満州国建国
本日は「満州国建国」について。長いです。
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昭和6年(1931)9月18日の「柳条湖事件」以来、関東軍は満州全域に勢力を拡大。11月、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀をむかえ、昭和7年(1932)3月1日、溥儀を執政として満州国を建国しました。
こうした日本の動きに対し国際連盟はリットン調査団を組織し、視察調査のため、満州に派遣しました。
前回「満州事変」からのつづきです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa09.html
宣統帝溥儀の脱出
清朝最後の皇帝、廃帝溥儀は天津の日本疎開宮島街の張園(Zhangyuan、のちに静園と改名)で保護されながら、虎視眈々と復活のチャンスを狙っていました。
昭和39年(1964)3月に溥儀が北京で出版した自伝「わが半生」によると…、
昭和6年(1931)9月30日午後、溥儀のいる張園に日本天津駐屯軍司令部通訳官・吉田忠太郎(よしだ ちゅうたろう)が訪れ、司令官香椎浩平(かしい こうへい)中将が重要なことを話したいから、司令部においでください、ただし随員を連れてはいけない。ただ一人でおいでくださいと伝えました。
溥儀が期待しながら日本兵営に行くと、香椎中将は門前で待っていました。
客間に通されると、
そこには考古学者で溥儀の家庭教師をつとめた羅振玉(らしんぎょく)と、もう一人見知らぬ男がいました。男の最敬礼の仕方から日本人と思われました。
香椎中将は彼は関東軍参謀板垣大佐から派遣された上角利一(うえかど りいち)であると紹介し、部屋を出て行きました。
部屋の中には溥儀と羅振玉、上角利一の三人が残されました。
羅振玉はうやうやしく溥儀の健康をたずねると、ふところから大きな封書を取り出し、溥儀に手渡します。
それは溥儀の遠い一族にあたる、東北保安副総司令・張作相の参謀煕沿(シーシア)からのものでした。あけてみると、
「二十年間待ち望んだ機会が到来しました。どうかこの機会を逃さず、『祖宗発祥の地』(満州)においでいただき、大計をめぐらしてください」
溥儀は、
「よく考えてから返事をする」
すると、香椎中将が顔を出して、
「天津の治安状況がよくないから、すぐに東北に出発することを望みます」
と言いました。
帰りの自動車の中で溥儀はつくづく考えるに、嘘ではなさそうだと。
「すでに喜びが疑惑にとって代わっていた」
と、自叙伝「わが半生」の中に書いています。
同じく「わが半生」から、土肥原大佐と溥儀の会見はこのようであったということです↓↓
……
土肥原大佐は挨拶がすむとすぐに本題に入り、まず満州における日本軍の行動について釈明した。
「日本軍の行動は張学良個人に対するものです。張学良が満州人民を塗炭の苦しみにおとしいれ、日本人の権益や生命財産も保証しなくなったので、やむをえず出兵を行ったのです。
関東軍は満州に対する領土的野心はまったくございません。ただ誠心誠意、満州人民が新国家を建設するのを援助するものです。
陛下がこの機会を逃さず、すみやかに先祖発祥の地に戻られ、新国家建国の指導に当たられることを望みます。
日本はこの新国家と攻守同盟をむすび、その主権と領土を全力をあげて守るでしょう」
……
溥儀は土肥原の話と、礼儀正しい態度に感激し、すっかり土肥原を関東軍および日本政府を代表する立派な人物と信じ込みました。
しかし溥儀はひとつだけひっかかりました。
「その新国家はどのような国家になるのか」
「さきほど申し上げましたとおり、独立自主の国で、宣統帝がすべてを決定なさる国家でございます」
「私がきいているのはそのことではない。共和制か、帝政かということである」
「そういう問題は瀋陽へ行けば解決いたしましょう」
「皇帝に復帰するならば行くが、そうでないなら行かぬ」
そこで土肥原はにっこり笑って、
「もちろん帝国です。問題はございません」
「帝国ならば行こう」
「それではさっそく宣統帝にご出発ねがいます。何があっても16日までには満州にお着きになってください」
こうして話はまとまりました。
第一次天津事件
出発二日前の10月8日。溥儀が張園の自室の肘掛けに腰掛けてくつろいでいると、
「爆弾ッ…!爆弾ニ発…!」
と叫びながら侍従の祁継忠(チーチーチュン)が駆け込んできました。
溥儀はおどろきのあまり立ち上がることもできないが、混乱の中にも事情が飲み込めました。
今しがた、見知らぬ人が元東北保安総司令部顧問趙欣伯(チャンシンポー)と名札のついた籠を届けに来て、すぐに立ち去った。
祁継忠が確認のため籠を開けてみると、ニ発の爆弾が入っていたと!
