満州事変

本日は「満州事変」について。長いです。

満州事変。昭和6年(1931)9月18日、関東軍が奉天駅北方の柳条湖(りゅうじょうこ)にて満州鉄道の線路を爆破した「柳条湖事件」を発端として、これを中国側のしわざであるとして軍事行動を起こし、満州各地に武力侵攻を行った事件。結果、昭和7年(1932)3月1日、関東軍の影響の下、満州国が建国されました。

前回、「ロンドン海軍軍縮条約と浜口首相の遭難」からの続きです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa08.html

柳条湖事件

昭和6年(1931)9月18日夜10時20分頃、奉天駅北方約8キロの柳条湖にて、奉天軍独立守備隊(島本大隊川島中隊)の河本末守(こうもと すえもり)中尉が数名の部下を率いて、満州鉄道の線路を爆破しました。

柳条湖事件

※柳条湖…遼寧省東部の地名。柳条溝の表記は間違い。

関東軍参謀本部の記録には

「支那正規軍(兵力三、四百名)は突如柳条湖(溝)(奉天駅東北方約七粁)付近満鉄本線を爆破するの暴挙を敢てせり」

とあります。しかしこれは関東軍による自作自演でした。

満鉄の線路を爆破し、それを中国軍のせいにして戦争をふっかけ、一気に満州を軍事占領する。

関東軍参謀板垣征四郎(いたがき せいしろう)および参謀石原莞爾(いしはら かんじ)による立案であったとされます。

しかし板垣・石原の独断というわけではなく、

近く満州で事をおこしこれを軍事占領することは、関東軍はじめ陸軍部内ではすでに共有されていました。

前々から日中の関係は悪化しており、世論も幣原喜重郎外相の軟弱外交を非難し、中国に対しては強硬路線で行くべしという声が強くなっていました。

関東軍はその波に乗ったといえます。

しかし9月18日の時点で実行するとはごく一部しか知らされておらず、寝耳に水でした。

張作霖爆殺事件(1928年)のときと違い、今度は口実をつくればよいだけなので、軽く爆破しただけでした。爆破直後も、満鉄の急行列車が線路の上を通り過ぎていったぐらいでした。

関東軍参謀・石原莞爾は熱心な日蓮主義者で、宗教の観点からも日米の最終戦争を予感しており、日米開戦の前に満蒙を日本の支配下に置く必要がある。満蒙を確保してこそ、アメリカとの長い持久戦にたえられると考えました。

午後10時半頃、独立守備隊は柳条湖の北東500メートルの中国軍の兵営北大営(ほくだいえい)に24センチ榴弾砲2門で砲撃をあびせかけ、ほどなくこれを占領。

柳条湖事件

一方、別部隊は奉天城を攻撃し、19日朝までに城を占領しました。

午後11時46分。旅順の関東軍司令部に電報連絡。

「暴戻なる支那軍隊は満鉄線を爆破、守備兵を襲い、かけつけたるわが守備隊と衝突せり」

関東軍司令官・本庄繁中将は大いに狼狽します。本庄繁中将は石原莞爾参謀らの計画についてまったく知りませんでした。

しかし、9月19日午前0時28分到着の「戦闘拡大中」の電報をみて本庄中将は意を決しました。

午前1時、関東軍司令官本庄繁中将より奉天・長春・営口・鳳凰城・安東など満鉄沿線の都市の占領が命令されました。

満州事変

午前3時半、本庄関東軍司令官は石原莞爾参謀らをつれて旅順を出発。午前11時、奉天入り。

満州事変

その間、午前4時44分に遼陽の第二師団が奉天に到着し、攻撃に加わっていました。

9月19日午後5時40分、本庄関東軍司令官は陸軍大臣と参謀総長に当てて電報しました。

「事態ここに至れる以上、この絶好の機会において、まず軍が積極的に全満州の治安維持に任ずるは、もっとも緊要なりと信ず。これがため平時編成の三個師団の増援を必要と信ず」

