光明皇后(七)藤原広嗣の乱と恭仁宮遷都

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こんにちは。左大臣光永です。

緊急事態宣言で、近所の居酒屋なども20時に閉まるようになりました。20時に閉まるということは、19時30分にはラストオーダーです。これから飲みたくなるって時間です。仕方ない、自宅で飲もうということになり、どうしても酒量が増えます。困ったもんです。

全10回の予定で「光明皇后」について語っています。本日は第七回「藤原広嗣の乱と恭仁宮遷都」です。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(五)立后
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi05.html

光明皇后(六)藤原氏から橘氏へ
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。

娘の孝謙天皇が即位すると宮中に「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

前回は、天平9年(737)天然痘の流行による藤原四兄弟の死から、橘諸兄政権の樹立まで話しました。今回は第七回「藤原広嗣の乱と恭仁宮遷都」です。

阿倍内親王の立太子

天平10年(738)正月13日、聖武天皇と光明皇后の娘、阿倍内親王が皇太子に立てられました。21歳でした。後の孝謙天皇です。女性の皇太子は史上はじめてです。

以前の女帝(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正)はすべて、立太子を経ずに即位しています。女帝はつなぎであり、一時的なものだという考えがあったためです。しかし聖武天皇はあえて阿倍内親王を正式に皇太子に立てました。これは、「阿倍はつなぎではない。男の天皇と同じ、正式な天皇なのだぞ」と聖武天皇が天下に示したものでした。

とはいえ、聖武天皇には県犬養広刀自との間に生まれた男子、安積親王(あさかのみこ)がいました。安積親王が成長すれば、将来即位させることもありうる。しかし安積親王が若死にすることもありうる…さまざまなプランを想定した上での阿倍内親王立太子でした。

基王と安積親王
基王と安積親王

この日、大納言橘諸兄(たちばなの もろえ)は従三位から正三位に叙せられ、右大臣に任じられます。

「諸兄、よろしく朕の政を補佐してたもれ」
「ははっ」

阿倍内親王の立太子と橘諸兄の昇進が同じ日に行われたのは、両者がセットになっていて、つまり橘諸兄が側近として阿倍内親王を支えるこというプランでした。

藤原広嗣の乱

僧玄昉と吉備真備は、聖武天皇と母宮子を対面させて以来、聖武天皇に重く用いられました。それに対して藤原氏は、わずかに武智麻呂(南家)の子、豊成(とよなり)が参議に進んだだけで、政権から遠ざけられてしまいました。

藤原宇合(式家)の長男・藤原広嗣は、不満をたぎらせていました。

藤原広嗣と藤原豊成
藤原広嗣と藤原豊成

「吉備真備は学者、玄ボウは坊主ではないか。
どうして学者や坊主に政治のことがわかろう」

「広嗣殿、あまり過激な発言は控えたほうが…」
「豊成殿。参議のあんたがそんな弱気でどうするか!」(グワッとつかみかかる)
「うわわ、広嗣殿、乱暴はやめてください」

…こんな調子でしたから、広嗣は橘諸兄政権下で孤立するのみならず、藤原氏内部ですら孤立していきました。天平10年12月、突如、大和守から大宰少弐に左遷され、九州に飛ばされます。都から遠く離れた九州の地で、広嗣はいよいよ不満をたぎらせます。

天平12年(740)8月、藤原広嗣は「君側の奸」吉備真備と玄昉をのぞくことを要求する上表文を、朝廷に提出します。
そして太宰小弐の権限を活かして兵力を集め、朝廷からの返事が届く前に挙兵に踏み切りました。

「これは反逆である!」

聖武天皇はすぐさま大野東人(おおののあずまひと)を大将軍に任命。諸国の兵17000人を動員し、討伐に向かわせました。

藤原広嗣の乱
藤原広嗣の乱

「来るなら来い!」

藤原広嗣は朝廷軍を迎え撃ちますが、北九州板櫃川(いたびつがわ)の合戦で敗れ、耽羅(済州島)に逃れようとしましたが、強風で船が押し戻され、値嘉嶋に流れ着いたところを捕らえられ、斬られました。天平12年(740)12月のことでした。ここまで2ヶ月。聖武天皇の行動はす早いものでした。