そのうちに日本の警察と日本軍司令部の将校がやって来て爆弾は持ち去られました。
翌日、吉田通訳官から報告がありました。
ニ発の爆弾を調査したところ、張学良の兵器工場で製造されたものとわかったと。
「宣統帝はもうよその人間を引見なさってはなりません。一刻も早く天津を発つことです」
「わかった。はやく手配せよ」
その後二日間で溥儀は何通も脅迫状を受け取りました。いずれも天津から出ていけ。出ていかないと命はないぞという内容でした。
ついで便衣隊(民間人の格好をしたスパイ)が中国人地区で騒動をおこし、日本租界に戒厳令がしかれ、中国人地区との交通が遮断されました。
溥儀のいる張園の前には日本軍の装甲車がきて、張園は封鎖されてしまいました。
11月8日、天津中国人街で暴動が起こり、天津軍が出動するさわぎとなりました。第一次天津事件です。
これら、爆弾・脅迫・暴動はすべて日本側が仕組んだ芝居と思われます。溥儀は自伝の中で「俳優たちの演技はかなり稚拙であったが」と書いています。
11月10日、溥儀は混乱の中、天津を脱出し、塘沽(タンクー。天津の港)から商船「淡路丸」に乗り、出港しました。
宣統帝溥儀の脱出ルート
11月13日午前8時半、営口市の埠頭に到着しました。ここで溥儀は日本側官憲に天津の暴動で身の危険を感じて逃げてきたと訴え、保護を求めました。日本側は溥儀を「人道上の見地から」保護し、旅順に送りました。
リットン調査団の派遣
ジュネーブの国際連盟で、日本はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアとならび常任理事国のひとつであり、一定の敬意をはらわれていました。
そのため国際連盟本部は満州事変について中国から報告を受けましたが、あくまでも日本の自主的な解決に任せようという方針を当初、取っていました。
それは若槻礼次郎首相、幣原喜重郎外相という穏便派による文官統制に期待が持たれていたためでもあります。
しかし関東軍の蛮行が次々と伝えられるにおよび、国際連盟も黙っていられなくなります。
12月10日、パリの国際連盟理事会は5人の調査団の派遣を満場一致で可決。日本も時間稼ぎのために賛成しました。
1932年1月14日、イギリスのリットン卿、アメリカのマッコイ少将
、フランスのクローデル中将、イタリアのアルドロヴァンディ伯爵、ドイツのシュネー博士、以上五人からなる調査団が結成され、リットン卿が委員長となりました。
2月29日、リットン調査団は東京に到着しました。
満州国建国
その間、関東軍幕僚たちの指導により満州国建国は急ピッチで進んでいました。
昭和7年(1932)2月16日、17日に開催された建国会議の席上、満蒙新国家独立の宣言が発表されました。
新政府の樹立にあたって、共和制でいくか?帝政にするか?大いにもめましたが、結局、関東軍は宣統帝溥儀を執政とする共和制の形を取ることにしました。
皇帝に返り咲けると思っていた溥儀は大いに失望しましたが、関東軍には逆らえませんでした。
(二年後の昭和9年3月1日から帝政となる)
昭和7年(1932)3月1日、清朝の紀元節の日に、「満州国」の建国宣言が発表されました。ここに東北四省および蒙古の120万平方キロメートルを領域とする、人口3400万人の「国家」が誕生しました。満州事変勃発から、まだ半年も経っていませんでした。
9日には新首都長春(新京)で盛大な建国式と祝賀会が開かれました。
リットン報告書
一方、東京を出発したリットン調査団は、上海、南京、漢口、北京を経て、4月21日、満州入りしました。
後6週間にわたって奉天、長春、ハルピン、大連、旅順、鞍山(あんざん)、撫順、錦州と調査の足をのばし、北京にもどると報告書を作成しました。
この間、東京では犬養毅首相が殺害された五・一五事件が起こっています。
報告書は昭和7年(1932)9月4日に完成し、10月2日に発表されました。
内容は、中国が統一に向かっていることを論証し、9月18日夜の関東軍の行い(柳条湖事件)は正当防衛とはいえないこと、建国の経緯からいって満州国の建国は認められないことを18万語にわたって述べていました。
しかし同時に、満州に「特殊事情」があることを認め、9月18日以前の状態にもどすことは現実解決の糸口にはならないとしていました。
次回「五・一五事件」につづきます。
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