二・二六事件(ニ)説得と戒厳令

本日は前回にひきつづき「ニ・ニ六事件(ニ)説得と戒厳令」です。

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前回「ニ・ニ六事件(一)蹶起」からのつづきです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa13.html

牧野伸顕前内大臣 湯河原伊藤屋旅館

所沢陸軍飛行学校の操縦学生、河野壽(こうの ひさし)大尉率いる7名(河野本人を入れて8名)は、湯河原の旅館「伊藤家」に滞在中の前内大臣・牧野伸顕(まきの のぶあき)を襲いました。

軽機関銃ニ、小銃ニ、拳銃五~六挺、日本刀ニ、信玄袋に実包千二百発ほどをつめて、25日午前0時、歩兵第一連隊兵舎をハイヤー二台に分乗して出発。4時ごろ、湯河原に到着。

旅館「伊藤家」の玄関で軽機関銃と小銃に装填すると、裏手の高台に軽機関銃二台をすえて、

「電報、電報」

と、河野大尉が台所の戸をたたき、蹴破って乱入。警護に当たっていた皆川巡査が拳銃を撃つ。二発が河野大尉の胸に命中。宮田予備曹長は首を撃たれる。皆川巡査は膝を撃たれ、倒れ込みながらも、また撃つ。その時、

「撃てっ」

と指示を受けて、高台の上から軽機関銃を乱射。皆川巡査は即死。河野大尉の命令で旅館に放火。

「女子供は逃します」

そう言って崖の上から、黒田が女子供を逃し、ばあさんを逃し終えると、最後に看護婦と、もう一人の男が残ったので、黒田は男を殺すつもりでピストルを抜き、

「天誅!」

と一発撃つもその弾は看護婦の手首にあたり、看護婦がものすごい悲鳴を上げる。

黒田はその悲鳴にたじろぎ、あわてて看護婦と男を崖の上から逃しました。この男こそ標的であった前内大臣・牧野伸顕であったのですが。

陸軍大臣官邸

歩兵第一旅団副官香田清貞(こうだきよさだ)大尉、歩兵第一連隊丹生誠忠(にう まさただ)中尉、村中孝次、磯部浅一、竹島継夫、山本又らに率いられた約百七十名は、陸軍大臣官邸に向かいました。

重機関銃ニ、実包約千発。軽機関銃四、小銃約百五十挺、実包約一万発。拳銃十ニ、実包二百発をそなえ、

4時30分、兵営を出発。5時、永田町の陸軍相に到着。主力部隊を表門に、陸軍省、参謀本部の各門に重機関銃分隊、軽機関銃分隊を置き、外部との交通を遮断しました。

香田大尉は陸軍大臣官邸に入ると、受付の斎藤末松憲兵伍長に銃口をむけながら、「国家重大事に関し、大臣に報告したい旨あり。とりつぐよう」そして「官邸の周囲は重機で包囲してある」といいました。

香田大尉、村中孝次、磯部浅一の三人は応接室に通され、陸軍大臣秘書官小松光郎少佐が話をききます。その間、陸軍大臣夫人がおちついて接待し、時間をかせいだともいいます。

警視庁

警視庁襲撃組はもっとも規模が大きく、歩兵大三連隊野中四郎大尉、同常盤稔少尉、同清原康平少尉、同鈴木金次郎少尉にひきいられた約五百名(野中四郎大尉は決起全体の首謀者でもあった)。

重機関銃八、実包四千発。軽機関銃十数挺、実包一万発。小銃数百挺、実包ニ万発をそなえ、

4時30分ごろ兵営を出発。

5時ごろ桜田門の警視庁前に到着。

付近道路数カ所に機関銃分隊、小銃分隊を置き、出入り口をすべて封鎖。三宅坂、虎ノ門、日比谷方面に歩哨を立て、外部との交通・通信を遮断しました。

こうして反乱軍は、三宅坂一帯…国会議事堂(当時は新議事堂)を中心とした、日本の政治・軍事の中枢にあたる地域を約一千四百名の兵で占領し、以後四日間にわたって外部との交通・通信を遮断しました。