藤原広嗣の乱
藤原広嗣の乱

恭仁京遷都

天平12年(740)10月、九州で反乱が続く中、聖武天皇はおかしな行動に出ます。突如、平城京を出て、伊勢に行幸したのです。

「朕思ふ所あるによつて今月の末、暫く関東にゆかんすと」と。

ここで「関東」とは逢坂の関の東のことです。

以後、五年間、聖武天皇は平城京に戻りませんでした。

>

伊勢滞在中に藤原広嗣の乱が鎮圧された連絡が届きます。

しかし聖武天皇は平城京に戻りませんでした。伊勢から美濃・近江を経て、その間、橘諸兄の別業のあった山背国相良郡の恭仁宮(くにのみや)に遷都することを発表します。

橘諸兄を都の造営のため先発させ、天皇自身は天平12年(740)12月15日、恭仁宮に入りました。


恭仁宮跡付近

この間の聖武天皇の行動はまったくもって不可解です。現在でも諸説あって結論が出ていません。

国分寺建立の詔

『続日本紀』によれば、

天平14年(742)2月14日、聖武天皇は恭仁宮において「国分寺造営の詔」を出しました(『続日本紀』による。日付は『類聚三代格』による)。これは光明皇后の強いすすめによるものでした。


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

全国に寺を建て、七重塔一基を造営する。あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経を各十部、書写させる。

また天皇自身は金泥で金光明最勝王経を書写し、七重塔一基につき一部をおさめる。全国に国分寺・国分尼寺を建立し、国分寺には僧20人。国分尼寺には尼10人を置くと。そうすれば四天王の恵みによって穀物はとれるし疫病もなくなるし、いいことづくめだと。

国ごとに寺を建てる構想は、唐の則天武后に習って光明皇后が思い立ったようです。

日本で持統天皇が天下を治めていた頃、中国でも女帝である則天武后が君臨していました。

則天武后は熱心な仏教徒で、各地に大雲寺を建て、経文の「大雲経」をおさめました。

なぜ「大雲経」か?

大雲経は女性の登場人物が多いのが特徴で、中にも浄光天女なる女性が仏の教えを受けて出世して女王となるくだりが、女帝である則天武后を正当化するものとして好まれたようです。

光明皇后は則天武后のことを強く意識して、国分寺・国分尼寺の造営に踏み切ったと思われます。

大養徳恭仁大宮

今造(つく)る久邇(くに)の都は山川の
清(さや)けき見ればうべ知らすらし
大伴家持 万葉集 巻6・1037

今造っている恭仁の都は、山川が清らかなのを見れば、なるほど都とするにふさわしい場所だ。

恭仁宮の造営はすすみ、天平13年(741)11月21日、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と名づけられました。
(『続日本紀』天平13年11月21日条)

恭仁宮があるのは山城国であって大和国ではないですが、木津川を越えて奈良坂を超えればすぐ大和(大養徳)なので、大養徳恭仁大宮と称したのでしょう。川口は埼玉だけど東京に近いから東京の一部みたいな理屈でしょうか。『万葉集』には高丘河内連(たかおかのかわちのむらじ)が詠んだ歌として、

故郷(ふるさと)は 遠くもあらず 一重山 越ゆるが故(から)に 念(おも)ひぞわが為(せ)し(巻6-1038)

奈良の都は遠くもないのだ。それなのに一山越えてここ恭仁宮に来てしまったばかりに、愛しい人と会うことができなくなり、私は恋い焦がれることになった。

年明けて天平14年(742)正月の宴の席で、六位以下の人々が琴を奏でて、歌いました。

新(あらた)しき年のはじめに かくしこそ つかえまつらめ 万代までも

(新年のはじめにこのように、お仕えしよう。そして万代の未来までも)

このように恭仁宮の造営はまったく安定し祝福に包まれていたかに見えました。ところがすぐに、様子がおかしくなってきます。

次回「大仏造営の詔」に続きます。

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