光明皇后(六)藤原氏から橘氏へ

こんにちは。左大臣光永です。

大学生の時、一般教養科目に「神話学講義」というのがあったんですよ。神話学とは、なにか世界の神話を比較検討する学問らしく、たとえば旧約聖書とインド神話ではこういう共通点がある。ならば単なる絵空事ではなく、実際にそういう事件があったのではないかとか、そういうことを考える学問らしいです。

面白そう!ワクワクするじゃないですか。なにより、その神話学なる学問をしても、就職に役立つわけでもないし、社会に出て役に立つわけでもないし、世の中にはこんなヒマな学問をしている人がいる!そのこと自体が、当時の自分にはうれしく、ワクワクすることに思えました。

全10回の予定で「光明皇后」について語っています。本日は第六回「藤原氏から橘氏へ」です。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(ニ)平城京遷都
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi02.html

光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり
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光明皇后(四)長屋王の変
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光明皇后(五)立后
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。娘の孝謙天皇が即位すると宮中に「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

前回は、天平元年(729)光明子の立后と、施薬院・悲田院の設立。興福寺五重塔、興福寺西金堂のゆらいなど語りました。今回は第六回「藤原氏から橘氏へ」です。

天然痘の流行と四兄弟の死

天平9年(737)正月、遣新羅使が朝鮮から持ち帰った裳瘡(もかさ=天然痘)が九州で流行し、4月に死者が爆発的に増えました。

諸国の百姓はじめ殿上の公卿たちまで相次いで死亡しました。

その中に藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟も含まれていました。

藤原四子
藤原四子

四兄弟がそれぞれ見舞いに行っている中で、感染したようです。光明子は四人の兄弟をわずかな間にすべて失ったことになります。その心痛たるや、大変なものだったでしょう。しかし不幸中の幸で、聖武天皇も光明皇后も、感染しませんでした。

猛威をふるった天然痘はこの年の暮れにようやくおさまりますが、政界を牛耳っていた藤原四兄弟はすべて死に、8人いた公卿のうち生き残ったのは鈴鹿王(すずかおう、長屋王の弟)、橘諸兄(たちばなの もろえ)、大伴道足(おおともの みちたり)の3人だけでした。

是の年春、疫瘡大きに発(おこ)る。初め筑紫より来たりて夏を経て秋に捗(わた)る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死すること、勝(あ)げて計(かぞ)うべからず。近代以来、これ有らず。

『続日本紀』天平9年(737)12月27日条

当時、世の中に災害や疫病が起こるのは帝王の徳が足らないためだという思想がありました。聖武天皇もそのため大いに心を痛め、

良(まこと)に朕が不徳に由(よ)りて、この災殃(さいおう)を到せり。天を仰ぎて慚(は)じ惶り、敢えて寧(やす)く処(お)らず

と述べています。

猛威をふるった天然痘は天平9年(737)暮にようやくおさまりましたが、世の中に大きな傷跡を残しました。

聖武天皇、母宮子と対面

同年(737)12月27日、聖武天皇の母宮子が、皇后宮(皇后の御所)において僧正の玄昉法師を引見しました。聖武天皇もまた皇后宮に行幸しました。

宮子は父は藤原不比等、母は賀茂比売(かもひめ)。光明子の腹違いの姉妹です。首皇子(聖武天皇)を生んだ直後に、うつ病のような状態になって人と関わることができなくなり、引きこもっていました。それで聖武天皇は生まれてこの方、37年間にわたって、母と会ったことが一度もありませんでした。

玄昉がひとたび看病するや、宮子は正気を取り戻し、悟りを開いたふうになったと、それで聖武天皇とはじめて相まみえました。母上!母上ですか。おお…首かい。

法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡)
法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡)

