光明皇后(一)父と母
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このご時世、なかなか外にも出られませんので、引きこもって過去の講演録音を整理しています。あらためて聴くと、下手くそなところや滑舌の悪いところ、知識の間違い、言い間違いも所々にありますが、総じて面白く、自分で喋ったことが信じられないくらい面白くて、ビックリしています。少しずつyoutubeにアップしていきます。お楽しみに。
本日から10回の予定で「光明皇后」について語ります。
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光明皇后=光明子(こうみょうし)。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子(おびとのみこ)=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、天平元年(729)長屋王の変の後、皇后となる。娘の孝謙天皇が即位すると皇太后の家政機関「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院・悲田院を設けるなど弱者救済の社会事業にもつとめました。
興福寺五重塔(光明皇后建立を再建)
出生
光明子が生まれたのは大宝元年(701)文武天皇の御代、藤原京に都があった時代です。
藤原宮跡
父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養美千代(あがたいぬかいのみちよ)、幼名を安宿媛(やすかべひめ)といいました。母三千代の出身地に隣接する、河内飛鳥の安宿郡(やすかべぐん)にちなんで命名されたと思われます。
父 藤原不比等
父藤原不比等(ふひと)は中大兄皇子とともに乙巳の変(645年)で蘇我氏を亡ぼした、藤原鎌足の次男として斉明天皇4年(658)に生まれました。不比等の兄を真人(まひと)といい、真人と不比等は車持君与志古娘(くるまもちのきみ よしこのいらつめ)を母に持つ同母兄弟というのが定説です。
不比等の兄、真人は皇極天皇2年(643)生まれ。不比等より15歳年上です。白雉4年(653)11歳で出家して貞恵(じょうえ)と名乗り、学問僧として唐にわたり、天智天皇4年(665)9月に帰国しましたが、同年12月、没しました。23歳でした。
貞恵が若死にした理由として、帰国の途中、百済で詩を献上したところ、あまりにその出来がよいため才能を恨まれて毒殺されたといわれますが、これは伝説でしょう。しかし父鎌足が「わが子ながら非凡の子」といったというので、よほど出来のいい人物だったのは事実のようです。その才能が活かされずに若くして死んでしまったことは、鎌足もさぞ無念だったでしょう。
兄貞恵が帰国した時、不比等は8歳でした。不比等は貞恵が唐にいる間に生まれているので、これが兄に会う初めてだったわけです。それからわずか3か月で貞恵が亡くなっていますので、不比等にとって兄の存在はほとんど意識されなかったと思われます。
こうして不比等が家督を継ぎました。父鎌足の死後3年目の672年に壬申の乱が起こります。
不比等は立場からすれば負けたほうの近江朝廷側にいたわけですが、この年まだ15歳。戦にも加わらず、お咎めはありませんでした。
ただし中臣の親族の多くが処刑され、不比等自身も下級役人からのキャリアのスタートとなってしまいました。
しかし不比等の姉(氷上娘 ひかみのいらつめ)と妹(五百重娘 いおえのいらつめ)が天武天皇に嫁いだこともあり、後々不比等が頭角をあらわす地盤はととのえられていました。
不比等が頭角をあらわすのは次の持統朝に入ってからです。
686年、天武天皇が亡くなると、皇后鸕野讚良(うののさらら)は息子草壁皇子を将来帝位につけるため、ライバル関係にあった大津皇子を謀殺し(大津皇子の変)ます。しかし草壁皇子は689年5月、28歳で亡くなってしまいます。
最愛の一人息子草壁の死に涙する鸕野讚良。しかし鸕野讚良は次に、草壁の子の軽皇子(文武天皇)を即位させようと考えました。また夫天武から引き継いだ遺志として、藤原京の造営・遷都を進めました。
そして孫の軽皇子(かるのみこ)が即位するまでのつなぎとして、690年、みずから41代持統天皇として即位します。
持統天皇は藤原京の造営・遷都を行うため、天武天皇の長男・高市皇子(たけちのみこ)を太政大臣の位に抜擢し、政界のトップの座につけました。壬申の乱の時、父天武天皇の片腕として活躍した、高市皇子です。母方の身分が低いため天武天皇の皇子たちの間ではふるいませんでしたが、おそらく持統は壬申の乱のさなかに高市皇子の実務能力の高いことをまぢかに見て、その能力を買っていたのでしょう。この子はできる子だわと。
こうして694年、高市皇子のもと、飛鳥浄御原宮から藤原京への遷都が行われました。しかし藤原京遷都2年目の696年、高市皇子は亡くなってしまいます。
「なんということでしょう。高市がいなくて、私は誰を頼みにしたらよいの…」
そこで、高市の後釜として、持統天皇の右腕的立場に抜擢されたのが、藤原不比等でした。不比等の父鎌足が、持統の父天智天皇のブレインであったことからの採用でしょうが、そういう縁故的なことだけでなく、持統ははやくから不比等の才能を見抜いてもいたのでしょう。
