蘇我の軍勢に雨の降るように矢を射かけます。

「ふははは。バカどもが!!」

物部守屋の放つ矢の前に、蘇我の軍勢は次々と射殺されていきます。

「ええい守屋め。やりおる。だが当方も負けてはおらぬぞ。
なにしろ四天王のご加護があるのだ!」

この時、迹見首赤檮(とみのおびといちい)(廐戸皇子の舎人?)という者が、木の下に忍び寄り、矢を放ちます。その矢が、木の上の物部守矢をふつっと刺さります。

「ぐはーーッ!」

物部守矢はまっさかさまに木から
射落とされ、息絶えました。

「討ち取ったぞ。物部守屋をーーッ!!」

ワアアアーーー

と、このような戦の流れが『日本書紀』に記されています。

この戦いのさなか、聖徳太子はどれほどの活躍をしたのか?誰もが気にかかるところですが…派手な活躍などは無かったと思われます。なにしろまだ14歳の少年です。おそらく四天王像をほった云々も、四天王寺の縁起譚をもとに、それを参考に『日本書紀』の作者が書いたものでしょう。残念ながら『日本書紀』が描くほどには、事実はドラマチックではなかったと思われます。

勝利の後、厩戸皇子は誓い通り河内の地に四天王寺を建立しました。また蘇我馬子は飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てました。

崇峻天皇殺害事件

用明天皇2年(587)、物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は翌崇峻天皇元年(588)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を大王として即位させます。

第32代崇峻(すしゅん)天皇です。倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや、奈良県桜井市倉橋)に宮を置きました。

(この時代、まだ「天皇」という呼び方はありませんが、便宜上「天皇」として話をすすめます)

崇峻天皇はこうして、蘇我馬子の後ろ盾で大王となりました。しかし、政治の実権は蘇我馬子が握っていました。

崇峻天皇は、だんだん不満が高ぶってきます。

「おのれ馬子め…大王であるワシをないがしろにしおって…ああくそいまいましい」

崇峻天皇5年(592)、崇峻天皇のもとにイノシシが献上されます。

「ほう。まるまると肥えたイノシシじゃのう」

しかし、崇峻天皇はそのイノシシを見ていて、だんだんムカムカしてきました。

蘇我馬子はずんぐりむっくりと太っていて背が低く、首が短く、イノシシに似ていたようです。

なので、イノシシを見ているうちに憎き馬子の顔が重なってきたんですね。

「いまいましい…この猪の首をはねてしまうように、
一息にあの男の首をはねてしまえば、
どんなに清々するか…」

臣下の者たちは言い合います。

(なんと恐ろしい…!今をときめく蘇我馬子に逆らったら、
どんな目にあわせられるか…)

崇峻天皇の言葉はすぐに蘇我馬子の知るところとなります。

「なに、ワシを殺すだと?
いい根性ではないか。返り討ちにしてくれるわ」

蘇我馬子はすぐに崇峻天皇のもとに刺客・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を送り込み、斬り殺します。

崇峻天皇5年(592)11月の出来事でした。遺体は殯の儀式もせず、その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られました。奈良県桜井市倉橋に残る円墳がそれです。

イノシシ云々のエピヒードは作り話ですが、なんらかの経緯で、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺させたのは事実でしょう。日本の歴史の中で天皇が臣下に殺害されたことがハッキリしているのはこの崇峻天皇一人だけです。

色々と疑問が残ります。

炊屋姫(かしきやひめ)=後の推古天皇は、蘇我馬子の暴発を止めなかったのか?もしかしてみずから指示を出したのか?聖徳太子はこの後、蘇我馬子とタッグを組むが、天皇を殺害したことを知りながら、何とも思わなかったのか?このあたりは専門家の間でもさまざまに意見が分かれるようです。

大阪市天王寺区茶臼山町の堀越(ほりこし)神社は、崇峻天皇をまつります。四天王寺創建と同時期に、聖徳太子が創建したと伝わります。

堀越神社
堀越神社

次回「聖徳太子(三)推古天皇」に続きます。

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蘇我馬子や聖徳太子の時代から
乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱までの飛鳥時代篇。

そして奈良時代篇では長屋王の変。聖武天皇の大仏建立。
鑑真和尚の来日、藤原仲麻呂の乱。
長岡京遷都を経て平安京遷都に至るまで。

教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。
ばらばらだった知識が、一本の線でつながります。

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解説:左大臣光永