二・二六事件(三)突入

本日は「ニ・ニ六事件(三)突入」です。

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ニ・ニ六事件(一)蹶起
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa13.html

ニ・ニ六事件(ニ)説得と戒厳令
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa14.html

突入

昭和11年(1936年)2月26日の決起以来、反乱軍は永田町・三宅坂一帯の交通を遮断し、立てこもっていました。

2月29日午前8時、包囲軍は戦車を先頭に、包囲網を狭めていきました。戦車には、「謹んで勅命に従ひ」「武器を捨て、我方に来れ」「惑はず直ぐ来れ」などと書かれたビラが貼ってありました。

上空には飛行機が旋回し、ビラをまきました。

ビラは縦書きで、簡潔に書かれていました。その文面がとても有名です。

下士官兵ニ告グ

一 今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
ニ 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

二月二十九日 戒厳司令部

8時55分、戒厳司令部の放送室から中村茂(なかむら しげる)アナウンサーが叛乱軍に繰り返し、帰順を呼びかけました。有名な「兵に告ぐ」の名放送です。

今からでもけっして遅くないから、ただちに抵抗をやめて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたらいままでの罪も許されるのである…

「今からでも遅くない」という言葉はその後、流行語となり、1万通もの感謝状が届きました。

またアドバルーンを上げて、「勅命下ル軍旗ニ手向カフナ」の字を掲げました。

叛乱軍は動揺しました。ほとんど不眠不休で、食糧も底がついている上、歩兵第一連隊、第三連隊から上官や同僚が乗り込んできて説得にあたりました。

部下を見殺しにするつもりか、なあ、悪いことはいわんから。俺たちは同じ釜のメシを食った仲間ぢやないかと…。

やがてあちらから一人、こちらから一人と、次々と投降してきました。

しかし、山王ホテルに陣取った安藤輝三(あんどう てるぞう)大尉の部隊だけは動きませんでした。

午後1時ころ、安藤輝三大尉は部下をホテルの庭に集めて別れの言葉をのべ、全員で中隊歌を合唱します。

曲が終わった瞬間、安藤大尉はピストルを喉元に当てて引き金を引きました。

兵士たちが駆け寄り、安藤大尉の顔に「尊皇討奸」と書かれた中隊旗をかぶせました。

血にそまる中隊旗。

涙をながし抱き合う兵士たち。

ただし安藤大尉はその後、陸軍病院に運ばれ手術を受け、一命はとりとめました(結局は死刑になりますが…)。

29日午後2時、下士官と兵士たちは全員、もとの隊にもどりました。

将校は下士官・兵士たちとの別れをすませると、全員が陸軍大臣官邸に集められました。

山下奉文(ともゆき)少将より自決が言い渡されました。野中四郎大尉が拳銃で自決しました。

しかしほかの者は自決を思いとどまり、法廷闘争にのぞみをたくすことにします。

彼らは武装解除させられ、午後6時ころ、護送車で代々木宇田川町(うだがわちょう。現渋谷区宇田川町)の陸軍刑務所に送られました。

裁判

3月4日、緊急勅令が発せられ、東京陸軍軍法会議が開設されました。

この日、天皇が本庄繁(ほんじょう しげる)侍従武官長に言われたことに、

自分としては、もっとも信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、自分を真綿にて首を締むるがごとく苦悩せしむるものにしてはなはだ遺憾に堪えず。而して其行為たるや憲法に違ひ、明治天皇のご勅諭(軍人勅諭)にも悖(もと)り、国体を汚し其明徴(めいちょう)を傷つくるものにして深く之を憂慮す。此際十分に粛軍の実を挙げ、再び失態なき様にせざるべからず。

『本庄日記』

「一審、上告なし、非公開、弁護人なし」で、代々木ノ原に臨時に建てられた六棟のバラックで、4月末から裁判が始まりました。

裁判の過程はほとんど報道されず、国民は何が起こっているのかさっぱりわかりませんでした。そのため「暗黒裁判」と批判されました。

被告らはほとんど何も主張することをゆるされず、弁護人どころか証人をよぶこともゆるされませんでした。

それは五・一五事件の犯人が、公開裁判で、傍聴人たちを前に大いに弁舌をふるい、しかも一人も死刑にならなかったのとは、きわめて対照的でした。

死刑執行

7月5日、第一次判決がくだり、香田清貞、磯部浅一、栗原安秀はじめ首謀者17人に死刑判決が下りました。7月12日、15名の死刑が執行されました(17名のうち村中、磯辺の2名は重要証人として執行延期)。

刑務所敷地内にもうけられた処刑場で、犯人らはヒノキの十字架を背にして筵の前に正座させられ、晒木綿で両腕、頭、胴を十字架にしばりつけられると、末期の水を与えられ、それから、「天皇陛下万歳」とさけんで銃殺されました。

銃殺を担当したのは千葉の佐倉連隊の下士官たちでした。犯人らと直接の面識があったわけではないにしても、皇軍相撃つの形となったことは、やはり悲痛な思いがあったでしょう。

7月29日に二次判決が、昭和12年(1937)1月に三次判決が下り、幇助者数名の刑も確定しました。

同年8月、北一輝(きた いっき)と西田税(にしだ みつぎ)に死刑判決、亀川哲也に無期禁錮の判決が下りました。

北一輝と西田税は蹶起に直接くわわったわけではなく、「犯人らに思想的影響を与えた」というのが死刑になった理由でした。

北一輝、西田税、村中孝次、磯辺浅一の四名は8月19日に銃殺されました。

昭和12年(1937)9月25日、真崎甚三郎(まさき じんざぶろう)に無罪の判決が下ったのを最後に、ニ・ニ六事件についての公的処理はすべて終了しました。すでに日中戦争がはじまっていました。

次回から「日中戦争」についてお話していきます。

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解説:左大臣光永