五・一五事件

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こんにちは。左大臣光永です。

本日は「五・一五事件」について。長いです。

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五・一五事件。昭和7年(1932)5月15日、海軍青年将校・陸軍士官候補生と農民をふくむ右翼団体が起こしたテロ・クーデター未遂事件。

首相官邸で犬養毅首相を殺害されたほか、内大臣官邸、政友会本部、日本銀行、三菱銀行、警視庁なども襲撃された。

背景に昭和恐慌による困窮や、政党政治への不満があった。犯人らは「昭和維新」を断行するという思想を掲げていた。

事件後、斎藤実(さいとう まこと)による挙国一致内閣が誕生し、政党内閣は終わった。

前回「満州国建国」からのつづきです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa10.html

首相官邸襲撃

昭和7年(1932)5月15日午後5時すぎ、九段下の首相官邸前にタクシーが停車し、帝国海軍の軍服を着た、五人の男が降り立ちました。

五人が首相官邸の表玄関から中に入ると、廊下の奥から村田嘉幸巡査部長が、

「なにかご用ですか」

と声をかけました。

リーダー格の男(三上卓)が答えて、

「われわれは海軍大学校の副官である。校長の指示で名刺はもたないが、総理に面会したい。取り次いでくれ」

「どうぞこちらへ」

村田巡査部長は五人の男を玄関左脇の応接室に通し、

「首相にご用事であれば承りましょう」

「君ではわからんから、首相に直接面会したい」

「ではしばらくお待ちください」

そう行って村田巡査部長は応接室をでていきますが、しばらくして背後からドタドタドタ…と駆けてきて、拳銃を突きつけられ、

「首相のいる所はどこだ」
「はやく案内せぬか」

とこづきまわされ、村田巡査長のボタンは飛び、チョッキとシャツが破れました。

五人は、

海軍中尉 三上卓(28)
海軍予備役少尉 黒岩勇(26)
陸軍士官候補生 後藤映範(てるのり)(24)
同 八木春雄(23)
同 石関 栄(23)

彼ら五人が「表門組」で、もう一方の「裏門組」として、

海軍中尉 山岸宏(25)
海軍少尉 村山格之(ただゆき?)(25)
陸軍士官候補生 篠原市之助(23)
同 野村三郎(22)

