光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり

こんにちは。左大臣光永です。

丹波米を、毎日食べてます。京都の丹波地方でとれた米です。白米だけで、じゅうぶんいけます。丹後米はよく見るけれど、丹波米はスーパーなどにあまり置いてない気がします。丹波はそもそも田んぼが少ないために、丹波米はあまり出回らないと聞いたことがあります。とにかくおいしいです。納豆とか、明太子とかのせなくても、白米そのものがおいしいのが、よいです。

前々回から10回の予定で「光明皇后」について語っています。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(ニ)平城京遷都
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子(おびとのみこ)=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。娘の孝謙天皇が即位すると皇太后の家政機関「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

前回は和銅3年(710)平城京遷都から、養老4年(720)藤原不比等の死まで語りました。本日は第三回「聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり」です。

不比等亡き後 武智麻呂の抜擢

養老5年(721)正月の除目で、長屋王が右大臣に、不比等の嫡男武智麻呂(むちまろ)が大納言に任じられます。

「いよいよか…」

襟を正す藤原武智麻呂。

武智麻呂が大納言に任じられたということは、名実ともに不比等の後継者として、武智麻呂が藤原氏のトップにおどり出たことを示していました。

藤原四子
藤原四子

東宮近侍

同月、武智麻呂は16人の役人を「東宮近侍(とうぐうきんじ)」として、首皇子のおそばにつけます。いわば首皇子教育チームです。

「お前たち、皇子さまの教育を、しっかりとたのむぞ」
「誠心誠意、努めます」

「風流の侍従」といわれた教養人佐為王(さいおう・さいのおおきみ=橘為王)、万葉歌人の山上憶良などそうそうたるメンバーでした。

さっそく武智麻呂の政界における発言力がましているさまがうかがえます。

元明上皇の崩御

養老5年(721)夏から、元明上皇は病の床につきました。10月13日、枕元に右大臣長屋王と参議藤原房前を呼びます。

「朕の葬送についてじゃ…」
「そんな上皇さま、弱気をおっしゃいますな」

ついで10月24日、藤原房前を内臣(うちつおみ)に任じ、天皇(元正)をよく補佐するように命じました。

内臣は天皇の私的な相談役で律令制にはない特別な役職役です。房前の祖父鎌足が天智天皇の内臣に任じられたのが最初の例です。長男の武智麻呂のほうが立場が上なのに、元明上皇はあえて次男の房前を内臣に任じた。ここには日に日に武智麻呂の政治力がましてくるのを、抑えようという意図があったようです。しかし武智麻呂としては、弟に出し抜かれた形で、おもしろくないです。

同年12月7日、元明上皇は亡くなりました。享年61。墓は奈良市奈良坂町の奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)がそれです。

元明天皇陵
元明天皇陵

元正天皇の吉野行幸

養老6年(722)12月、元正天皇は、母元明上皇の一周忌を待って、譲位に向けて動き始めます。

12月13日、天武天皇・持統天皇のために弥勒像と釈迦像を造らせます。持統天皇は一人息子草壁皇子を愛し、帝位につけることを強く望みました。しかし草壁が若くしてなくなると、次に草壁の子である軽皇子(かるのみこ)を帝位につけて、文武天皇とします。

今回、文武の子である首皇子(=聖武)を帝位につけることは、草壁→文武→聖武と直系の血筋を伝えることであり、すなわち持統天皇の願いを受け継ぐことでした。

弥勒菩薩を造らせたのは、持統天皇への報告だったでしょう。

年明けて養老7年(723)5月9日、元正天皇は吉野に行幸します。吉野は壬申の乱の前に天武天皇・持統天皇夫婦婦が難を逃れてこもっていた場所です。

また天武天皇没後、持統天皇は夫天武との思い出の地である吉野に、30回以上も行幸しています。つまり吉野は持統天皇から現政権につながる、精神的な出発点ともいえる場所なんですね。そうした意味での、記念行事的な、元正天皇の吉野行幸でした。

