光明皇后(ニ)平城京遷都

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こんにちは。左大臣光永です。

確定申告が終わりました。例年より、スムーズに進みました。いつもつまづくところは決まっていて、私の場合、減価償却の考え方と、保険料などはどこに書くのか?頭がこんがらかります。毎年つまづいたところをメモにまとめて、自分用のマニュアルを作っているので、今年はつまづきも少なく、だいぶスムーズにやれました。

前回から10回の予定で「光明皇后」について語っています。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。娘の孝謙天皇が即位すると皇太后の家政機関「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

光明皇后陵
光明皇后陵

本日は第二回「平城京遷都」です。

元明天皇即位

慶雲4年(707)6月、首皇子(おびとのみこ=後の聖武天皇)の父、文武天皇が25歳の若さで亡くなります。文武は晩年、病の床につき、母の阿閉皇女(あへのひめみこ)を枕元に呼びます。

「母上に、位を譲りたいのです」
「そんな…私にはとてもつとまりません」

本来であれば息子の首皇子に譲位したい。しかし首皇子はまだ7歳。即位どころか立太子にすら早すぎる。そこで中継ぎの天皇として立ってほしいというわけです。

母阿閉皇女は再三辞退しましたが、結局、受けました。翌7月、元明天皇として即位します。首皇子にとっては祖母に当たります。

天皇の母が即位するのは異例のことでした。しかもこれまでの女帝(推古、皇極=斉明、持統)はすべて、以前に皇后をつとめていました。元明天皇は草壁皇子の后でしたが、草壁皇子は即位せずに亡くなっています。なので元明天皇の即位は異例中の異例で、どう見ても「つなぎの天皇」でした。元明天皇はそれを承知の上でご即位されました。

元明天皇陵
元明天皇陵

元明天皇が即位した翌年の和銅元年(708)3月の人事で、藤原不比等が大納言から右大臣に昇進します。同時に右大臣石上麻呂が右大臣から左大臣に昇進しました。しかし石上麻呂は69歳の老人であり、左大臣といっても名誉職的なものです。実質、不比等が政界のトップに立った人事でした。

平城京遷都

和銅元年(708)元明天皇により遷都の詔が下され、和銅三年(710)3月、藤原京から平城京への遷都が行われます。平城京遷都はすでに文武天皇の時代からプランが始まっていましたが、文武天皇が亡くなったことで一時棚上げにされていました。それをいよいよ実行に移したのでした。音頭を取ったのは右大臣藤原不比等でした。

『続日本紀』にはごく簡単に「はじめて平城京(ならのみやこ)へ遷都した」とだけ記されています。光明子と首皇子は10歳でした。

藤原京と平城京
藤原京と平城京

平城京
平城京

持統天皇が藤原京に遷都したのが持統8年(694)。長く都として使ってほしいという持統天皇の願いをフイにしてまで、多額の予算と人員を費やしてまで遷都をおこなったのは、なぜか?

平城宮跡 第一次大極殿
平城宮跡 第一次大極殿

理由は諸説あって、わかりません。

藤原京が狭くなったのでより広い平城京へ遷都することになった。昔はそのように言われていましたが、最近の発掘調査で、むしろ藤原京は平城京よりも広かったことがわかってきました。

なので、「藤原京が狭くなったので平城京に遷った」という説はあたりません。

また藤原京は「天子南面す」という中国の思想にそぐわないから、という説もあります(『易経』「聖人南面而聽天下」)。

「天子南面す」

すなわち中国では、天子たるもの、北の高くて乾燥した場所に内裏をさだめ、南を向いて天下を収めるべきだという思想です。皇帝を北極星にみたてた考えだとも言われます。

「天子南面す」の思想からいくと、藤原京の内裏はたしかに北のほうにあり「南面」してはいましたが、藤原京は南が山であり、南が高く北が低いです。都の中央を斜めにつらぬく飛鳥川は、南から北に流れています。

つまり天子が南面していても、天下を見渡せず、具合が悪い。ために遷都した…これも一つの説です。

また701年に「大宝律令」が制定され、律令国家としての礎が整いつつありました。そのため律令国家にふさわしい新しい都を求めたとか、首皇子(おびとのみこ)…後の聖武天皇が天皇として華々しくデビューする舞台を整えるためとか、いろいろな説があります。