翌697年、持統天皇は軽皇子に帝位を譲り、文武天皇の世となりますが、持統はなおも孫・文武天皇を補佐して、持統上皇として生涯権力の座にあり続けます。そして持統に大いに信頼されて、藤原不比等も大いに活躍の場を得るわけです。
ことに、701年制定の大宝律令は、不比等がおこなった業績の第一に挙げられます。
天武天皇の時代に浄御原令という法典がありましたが、未完成で中途半端な状態でした。701年制定の大宝律令はわが国初の体系的な律令法典とよべるもので、後世の法典の手本となりました。
母 県犬養三千代
一方、光明子の母、三千代(みちよ)は県犬養(あがたいぬかい)氏の出身です。父を県犬養東人(あがたいぬかいの あずまひと)といいました。
県犬養氏は河内国古市郡(ふるいちぐん)を本拠地とする中流の豪族で、稚犬養(わかいぬかい)氏・海犬養(あまのいぬかい)氏とならび、犬を飼って朝廷の門や倉庫の警備をする役目を代々負っていた氏族です。
一族の大伴吹負(おおともの ふけい)が天武天皇のもと、壬申の乱で功績を立てたことから、天皇家に重く用いられるようになっていました。三千代が朝廷に出仕するようになったのも、大伴氏による仲立ちあってのことと思われます。
三千代は不比等の前に美努王(みぬおう)と結婚していました。美努王は敏達天皇の玄孫(孫の孫)です。美千代と美努王の間には葛城王(かづらきおう)、佐為王(さいおう)、牟婁女王(むろじょおう)の三人が生まれます。長男の葛城王が、後に橘の姓をたまわり橘諸兄(たちばなの もろえ)となります。
聖武天皇と光明子
光明子が生まれたと同じ大宝元年(701)、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)が生まれます。父は文武天皇。母は藤原不比等の娘宮子。後に夫婦となる聖武天皇と光明子はおない年です。そして聖武の母藤原宮子と光明子ともに不比等を父とするは腹違いの姉妹です。濃密な血のつながりです。
この大宝元年という年は3月に対馬から金が産出されたことを祝って年号が「大宝」となり、8月に「大宝律令」が制定され、天智朝以来30年ぶりとなる遣唐使が任命されました。日本の歴史にとって大きなマイルストーンともいうべき年でした。
聖武の母 宮子
幼少の首皇子=聖武天皇がどのように養育されたかはわかりませんが、母宮子は首皇子を出産するとすぐにうつ病?のような状態になり、人と関わることもできなくなりました。
それで聖武は生まれてこの方、一度も母の姿を見たことがありませんでした。37歳の時、宮子が僧玄昉(げんぼう)を引見すると宮子はハッと正気を取り戻した。そこではじめて母宮子と息子聖武は対面した。といういきさつが『続日本紀』に書かれています。なんと聖武は37歳まで実の母と会ったことがなかったわけです。。
不比等のもとで養育される光明子・首皇子
幼い首皇子は母と引き離され、祖父にあたる藤原不比等の邸宅で育てられました。なにしろ首皇子が帝位につけば不比等は外祖父です。ただ孫がかわいいというのとは次元が違います。首皇子は不比等の邸宅で、大切に大切に養育されました。
そして光明子も同じく不比等邸内で育てられていました。光明子の母三千代は不比等の妻の中でも正妻格であり、したがって三千代と光明子の母子は不比等邸内に同居していたと考えられます。
想像してください。
おない年の光明子と首皇子。方や不比等の娘。方や不比等の孫。その二人がいっしょの邸宅に住んでいる。いっしょに遊んだり、ふざけたり、いわゆる幼馴染ですね。
『伊勢物語』の筒井筒の話のように…おさななじみの男女が罪のないじゃれあいをしている、ほほえましい様が浮かんでくるじゃないですか。
藤原皇后の、天皇に奉れる御歌一首
わが背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(万葉集巻8-1658)
藤原皇后は光明子。我が夫と二人で見ているのであれば、どんなにこの降る雪の嬉しかったろうに。
詠まれた時期は不明ですが、光明子の聖武天皇への愛情が伝わってきます。
不比等邸跡としては奈良の法華寺が有名ですが…それは平城京に遷都した後ですから、藤原京に都があったこの頃は、とうぜん、藤原京のどこかにあったわけです。『扶桑略記』には不比等の邸宅が藤原京の「城東第」にあった記録があります。正確な場所もわからず、史跡なども残ってませんが、「城東第」というだけに藤原京の内裏東方面に屋敷があったと思われます。その城東第で、光明子と首皇子は養育されたわけです。
次回「光明皇后(ニ)平城京遷都」に続きます。
講演録音 公開中
NEW 日蓮と一遍(90分)
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武田信玄(一)信濃攻略(71分)
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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。
第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。
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