聖武天皇の即位

明けて養老8年(724)2月4日、首皇子が元正天皇の譲位を受けて即位し、聖武天皇となりました。聖武24歳、光明子も24歳でした。ここに改元して神亀元年となります。

平城宮跡 第一次大極殿
平城宮跡 第一次大極殿

高御座
高御座(たかみくら)

この日、皇太子妃であった光明子は夫人(ぶにん)に格上げとなりました。同じく聖武の皇太子妃であった県犬飼広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)も格上げして夫人となりました。

また聖武の母宮子には大夫人(おおぶにん)の称号が贈られます。ただし宮子はいまだ精神を病み、引きこもって人と会えない状態でした。

この日出された即位の宣命には、元正天皇の言葉として、このように書かれています(『続日本紀』より)。

「この天下は文武天皇から首皇子に譲られるべきものであった。しかし首皇子がまだ幼かったので、朕の母(元明天皇)に、さらに朕(元正天皇)に授けられたのである。朕が母から帝位を授けられた時、「不改常典(ふかいじょうてん)」によって、天下はいずれ首皇子に譲られるべきものであることが厳命された」

つまり、本来文武天皇から首皇子に譲位されるのが正しく「不改常典」に即したことである。元明・元正の二代は、あくまでも中継ぎである、ということです。

「不改常典」とは何でしょうか?

「不改常典」とは、もともと天智天皇が大友皇子を即位させるために定めた、「代々直系の男子に天皇の位を継がせていく」という決まりです。

天智天皇は当初、弟の大海人皇子に位を譲るつもりでいました。しかし、晩年に嫡男の大友皇子に譲りたい気が起こってきました。そのため、直系の男子が正当な皇位継承者である、という原則を、口頭で打ち出しました。

天智が口頭でさだめたこの「不改常典」を、ずっと後年、天智の娘である持統天皇が利用しました。

すなわち天武の次には天武の直系の男子である草壁皇子こそがふさわしい。しかしその草壁が死ぬと、次は草壁の直系である軽皇子こそふさわしいとして、文武天皇を即位させたのです。

ようするに「不改常典」は、持統天皇が草壁皇子の直系の血筋を残すために掲げた方便といえます。その「不改常典」に従えば、文武の息子である首皇子がすぐに即位すべきだった。しかし首皇子が幼かったために、中継ぎとして、元明天皇・元正天皇という女帝が二代にわたって立ったが、それはあくまでイレギュラーであって、首皇子を即位させるのが正しいんだよ、という話です。

長屋王政権のはじまり

聖武即位の当日、従二位右大臣長屋王は昇進して正二位左大臣長屋王となりました。名実ともに、長屋王(天武天皇皇孫)が政界のトップとして躍り出たのです。また同日、舎人親王・新田部親王(ともに天武天皇皇子)にも昇進がありました。長屋王・舎人親王・新田部親王といった、天武天皇の直系を軸にした「皇親体制」が強化された人事でした。

「朕はまだ若く未熟である。長屋王よ、そなたを頼みにしておるぞ」

「ははっ」

時に聖武天皇24歳、長屋王の誕生年は天武天皇5年(676年)説と天武天皇13年(684年)年説がありますが、前者とすると49歳。聖武にとって長屋王は25歳年上の人生の大先輩で、頼りがいのある側近に思えたことでしょう。

聖武天皇の吉野行幸

聖武天皇は御代はじめの人事を終えると、3月1日、吉野に行幸し、4日間とどまり5日に平城京にもどります。おそらく光明子も一緒だったでしょう。天武天皇と持統天皇が壬申の乱の前に、吉野にこもったことに習ったと思われます。

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

天武・持統夫婦にとって、吉野こそ出発点であった。それと同じく、聖武・光明子夫婦も吉野を出発点とするのだ、という一種の儀式だったのでしょう。

また聖武天皇の父文武天皇は、聖武がおさない頃に亡くなったため、聖武天皇が精神的な父として、天皇の手本として見たのは曽祖父にあたる天武天皇でした。その意味からも聖武は天武天皇ゆかりの吉野に行幸したのでしょう。

次回「長屋王の変」に続きます。

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解説:左大臣光永