中村大尉事件

さてこの「柳条湖事件」が「満州事変」の発端となったわけですが、

日中の関係は柳条湖事件の前からじょじょに緊張の度を増していました。二つの事件がほぼ同時期に起こっています。

一つは中村大尉事件。もう一つは万宝山事件です。

中村大尉事件とは日本人中村大尉が中国の屯墾軍に殺害された事件です。

昭和6年(1931)6月、参謀本部から中村震太郎大尉が満州北方の興安嶺(こうあんれい)方面に対ソ戦に向けての調査のため派遣されました。

ほかに関東軍から佐久間亮三大尉、参謀本部から長勇(ちょう いさむ)大尉、森赳(もり たけし)大尉らが調査に参加しました。

調査を終えた後、中村大尉をのぞいたメンバーは帰国しました。中村大尉は昴々渓(こうこうけい)で旅館をいとなむ井杉延太郎(いすぎ のぶたろう)予備曹長のほか、ロシア人一人、モンゴル人一人をつれて、飯屋で休んでいたところ、

満州事変

張学良配下の屯墾軍の兵士につかまり、6月27日、隊長の関玉衡(かんぎょくこう)により銃殺されました。中村大尉は農業技師としてニセの身分証明書をもって現地に潜伏しており、スパイと見られたのでした。死体は油をかけて焼かれました。

日本側は中村大尉が消息不明になったことで心配していましたが、7月下旬になって、屯墾軍将校の妾の日本人、植松菊子からの密告がありました。

「日本人ニ名、ロシア人一名、モンゴル人一名が屯墾軍によって殺され、以来、箝口令がしかれています」

と知らせてきました。

8月17日から奉天の林領事のもと、日中の交渉が始まります。しかし中国側は知らぬ存ぜぬの一点張りでした。

関東軍参謀石原莞爾は平和的な解決は不可能と考え、歩兵一個大隊の出動を外務省に提案します。

しかし外相幣原喜重郎はあいかわらずの弱腰で、武力行使をしぶりました。

林領事のもとでダラダラと交渉が続き、中国側が中村大尉の殺害を認め、関玉衡の処分を約束したのは柳条湖事件のまさに当日、9月18日でした。

万宝山事件

この「中村大尉事件」と同時期、もっと規模の大きい「万宝山事件」が起こっています。

昭和6年(1931)5月、長春西北約30キロの万宝山付近の荒れ地に、中国人の仲介業者が、朝鮮人約200人をつれて入植し、無許可で水路を開削しようとしたのが事件の始まりでした。

万宝山事件

この水路を引けば、水源の伊通河(いつうが)が氾濫するおそれがあると思われたため、現地の中国人農民はだまっていませんでした。

「勝手なことすんな!」

農民たちは朝鮮人の工事を妨害し、警察も出動して、仲介業者と10人の朝鮮人を逮捕し、工事の中止を命じました。

この時、長春領事田代重徳(たしろ しげのり)は領事館警察を派遣し、朝鮮人の保護に当たりました。

(当時、朝鮮は日本の一部であり、朝鮮人は=日本人とまで言わないまでも、同胞でした)

こうして中国警察と日本警察のにらみ合いとなります。

日中の間で話し合いが進んでいるうちに、6月下旬、朝鮮人が勝手に川をせきとめる工事をはじめたため、

7月1日、これを阻止しようと万宝山一帯の中国農民数百人が蜂起しました。翌2日には銃の発砲をともなう大事に至りました。

双方に死者は出ませんでしたが、朝鮮の新聞『朝鮮日報』がこの事件について、日本側からの取材にもとづき、事実でないことを書きます。

「万宝山で多数の朝鮮人が中国人に虐殺された」と。

このことが朝鮮人の憎悪に火をつけます。

騒ぎは翌3日、仁川からはじまりました。朝鮮人は手に手に武器を持ち、中国人と見るや暴行し、殺害し、レイプし、中国人の家に放火を繰り返しました。

騒ぎは京城(けいじょう)、元山(げんざん)、新義州(しんぎしゅう)と広がり、5日には平壌(へいじょう)に至り、

殺された中国人は109人、負傷者160名余と記録されます。

中国は激しく日本を非難します。

「日本人はいつもは朝鮮人を厳しく取り締まるのに今回に限って取締が甘かった。これは日本人が故意に朝鮮人をたきつけたのだ」と。

日中両政府の間で交渉が行われますが、落とし所はなかなか見つかりませんでした。

対華二十一箇条要求(1915年)、ベルサイユ条約(1919年)以来高まる一方であった中国人の反日感情はさらに高まりました。

参謀石原莞爾はじめ関東軍首脳部は、これを機に武力行使を行い、一気に満州を占領する必要を強く感じていました。

また日本国内でも、「朝鮮の「同胞」が決起したのは、中国人の排日に対する正当な義憤のあらわれである」として、幣原喜重郎の「軟弱外交」を批判する声が高まっていました。