宮子が正気にもどって天皇と相まみえたことを国中が喜び祝した、それで聖武天皇は玄昉に褒美をとらせたと『続日本紀』に記してあります。

ただしその後も聖武天皇と宮子の交流をしめすような記事はなく、生涯、母子関係は断絶していたようです。

それにしても、いかに宮子がふつうでない状態であったからといって、物ごしに見たりくらいはできそうなものです。それが37年間、一度も母と子が会っていないのは、異常です。

藤原氏が宮子の異常な状態を見て、表に出さないように厳重に隔離していたのかもしれません。それが藤原四兄弟が相次いで死んだことで、宮子を隔離しておく必要がなくなったので、母子対面と相成ったのかもしれません。

聖武天皇は母子対面のお膳立てをした玄昉と吉備真備に感謝します。

玄昉と吉備真備。ともに養老元年(717)遣唐使として中国にわたり、天平7年(735)に経典や仏像をもって帰国していました。

玄昉は唯識論を学んだ学問僧で、中国で皇帝から僧侶として最高のほまれでふる紫の袈裟を賜り、聖武天皇からも紫の袈裟と僧正の位を賜っていました。

吉備真備ははじめ下道真備(しもつみち まきび)といい、吉備地方出身の豪族で、玄昉とともに遣唐使で中国に渡りました。阿倍仲麻呂とともにその学識で名を馳せました。伝説的な話ですが、囲碁を日本にもたらしたのが吉備真備といわれています。帰国後、真備は宮子のいる中宮職の次官をつとめたので、常に宮子のそば近くにありました。

玄昉と吉備真備のはたらきで、宮子と聖武天皇の36年ぶりの対面が実現したのです。以後、玄昉と吉備真備は聖武天皇から重く用いられるようになっていきます。

橘諸兄政権の始まり

藤原四兄弟なき後、政界の再編成が行われます。天平9年(737)9月、橘諸兄(たちばなの もろえ)が大納言に任じられます。

橘諸兄。県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と、美努王(みぬおう、不比等以前の夫。敏達天皇の玄孫)との間に生まれた子で、光明子の義理の兄にあたります。もとは葛城王(かづらきおう)といいました。

橘諸兄公旧趾(京都府綴喜郡井手町)
橘諸兄公旧趾(京都府綴喜郡井手町)

橘諸兄・光明子の母・三千代は和銅元年(708)11月、元明天皇即位後の大嘗祭の宴の席で、天皇より「橘」の姓を賜りました。元明天皇は三千代を召して、代々朝廷に女官として誠実に仕えていることを褒め、橘を浮かべた盃を三千代に与え、

「橘は人の好む最高の果物である。その枝は霜雪に耐え、その葉は寒暑を経てもしぼまない。玉と光を競い、金銀にも負けず美しい。このすばらしい橘にちなみ、橘宿禰の姓を与えよう」

こうして県犬養三千代は、県犬養橘三千代となりました。

天平5年(733)母三千代が死んだ後、息子の葛城王は聖武天皇に願い出ました。

「橘という姓は母三千代が死んだ今、誰も継がなければこのまま無くなってしまいます。私に継がせてください」

そこで聖武天皇は橘の姓を許しました。これが、皇族に臣下の姓が下される初の例です。

その後の宴の席で、

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉(とこは)の樹

(橘は実も花もその葉さえも、枝に霜が降っても年中葉を茂らせているすばらしい樹木だ)

橘諸兄はこの目出度い歌を賜りました。歌を詠んだのは聖武天皇説と、元正上皇説があります。傍らには光明皇后の姿もありました。

橘諸兄公供養塔(京都府綴喜郡井手町)
橘諸兄公供養塔(京都府綴喜郡井手町)

一方、藤原氏は…藤原四兄弟の時代とはうってかわって、落ち目になりました。

四兄弟が死に絶えたため、わずかに武智麻呂の長男、豊成(とよなり)が参議の列に加えられただけでした。これは実質、藤原氏から橘氏へ政治の実権がうつった人事でした。

次回「藤原広嗣の乱と恭仁宮遷都」につづきます。

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解説:左大臣光永