立太子

平城京に遷都してから4年めの和銅7年(714)6月、首皇子が立太子、ついで元服します。14歳でした。それまで養育されていた藤原不比等邸(現 法華寺)を出て、平城宮東院(東宮)に移ります。

平城宮の東院とは、平城京の中心部「平城宮」の東側のでっぱり部分です。

平城宮の東院
平城宮の東院

飛鳥にせよ大津にせよ藤原宮にせよ、後の長岡宮、平安宮にせよ、天皇のまします宮城というものは正方形か長方形であるのがふつうです。それが、平城宮にかぎってどうしてこういう不自然なでっぱりがあるのか?さまざまな説がありますが、結論は出ていません。

昭和42年(1967)の発掘調査で東院東南の隅に庭園の遺構がみつかり「東院庭園」と名づけられました。現在この位置には庭園や建物、曲水(曲がりくねった遣水)が復元整備されています。

平城宮跡 東院庭園
平城宮跡 東院庭園

翌和銅8年(715)正月の朝賀は、首皇子がはじめて礼服を着て、ことに華やかに行われました。

以後、不比等の嫡男の武智麻呂(むちまろ)が、東宮傅(とうぐうふ)として皇太子首皇子の教育にあたります。漢詩・漢文・歴史などを教える、家庭教師です。

元明朝から元正朝へ

和銅8年(715)9月、元明天皇は娘の氷高内親王に譲位します。元正天皇です。元明天皇55歳。元正天皇26歳。首皇子はまだ15歳であり、即位にはまだ早すぎるので、元正は首皇子への譲位を見合わせたのでした。

不比等としては、一刻も早く首皇子を即位させたかったでしょう。しかしゴリ押しして首皇子を即位させることはしませんでした。

なぜか?

当時の天皇は単なる権威ではなく、豪族を束ね、政務を行う政治上のトップでした。そのためある程度の年齢・実務経験が必要とされました。

近い過去に文武天皇が15歳で即位した例がありますが、それとて祖母の持統上皇の後見あってのことでした。ようするに当時、若くして即位するのは、異例中の異例でした。不比等はあえてゴリ押しせず、首皇子即位までの地盤をじっくり固めようと考えたのでしょう。

元正天皇陵
元正天皇陵

光明子の入内

霊亀2年(716)光明子は首皇子の后として入内します。光明子も首も16歳でした。

光明子の入内とほぼ同時期に、別の后、県犬養広刀自(あがたいぬかいの ひろとじ)が入内しています。県犬養広刀自は光明子の母・県犬養三千代の同族で、三千代のすすめで入内したと思われます。

光明子と県犬養広刀自
光明子と県犬養広刀自

光明子と県犬養広刀自。一人の皇太子に二人の后。ふつうならライバル関係になるところですが、広刀自の父唐(もろこし)は下級の役人にすぎず、しかも光明子は今をときめく藤原不比等の娘。ライバル関係にはならない。むしろ首皇子と光明子の関係をわきから補佐してもらおうという意図もあって、県犬養三千代は広刀自を入内させたようです。

不比等死す

養老4年(720)8月1日、藤原不比等が重体に陥ります。元明天皇は、天下に大赦を行ったり、特別に三十人に得度をゆるしたり、読経させたり、奴婢を解放したりしましたが、ききめはありませんでした。8月3日、ついに亡くなりました。正二位右大臣。享年63。時に娘の光明子は20歳。首皇子も20歳でした。

遺体は10月8日、平城京の北方、佐保山椎岡(さほやまのならおか)で火葬にされました。10月23日、元明天皇は大納言長屋王と中納言大伴旅人を不比等の邸宅に遣わし、太政大臣正一位を追贈しました。

不比等の没後、その邸宅と財産のほとんどは娘の光明子が相続しました。後に、光明子が立后してからこの地に皇后宮職(こうごうぐうしき)という役所が置かれ、さらに後に法華寺(ほっけじ)となり、今に至ります。

法華寺本堂
法華寺本堂

興福寺境内北側にある北円堂(ほくえんどう)は、元明上皇と元正天皇が藤原不比等の菩提を弔うため、右大臣長屋王に命じて建てた八角円堂です。

興福寺北円堂
興福寺北円堂

養老5年(721)8月3日、不比等の一周忌に完成しました。現在の建物は鎌倉時代の再建です。春と秋のみ公開されています。

次回「光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権のはじまり」につづきます。

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解説:左大臣光永

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