聖徳太子(三)推古天皇

こんにちは。左大臣光永です。

こないだ熊本で田原坂に行ってきたという話を知人としてたら、ああ西南戦争の、鹿児島と熊本の県境だよねと言われて、ショックでした。田原坂は熊本の北部にあり鹿児島とはむしろ正反対の方角なんですが…。「鹿児島と熊本が戦った」ということから、地理的にも、「鹿児島と熊本の中間に田原坂がある」とイメージされてるんだなと思いました。ワーテルローはナポレオン最後の戦いなので、フランスにあるとイメージしている人が多いが、実はベルギーにあることにも、通じるものを感じました。

さて先日から「聖徳太子」について語っています。

聖徳太子。31代用明天皇の皇子。

33代推古天皇の摂政となり、斑鳩に宮を築き、冠位十二階・十七条憲法をさだめ、遣隋使を派遣し、国史を編纂し、日本で仏教が栄える土台を築く。

大国・隋を相手に毅然とした態度で対等外交を築いたこと。仏典の講義を行い注釈書をしるし、今日まで続く日本人の精神性の根っこつくったこと。その功績はまことに大きいと言えます。

本日は第三回「推古天皇」です。

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聖徳太子(一)欽明天皇の時代
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聖徳太子(二)丁未の変 蘇我・物部の争い
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推古朝のはじまり

推古元年(592)12月、33代推古天皇が飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)で即位します。推古天皇は日本初の、そして東アジア初の女帝でした。欽明天皇の第二皇女で、用明天皇の同母妹として生まれ、幼少の頃は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、後に豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)と申し上げました。

欽明天皇~推古天皇まで
欽明天皇~推古天皇まで

推古天皇は容姿端麗で、ふるまいも優雅でした。18歳の時、敏達天皇の皇后に立ち、34歳の時に敏達天皇が崩御します。39歳の時、蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺されると、帝位が空になってしまいます。

「どうか皇女さま、帝位についてください」
「これでは国が傾きます」
「そんな…私にはとても」

炊屋姫は辞退しますが、百官は上表文を奉り、再度、炊屋姫に願いいれます。三度目にようやく炊屋姫は即位のご決断をされました。

はじめ豊浦宮(とゆらのみや)に宮(皇居)を置きました。現在の奈良県明日香村豊浦(とようら)です。推古天皇11年(603)からは小墾田宮(おはりだのみや。奈良県明日香村の雷丘周辺とされる)に宮を遷します。

推古天皇は即位すると、甥にあたる厩戸皇子(うまやとのみこ)を皇太子としてまた摂政として立てました。20歳でした。

また、蘇我馬子が、大臣(おおおみ)に任じられ、推古天皇・廐戸皇子・蘇我馬子三者体制の時代が始まります。

推古朝の新羅遠征

推古朝の課題は、まず外交問題でした。

朝鮮そして中国との関係です。

『日本書紀』の記事は例によってウソっぽいというか、マンガっぽいというか、ツッコミどころ満載ですが…

とりあえず『日本書紀』に沿ってお話すると、

推古天皇の8年(600年)新羅と任那の間で争いが起きると、任那は倭に助けを求めてきました(ただし実際には任那は欽明天皇23年(562)新羅に滅ぼされている。『日本書紀』の記事は正確さを欠く)。そこで

倭国と朝鮮三国
倭国と朝鮮三国

倭国は境部臣(さかいべのおみ)を大将軍に穂積臣を副将軍に1万余の軍勢を率いて海をわたり、新羅に到り、5つの城を落としました。

「ひ、ひいい、…かなわぬ」

新羅王は恐れをなして白旗を揚げ、さらに六つの城(多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅)を割譲してきました。大将軍と副将軍は話し合います。「どうしたものだろう。新羅王は降伏したいといっているが」「降伏してきた者をこれ以上攻めるのは、よくないでしょう」「うむ。私も同じ考えだ。すぐさま大君に奏上しよう」

推古天皇は文書を受け取ると、新羅にも任那にも役人を遣わし、調査させました。ほどなくして新羅・任那両国から倭国に使者が到着し、奏上します。

「天上には神がましまし、地上には大君がまします。この二柱の神をおいて、他にありがたいものが、あるでしょうか。もうわれらは争いません。また船の舵が乾く間もないほど、毎年必ず参って貢物を奉ります」

「…あのように申しているが、どうであろうか」

「まあ、信用してみましょう」

そこで将軍を引き揚げさせたところ、すぐに新羅は任那に侵攻しました。

「やっぱり新羅は話になりませんね。今度こそ攻め滅ぼしましょう」

翌推古9年(601年)、百済と高句麗に使者を送って、任那復興に協力するよう約束させました。翌推古10年(602)の春。厩戸皇子の実弟・来目皇子(くめのみこ)を大将軍とし2万5千人を新羅討伐のために送り出しました。