陸軍大臣との交渉

昭和11年(1936)2月26日6時30分、陸軍大臣官邸にて、川島陸軍大臣は反乱軍の香田大尉らと面会しました。

まず香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、「反乱軍の配備図」と、陸軍大臣への要求をしるした「陸軍大臣要望事項」を手わたします。

陸軍大臣への要望は八項目あり、そのうち最初の二項目は、

一、陸軍大臣は事態の収拾を急速に行うとともに、本事態を維新廻転の方向に導くこと。決行の趣旨を陸軍大臣を通じて天聴に達せしむること。

ニ、警備司令官、近衛、第一両師団長及び憲兵司令官を招致し、その活動を統一して、皇軍相撃つことなからしむるよう急速に処置をとること。

以降は誰を逮捕しろ、誰を罷免しろ、誰を採用しろ、といった具体的な人事要求がおもな内容となっていました。

面々は陸軍大臣に対してこれらの条件を「確約しろ」とせまり、「皇軍相撃つは絶対に避けよ。手段はともかく、彼らの精神を活かさねばこういう事態は今後何度もおこるぞ」とせまりました。

川島陸軍大臣はなんとも即答しかね、とにかく陛下に上奏しようということになりました。

その間、真崎甚三郎(まさき じんざぶろう)陸軍大将が車で陸軍官邸に入ってきました。歩哨にあたっていた兵士が近づいてみると、真崎将軍なので、

「閣下、統帥権干犯の賊徒を討伐するために決起しました。状況をご存知でありますか」

すると真崎大将は、

「とうとうやったか、お前たちの心はヨオックわかっとる。ヨオッークわかっとる」

と答えています。

天皇への上奏

9時、川島義之(かわしま よしゆき)陸軍大臣は官邸を出て、宮中に入り、9時30分、天皇に拝謁しました。

この時、川島陸相は天皇陛下に、反乱軍の「蹶起趣意書」を朗読申し上げ、かかる事件を出来し誠に恐懼にたえない旨、奏上すると、陛下は、

「陸軍大臣はそういうことまで言わなくてもよかろう。それより叛乱軍を速やかに鎮圧する方法を講じるのが先決であろう」

とおっしゃるので、川島陸相は「恐懼して退出」したといいます。

このように、不測の事態を前に政府も軍部も右往左往する中、昭和天皇は事のはじめから首尾一貫して、叛乱軍にたいするお怒りと鎮圧のご意思をあらわされていました。

陸軍大臣告示

26日朝から軍の首脳部が次々と宮中入りし、午後2時すぎ、全軍事参議官が集合して、宮中東溜の間(ひがしたまりのま)で非公式の会議が開かれました。

叛乱軍に対してどう対処するのか?

即時、鎮圧するのか?

交渉するのか?

会議は喧々諤々します。

とくに海軍は、26日の時点では殺されたと思われていた岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内大臣がいずれも海軍大将でであるため、「陸軍め、やりやがったな」「かならず落とし前をつけてやる」ということで、鼻息を荒げていました。

しかしひとまずは、「叛乱軍将校を説得し、もとの部隊に復帰するよう諭す」ことになりました。

すぐに説得のための文書が起草され、

「陸軍大臣告示」という形で文書が完成しました。

一 蹶起の趣旨については、天聴に達せられあり
ニ 諸子の行動は国体顕現の至情にもとづくものと認む
三 国体の真姿顕現(弊風を含む)の現状については恐懼に堪えず
四 各軍事参議官も一致して、右の趣旨により邁進することを申し合せたり
五 これ以上は一切大御心に俟(ま)つ

26日夕刻、山下奉文(ともゆき)少将が陸軍大臣官邸で叛乱軍将校に対してこの「告示」を三度、読み上げました。

(山下奉文は後に太平洋戦争マレー作戦における勇猛果敢な戦いぶりで「マレーの虎」の異名をとる人物です)