以上九名が、首相官邸襲撃、犬養首相殺害をうけもった面々でした。

五人が村田巡査部長ともみあっていると、玄関から二人の守衛が何事かと、顔を出します。

後藤映範が拳銃を取り出し、一発撃つと、弾はそれて、玄関の廂に当たり、守衛も、村田巡査部長も逃げていきました。

もはや躊躇はできない。五人は手当たりしだいに部屋の戸を開けていきました。しかし、どこにも犬養首相のすがたはない。

その時、がちゃがちゃという音がきこえたので、三上がその方向に進むと、

廊下にある杉の板戸のむこうで、がちゃがちゃという音がしている。鍵をかける音でした。

三上が板戸に手をかけると、中から「誰か」と声がする。そこで三上は返事はせず、軍靴をはいた右足で杉戸を思いっきり、

ガッ、ガッ、ガッ…ドガッ、

ついに人が通れるほどの穴があくと、戸の裏にいた田中早太郎巡査が、

「きました」

といって、奥へ逃げていく。

三上が、ついで黒岩が穴をくぐり、三人の士官候補生もつづく。

先頭をすすむ三上がどんどん進み、応接室に入ると、そこに田中五郎巡査がいたので、

「首相の居所をいえ」

「首相のいるところなんか、知るもんか」

そこで三上が銃の引き金を引く。弾は田中巡査の脇腹を貫き、巡査はその場でうずくまり、

「やられた、やられた、横暴だ」

そう言う田中巡査を三上は捨ておいて先に進み、その後から黒岩が、ついで三人の士官候補生がつづきます。

すると、廊下に白髪頭の背広姿の男がいたので、

「首相はどこか」

黒岩と八木が問いつめると、

「私は医者であります。今ついたばかりです」

と答えましたが、この医者(大野喜伊次)は、実はついさっき犬養首相の診察をすませたばかりでした。

同じころ、山岸宏以下、四人の裏門組も官邸の敷地内に侵入していました。士官候補生、篠原市之助が玄関をかため、ほかの三人は邸内にふみこみ、表門組と合流しました。

八人は、官邸の日本間をさがしまわるも、犬養首相の姿がない。「逃したか…」あせる面々。その時、

「いたぞいたぞ」

三上が声を上げました。

……

日本間最奥の板戸の奥に、粗末な食堂のテーブルがあり、その奥に犬養首相がいました。

三上は犬養首相に銃口をむけ、ためらいなく引き金を引くと、カチッ。音はするが、弾が出ない。

三上らの銃は弾を一発しか入れておらず、さっき巡査を撃ったため、空になっていました。

そこで三上は犬養首相に狙いをさだめたまま、銃を左手に持ちかえ、銃口をむけたままの銃に、静かに弾を装填しました。

「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」

犬養首相は両手を前に出し、三上に近づいていく。すると三上が言いました。

「騒がんで観念せにゃならんのは、お前の方じゃないか。しかし今になって文句があれば聞いてやろう」

すると犬養は、

「あちらへ行こう」

と言って、三上を先導して、食堂を出ようとする。その間、

「話せばわかる…話せばわかる…」

と犬養は繰り返していたといいます。

三上が犬養の肩に手をかけて、

「いたぞいたぞ」

と叫ぶと、これをききつけて、他の者も集まってきました。犬養は三上を先導して、客間に向かう。

その後ろから、幼子を抱いた女がついてきました。犬養首相の次男健(たける)の妻、犬養仲子と、四歳の康彦(やすひこ)でした。

ちょうど犬養首相と夕食をともにするため官邸に来ていたところでした。黒岩は犬養殺害の現場を見せるのはしのびないと考え、そばにいた女中に言いました。

「君たちには別に危害を加えないから、あちらに行っていてもらいたい」

その間、黒岩の銃は四歳の康彦にむけられていました。

犬養は客間に入ると、床の間を背に、座卓を前にすわりました。

「まあ話をきこう」

といって軍人たちに座るよう手でしめしましたが、彼らは立ったまま首相をとりかこむ。

犬養は卓上にあった煙草入れから巻きたばこをとりだし、これを軍人たちにすすめるような格好で、

「靴くらい脱いだらどうじゃ」

すると三上が、

「こいつ、靴なんかの心配は後にしたらどうじゃ」

しばしの沈黙。やがて三上が、

「我々が何をしにきたかわかるだろう。言いたいことがあれば言え!」

犬養首相が身を乗り出して何か言いかける。そこで山岸宏が、

「問答無用、撃て!」

黒岩が首相の前に出て、発砲。ほぼ同時に三上も首相の頭をねらって発砲。

犬養首相は座卓の上にうつぶせに倒れ、右のこめかみから血が流れ落ちました。

「引き上げろ」

三上が号令すると、襲撃者たちはすみやかに現場から立ち去りました。

三上らが立ち去ったあと、女中の山本照が犬養首相に駆け寄り、

「旦那さま、旦那さま、傷は浅いからしっかりあそばせ」

すると犬養は「うん」とうなづき、左目だけを開け、右手をのばして、「あの若者をよんでこい、話せばわかる…話せばわかる…話せばわかる」と、三度くりかえしました。

それから照に、卓上の巻きたばこを取って、火をつけてくれと頼むと、照はいわれた通り、巻きたばこを取って、犬養の指にはさんで火をつけるも、犬養はそれを口までは持っていけずに、ぽとりと指間から落としました。