しかし来米皇子は筑紫についた時、病にかかり、翌推古11年(603)の春、筑紫にて帰らぬ人となってしまいます。「なんですって、来米皇子が」知らせを受けた推古天皇はたいそう驚かれ、厩戸皇子と大臣蘇我馬子を召し出し、おっしゃいます。

「来目皇子が筑紫で亡くなりました。なんと悲しいことでしょう」

それを聞いて厩戸皇子は、肩を落とし、

「新羅の奴らが、弟を殺したも同然です!」

普段は冷静な厩戸皇子も、この時ばかりは怒りに声を荒げました。

推古11年(603)の夏、あらためて来目皇子の兄の当麻皇子(たぎまのみこ)を新羅を討伐するために遣わします。

「弟の敵・新羅を必ず滅ぼしてまいります!」

気負いたって難波を船で出発する当麻皇子。しかし明石で妻が亡くなると悲しみにかられ、遠征どころではなくなり、戻ってきてしまいました。こうした不幸が重なり、推古天皇の時代の新羅征伐は棚上げとなりました。

これら推古朝の朝鮮遠征の場面ですが…いろいろと問題があります。

まず年代があわないこと。

任那が新羅に攻められて倭国に助けを求めてきたとありますが、任那はすでに欽明天皇23年(562)、新羅に滅ぼされています。まあ亡命政権みたいなものが残っていたのかもしれませんが、やや信憑性に欠ける感じです。

次に、話の骨子が『古事記』『日本書紀』の神功皇后の三韓征伐の話にそっくりであること。特に新羅王が白旗をふるくだりなどです。

こうしたことから、事実起こったことを描いたというよりも、神功皇后の話をベースに脚色された記事と思われます。こういう戦いがあったことは事実としても、細かい部分はあくまでもお話というか、寓話として事実を再構成したものと考えるべきと思います。

隋への使者

次に中国との関係です。

『隋書』倭国伝、髙祖文帝の開皇20年=推古8年(600年)に、倭国の使者が隋の文帝に謁見した記事がにあります。それによると、隋の高官が、倭国の習慣について質問した。使者が答えた。

倭国~隋へ
倭国~隋へ

「倭王は天を兄とし、日を弟とする。天がまだ明けない間は倭王が政務を行い、日がのぼると、倭王は政務をやめて、弟にゆだねている」

倭王がなにもしなくても自然に世の中がおさまる。倭王の偉大さをのべたものだったでしょうか。

しかし隋の高官は、それは義理にあわない。よく教えて改めさせねばならないと、相手にされませんでした。

『日本書紀』にはこの時の使者について一言も書かれていません。正式な倭国の朝廷の使いではなかったかもしれません。正式な遣隋使が派遣されるのはこれより7年後です。

斑鳩宮へ

推古天皇9年(601)2月、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)の造営をはじめました。推古13年(605)には斑鳩宮に入っている記録が『日本書紀』にあります。またこの間、推古天皇も豊浦宮(とゆらのみや)から小墾田宮(おはりだのみや)へ宮を遷しています。ここから見るに、斑鳩宮の造営と、小墾田宮の造営は国家プロジェクトとして連動していたと思われます。

以後、聖徳太子は推古天皇30年(622)亡くなるまで斑鳩宮に住みました。息子の山背大兄王も皇極天皇2年(643)蘇我入鹿に襲撃されるまで斑鳩宮に住みました。

法隆寺夢殿
法隆寺夢殿

斑鳩宮の場所は現在の法隆寺東院伽藍あたりというのが定説です。有名な八角円堂の夢殿があるあたりです。ただし聖徳太子の時代の斑鳩宮がどんな規模で、どんな姿をしていたのか?発掘が進んでいる最中で、まだまだ謎につつまれています。

ちなみに法隆寺は推古天皇15年(607)頃までには主要部分が出来上がっていたといいます。

さて斑鳩は飛鳥から十数キロも離れています。

なのになぜ聖徳太子は斑鳩に宮を置いたのか?

これにはほぼ定説があります。

斑鳩は大和と河内の中間地点です。後年の奈良街道の線上にあり、行き着く先は難波の海です。その先は朝鮮・中国につながっています。海外から仏教・儒教を取り入れ、文物を取り入れるために、斑鳩の地は適していると聖徳太子は考えたのでしょう。

もうひとつ、太子の妃である膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)を出した膳氏(かしわでし)が、斑鳩にゆかりの氏族だったから、という説があります。ただし斑鳩と膳氏のつながりを示すハッキリ証拠はなく、あくまでも伝説的な話です。

次回「聖徳太子(四)冠位十二階と十七条憲法」に続きます。

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蘇我馬子や聖徳太子の時代から
乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱までの飛鳥時代篇。

そして奈良時代篇では長屋王の変。聖武天皇の大仏建立。
鑑真和尚の来日、藤原仲麻呂の乱。
長岡京遷都を経て平安京遷都に至るまで。

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解説:左大臣光永