26日夜

26日午後7時、東京警備司令部より発表がありました。

一、本日午後三時第一師団管下戦時警備を下命せらる
ニ、戦時警備の目的は兵力をもって重要物件を警備し併せて一般の治安を維持するにあり
三、目下治安は維持せられあるをもって一般市民は各自の業に従事せらるべし

つまり、反乱軍が占拠している三宅坂一帯(日本の政治の心臓部)を、「警備」し、「治安を維持」せよというのです。

叛乱軍を鎮圧せよとも、説得せよとも、この段階ではいっていません。

これはラジオによって公表されました。一般国民がニ・ニ六事件を知った第一報でした。

死を覚悟して蹶起した将校たちは、拍子抜けしました。

案外うまくいくのではないか?昭和維新が、できるのではないか?と。

26日午後9時、全参議官が陸軍大臣官邸におもむき、叛乱軍の首脳部と会見しました。

この時、叛乱軍首脳部の言ったことは、

一、軍みずからが粛清の範をしめし昭和維新を断行せよ
ニ、我々を義軍と思うか、賊軍と思うか

という二点でした。ただしこれに参議官側がどう答えたかという記録はありません。とくに具体的な成果のある会談とはならなかったようです。

27日午前2時40分、宮中における枢密院会議が行われ、東京市に戒厳令をしくことが決しました。

午前3時50分、勅令十八号「緊急勅令」により戒厳令が施行されました。これより7月18日までの約5ヶ月間、帝都東京は戒厳令下におかれることとなります。

九段軍人会館(現九段会館)に戒厳司令部がおかれ、警備司令官香椎浩平中将が戒厳司令官、安井参謀長が戒厳参謀長となりました。

ただし香椎中将は叛乱軍に同情的で、ギリギリまで皇軍相撃つを避けようようとしていました。

そのため、戒厳司令部の動きは終始にぶく、いまいち実行力に欠けたものとなりました。

奉勅命令

28日午前5時8分、奉勅命令が下達されました。

臨変参命第三号

戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ

奉勅

参謀総長 載仁親王

■臨変参命臨時 臨時変更参謀本部命令。参謀総長が天皇から委任を受けて発する命令。 ■載仁親王 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう。伏見宮邦家親王第16王子。閑院宮を継ぎ第6代当主となる。

奉勅命令とは天皇からの直々の命令ということです。天皇からの直々の命令として、すぐに元の部隊にもどれと命じているわけです。

つまり、叛乱軍がこのまま占拠をやめなければ天皇にそむくことになり、賊軍となります。

叛乱軍首脳部では、

おとなしく元の部隊に戻るか?

いや、この奉勅命令は捏造ではないか?

あれこれ意見を戦わせているうちに、時間ばかりが過ぎていきます。

その間、叛乱軍は戦線を縮小し、山王ホテル、日本料亭「幸楽(こうらく)」、三宅坂(陸軍省、参謀本部)に固まりました。

対する政府側は、叛乱軍の前線にバリケードを築き、降伏勧告のビラをはった戦車を進めました。空には飛行機が旋回しました。

麹町、赤坂の住人に避難勧告が出され、住人は家財道具をもって避難をはじめました。

戦だ!戦になるぞ!

明治初年、彰義隊の上野戦争前夜もかくやという、大さわぎっぷりでした。

28日午後2時、叛乱軍は玉砕の覚悟をきめ、閑院宮邸(現参議院議長公邸)、陸軍省(現衆議院憲政記念館)、参謀本部(現憲政祈念公園内)、首相官邸、日本料亭「幸楽」(現プルデンシャルタワー)、山王ホテル(現山王パークタワー)、新議事堂(現国会議事堂)に展開しました。

いずれの拠点からも、バンザイと軍歌の声が、たえまなくつづきました。

香椎戒厳司令官は当初、叛乱軍に同情的でしたが、事ここに至ってはやむをえぬと、重い腰を上げました。

28日午後11時、戒厳司令部より討伐命令が発せられます。

叛乱部隊ハ遂に大命ニ服セズ、依テ断固武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス

攻撃開始は29日午前9時と決定しました。

次回「二・二六事件(三)突入」につつぎます。

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解説:左大臣光永