後日、犬養首相と軍人たちのやり取りが、やや単純化されて、

「話せば分かる」
「問答無用」

民主主義とファシズムのちがいを端的にあらわしたやり取りとして、長く記憶されることになります。

午後11時26分、犬養首相は息を引き取りました。

内大臣官邸襲撃

…以上が、公判記録や三上卓の獄中記録による、首相官邸襲撃のもようです。

しかし首相官邸の襲撃は、五・一五事件のひとつの局面にすぎません。

五・一五事件は、複数の目標をいっせいに襲撃した、「同時多発テロ」でした。

襲撃者は、

第1組(首相官邸組)9名
第2組(内大臣官邸組)5名
第3組(政友会本部組)4名
第4組(三菱銀行爆破組) 1名
農民決死隊(帝都暗黒化計画) 6名

に分かれ、組ごとに別の任務をおびていました。

第二組は、

海軍中尉 古賀清志(25)
陸軍士官学校中退 池松武志(23)
陸軍士官候補生 西川武敏(22)
同 菅 勤
同 坂本兼一

の五人からなり、攻撃目標は内大臣牧野伸顕(まきの のぶあき)の官邸でした。

牧野伸顕はロンドン海軍軍縮条約をうけいれた経緯から、軍部や右翼から「天皇陛下をたぶらかす君側の奸物」として、憎まれていました。

午後5時前、古賀清志以下五人は高輪泉岳寺で赤穂義士の墓参りをすませると、タクシーに乗りました。

午後5時25分、三田の内大臣邸前につくと、彼ら五人は車からおりました。官邸正門右側には橋井亀一巡査が立哨にあたっていました。

古賀清志が正面の屋根ごしに官邸内に手榴弾をなげこむと、玄関口で爆発しました。

橋井巡査がおどろいて走ってくる。古賀清志が銃口を向ける。橋井巡査、逃げ出す。その背後から古賀が引き金をひく。すると橋井巡査の肩口に命中しました。

その間、池松武志も手榴弾を投げましたが、不発で、手榴弾は現場にむなしく転がりました。

古賀清志以下の五人はいそいでタクシーに乗り込み、芝公園付近でおりると、警視庁にむかいました。

道中、三上卓が作成したビラを三度、町中にまきました。その文面は、

日本国民に激す!
日本国民よ!刻下の祖国日本を直視せよ
政治、外交、経済、教育、思想、軍事……何処に皇国日本の姿ありや(中略)
国民諸君よ
武器を執って立て!今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何者もない

にはじまるものです。

警視庁襲撃

午後5時40分すぎ、桜田門の警視庁前に到着。すでに第三組が車で到着しており、手榴弾が歩道脇の電柱にあたって炸裂するのがみえました。

第ニ組の士官候補生、菅と坂本も手榴弾を投げましたが、どちらも不発でした。

そのうちに第三組は車で立ち去ったので、古賀清志は車をすすめ、
車のマドから警視庁内をうかがっていると、

「どうしたんですか」

巡査が声をかけてきたので、古賀は銃を向けて一発発射。

「あッ」

巡査はあわてて逃げていく。池松武志(陸軍士官学校中退)と西川武敏(陸軍士官候補生)が車からおり、警視庁玄関から出てきた背広姿の一団に銃撃をあびせかけると、一団はあわてて警視庁内に逃げ込む。しかし。

ほかの組との連絡もとれず、わずか五人ではどうしようもない。

彼らは警視庁こそ今回の決起の最終決戦場、と考えていましたが、おそまつな結果に終わりました。

そこで古賀は第2組全員を車にのせ、運転手に東京憲兵隊本部に行くよう命じました。

古賀清志らの車が憲兵隊本部につくと、少しおくれて三上卓ら第1組の車も憲兵隊本部につきました。自首しにきたのでした。そこで古賀清志が三上卓にたずねて、

「首相官邸はどうなった」

「犬養をやった。牧野はどうした」

「牧野はやらなかった。手榴弾を投げ込んだ」

すると三上は残念そうにして、

「もう一度行こう」

と言いますが、今いけば捕まりに行くようなものだと、同志からも、憲兵からも止められ、断念しました。

古賀清志が牧野内大臣邸の襲撃のリーダーをつとめながら、牧野内大臣の殺害に固執せず、手榴弾を投げ込むにとどめたのは、なぜなのか?