こうした背景のもと、「柳条湖事件」は起こったのでした。

朝鮮軍の越境

柳条湖事件が勃発した時、平壌の朝鮮軍(朝鮮駐屯の日本軍)は知らせを受けると、奉天に増援として駆けつけようとしていましたが、

9月19日、日本政府は臨時閣議を開き、事態を拡大させない方針を決定しました。

19日午後0時30分、陸軍参謀総長から朝鮮軍に対して、

「関東軍増援の件、奉勅命令下達まで見合されたし」と電報がありました。

が、この命令は無視されました。

林銑十郎(はやし せんじゅうろう)軍司令官の独断で飛行隊および混成一旅団を動かし、奉天方面に派遣。

9月21日午後1時20分から4時半の間に、鴨緑江を超え、安東(アントン)を通過。関東軍の指揮下に入りました。

満州事変

その後も朝鮮軍の増援は次々と鴨緑江を超えて関東軍に加わりました。

朝鮮軍の独走にたいして、政府内では「天皇陛下の統帥権の干犯である」と批判の声が上がりました。

しかし9月22日の閣議では朝鮮軍の独走は追認される形となり、誰一人、反対しませんでした。

もっとも穏健派といえる外相の幣原喜重郎ですら、反対しませんでした。反対すれば軍部や右翼のテロで殺されると恐れたためです。

つまり朝鮮軍の動きは当初、命令違反の暴発だったが、一日おいて政府から追認される形となったわけです。

林銑十郎朝鮮軍司令官はこの件により「越境将軍」の異名を取ります。

事変拡大

9月22日、関東軍の三宅光治(みやけ みつはる)参謀長、土肥原賢ニ(どいはら けんじ)特務機関長、板垣征四郎、石原莞爾、片倉衷(ただし)参謀が瀋陽舘に集まり、今後の満蒙問題について話し合いました。そこで確認されたのは、

天津で隠居している清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀を頭首として新政権を樹立し、その新政権から国防、外交を委託されるという形で日本が実権をにぎるというプランでした。

関東軍は事変の勃発と同時に奉天・長春を占領。ひきつづき吉林(きつりん)に進出しました。

満州事変

日本政府は事件の不拡大方針を定めたため、陸軍大臣を通して関東軍に抗議します。なにを勝手に戦線拡大しているのだ。やめろと。

しかし、

「居留民保護のためのやむをえぬ進撃である」

といって、関東軍は止まりませんでした。

「統帥権の独立」という名の下、日本の軍隊が日本政府の言うことをきかないという、おかしな事態がここに生まれます。

関東軍は吉林進出と並行して間島とハルビンにも進出をはかり、これは日本政府の反対にあって阻まれましたが、

昭和6年(1931)9月末から錦州に張学良軍の拠点があることをつかむと、10月18日、張学良軍からろかくしたポテーズ機(フランスの単発複座複葉機)5機により、錦州の張学良の拠点の上に25キロ爆弾75発を投下しました。

満鉄付属地から大きく離れた錦州を爆撃し、民間人まで殺したことに、国際連盟やそのオブザーバー国であるアメリカは日本を激しく批判しました。

同10月、中国軍による鉄橋(洮昴線)破壊をきっかけにチチハル方面に進撃。11月4日、黒竜江軍と衝突。激戦の末黒竜江軍を撃破すると、11月19日、黒竜江省の省都チチハルを占領しました。

翌昭和7年(1932)2月にはハルビンを占領し、東三省(中国東北部)全域を制圧するに至ります。

次回「満州国建国」に続きます。

解説:左大臣光永