「手加減を加えたのではないか?」など、後日憶測がとびかいましたが、真相は闇の中です。

政友会本部襲撃

第3組は海軍中尉 中村義雄(25)と三人の陸軍士官候補生、中島忠秋(24)、金清豊(かねきよ ゆたか?)(23)、吉原政巳(よしわら まさみ?)(22)の4人からなりました。

芝の政友会本部につくと、まず中村が車からおりて玄関にむかって手榴弾を投げたが、不発でした。ついで中島が手榴弾を投げると、これは玄関の露台の砂利の上で爆発しました。

第三組はすぐに車に乗り、警視庁へ向かいました。

警視庁前につくと、金清豊・吉原政巳の二人が車からおり、まず金清豊が庁舎二階の窓ガラスに向けて手榴弾を投げたが、爆発せず、街路樹近くに落下しました。

金清はこれを拾い、ふたたび投げると、建物前の電柱上部に命中、爆発しました。警視庁庁舎前で立哨にあたっていた巡査が、このようすを呆然とながめていました。

三菱銀行

第4組は明治大学の学生、奥田秀夫ただ一人でした。学生服を着た奥田は新宿からタクシーで馬場先門(現存せず。日比谷門と和田倉門の間にあった)に移動し、日がくれるのを待ちました。

その間、日比谷の美松(みまつ)百貨店で夕食をとり、屋上へのぼると、警視庁の方角から「ドーン」と音がしました。午後5時半ころでした。

ついにやった!

覚悟をきめた奥田はエレベーターで地上におりて建物を出ると、三菱銀行のほうに向かいました。

道をはさんで三菱銀行と三菱本店が向かい合っている、その両方を下見すると、三菱本店にはまだ人がいるが三菱銀行はカラでした。

そこで奥田は三菱銀行を標的にさだめました。目的は「帝都の混乱」によって戒厳令を発動させること。人を殺さないですむならそれがよいと奥田は考えました。

奥田はいったん東京駅にもどり、便所で風呂敷から手榴弾を取り出し、一個ずつ上着のポケットに入れ、風呂敷は腰に巻きました。

それから再度、三菱銀行に行き、銀行前の歩道で手榴弾一個を取り出し、安全弁を抜くと、銀行の裏庭に向かって投げました。

手榴弾は樹木に当たって、銀行の前の道路に落ちて爆発しました。

東京駅から電車で代々木まで行き、その夜は友人宅にとまり、翌16日午後7時ころ、下宿にもどったところを待っていた刑事に逮捕されました。

農民決死隊 帝都暗黒化

その他、別働隊として大貫明幹(おおぬき あきよし?)(23)以下6人の農民決死隊がありました。

農本主義者・橘孝三郎(たちばな こうざぶろう)が茨木でいとなむ愛郷塾(あいきょうじゅく)の青年たちが、決起の趣旨に賛同してくわわったものです。

彼らの任務は変電所六ヶ所を襲撃し、「帝都暗黒化」をひきおこすことにありました。

午後7時ころ、彼らは6つの地点で破壊活動にかかりました。

尾久(おく。現東京都北区)の東京変電所、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、目白変電所、田端変電所、それぞれの地点で配電盤を壊したり、手榴弾を投げたりしました。

しかし手榴弾が不発であったり、恐怖にかられて逃げ出した者もいて、ほとんど効果なく、

「帝都暗黒化」など、まったく起こらず、失敗に終わりました。

六人はそれぞれ自首したり、逮捕されました。

自首

三上卓をリーダーとする第1組、古賀清志をリーダーとする第2組、中村義雄をリーダーとする第3組、総勢18名は、午後6時ころまでに全員が憲兵隊に自首してきました。

しかしまだ武装解除には応じませんでした。

午後7時になれば農民決死隊が六つの変電所を同時に襲い、「帝都暗黒化」が実行される。

そうなれば戒厳令が発動されるから、暗闇の中、最後まで戦おう…彼らはそう考えて時を待ちました。

しかし、午後7時をすぎてもいっこうに停電は起きませんでした。農民決死隊による変電所の破壊はおそまつなもので、送電機能を停止するにはいたりませんでした。

もはやこれまで。

三上卓以下、観念して武器を憲兵隊にさしだしました。

斉藤実内閣

政友会犬養毅首相なき後、きゅうきょ次の首相の選定が行われました。

当時、首相の選定には静岡県興津に隠棲していた元老西園寺公望の意向がかかせませんでした。西園寺ははじめ反軍部的な鈴木三樹三郎を次期首相に推すつもりでした。

しかし、それではまた政友会による単独内閣となる。政党政治の弊害はなくならない。軍部の不満も高まる一方だ。

ここは政党のわくを超えた、挙国一致内閣を組織しなくてはならない。そういう意図をふくんで西園寺を説得したのがほかならぬ昭和天皇だったといわれます。

一週間にわたる水面下のかけひきをヘて、

5月22日、斎藤実(さいとう まこと)による「挙国一致内閣」が誕生します。ここに8年間つづいた政党内閣はおわり、太平洋戦争後の昭和21年(1946)まで復活することはありませんでした。

事件の後

昭和8年(1933)7月以降、海軍側は横須賀鎮守府で、陸軍側は青山の第一師団司令部で軍法会議にかけられました(民間人の裁判は9月から)。

法廷陳述をとおして被告らが決起した理由がじょじょにわかってきました。

背景には昭和恐慌による困窮や、政党政治への不信感がありました。彼らは明治維新をしきりなおし「昭和維新」を断行する、そして一君万民の平等な社会をつくる、という理想をかかげていました。

彼らは法廷で政界・財界の横暴、ロンドン海軍軍縮条約における統帥権干犯への批判をのべ、この国を立て直すには直接行動のほかはない、そのために自分たちは捨て石になる覚悟であったことをのべ、農村の悲惨な現状などを語っているうちに、傍聴席からは嗚咽の声がもれました。

犬養首相個人に対しては何の恨みもなく、立派な人物であったことを認め、ただ内閣総理大臣であったから、支配階級の犠牲となったのだと強調しました。

(日本史の参考書などに書いてある、犬養毅が満州国を承認しなかったとか、議会主義を擁護したというのは、どれも犯人らの動機ではありません)

とくに首謀者の一人、三上卓は法廷で堂々と意見をのべ、その場に並みいる人々の共感と涙をさそいました。

当初、殺された犬養首相への同情一色だった世論は、被告らに対する共感・同情にかわっていきました。

さらに新聞報道が拍車をかけます。

犯行の動機が純粋であるとか、まことに国のためを思った行動であったとか、被告らをほめたたえました。

こうした報道は軍部がメディアと組んで行った印象操作、プロパガンダという面があります。

しかしそれだけではなく、国民の中に、長い不況で塗炭の苦しみをしいられている。その一方で資本家どもはふんぞり返って貧乏人を虫ケラのように扱い、わが世の春を謳歌し、やりたい放題やっている、ああ誰か立ち上がってくれないだろうか!という気持が、五・一五実行犯への共感と同情をよんだものです。

加熱する報道もてつだって、被告らは英雄視され、国民の同情を集めました。大規模な減刑運動が行われ、彼らを赤穂義士になぞらえた戯曲がつくられ、「昭和維新行進曲」なるレコードまで発売されます。

そういうこともあり、結局一人も死刑になりませんでした。古賀清志・三上卓・黒岩勇に対しては死刑が求刑されましたが、古賀と三上が禁錮15年、黒岩が禁錮13年。一番重い刑が橘孝三郎の無期懲役で、あとは禁錮4年とか1年という軽い処罰におわりました。執行猶予がついた者も4人いました。

このように五・一五事件の処罰が軽かったことが、ニ・ニ六事件のきっかけの一つとなったとも言われます。

次回「国際連盟脱退」につづきます。

こちらもどうぞ

韓国併合(32分)
https://youtu.be/gUDvzBkH4dk

ロシア革命とソヴィエトの成立(14分)
https://youtu.be/d7iT26ky4j0

関東大震災(20分)
https://youtu.be/mN1cMe7Zkx8

張作霖爆○事件(14分)
https://youtu.be/0mm8J5nym4c

満州事変(15分)
https://youtu.be/8VjrO60hQF0

好評発売中■聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱
http://sirdaizine.com/CD/His10.html

嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1864)正月の鳥羽・伏見の戦いまで解説しています。

詳しくは
http://sirdaizine.com/CD/His10.html

解説:左大臣光永