国際連盟脱退

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「国際連盟脱退」について。

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昭和7年(1932)3月に宣統帝溥儀を執政とする満州国が建国され、9月、日本政府は満州国との間に日満議定書を調印し、満州国を承認した。

こうした動きを受けて国際連盟はリットン調査団を派遣。調査団がまとめた「リットン報告書」にもとづき、昭和7年(1932年)12月、国際連盟特別総会が開かれた。

当初、国際連盟は満州における日本の立場を考慮する立場をとっていた。

しかし日本軍が熱河(ねっか)に戦線を拡大するにおよび、日本に対する態度を硬化させ、昭和8年(1933)2月、満州からの即時撤兵、満州国不承認という勧告案をしめす。

前回「五・一五事件」からのつづきです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa11.html

満州国建国

昭和7年(1932)3月1日、清朝の紀元節の日に、宣統帝溥儀を「執政」とする「満州国」の建国宣言が発表されました。ここに東北四省および蒙古の120万平方キロメートルを領域とする、人口3400万人の「国家」が誕生しました。

9日には新首都長春(新京)で盛大な建国式と祝賀会が開かれました。

日満議定書

昭和7年(1932)6月14日、衆議院本会議で満州国承認決議が全会一致で可決しました。

内田康哉(こうさい・やすや)外相は元満鉄総裁で関東軍に協力的であり、はやくから満州国承認・満州国建国論をとなえた人物です。

その内田外相が、8月25日の議会でいわゆる「焦土演説」を行いました。

「いわゆる挙国一致、国土を焦土としましても、この主張(満州国承認)に徹することにおいては、一歩も譲られないという決心を持っているといわなければならない」と。

9月15日、武藤信義関東軍司令官と満州国の鄭孝胥(ていこうしょ)国務総理の間に日満議定書の調印式が行われました。

一、これまで日中間に締結された条約、協定その他によって日本国や日本人が有する一切の権利利益を確認し尊重する。

ニ、日満両国の共同防衛のため日本国軍は満州国内に駐屯する。

日満議定書は以上のニ点からなりました。ここに日本政府は満州国を「承認」しました。

リットン報告書

一方、イギリスのリットン卿はじめ5人からなる「リットン調査団」は国際連盟から満州国調査の任務をたくされて満州入りしました。

満州で6週間にわたって奉天、長春、ハルビン、大連、旅順、鞍山(あんざん)、撫順、錦州と調査の足をのばし、北京にもどると報告書を作成しました。

リットン報告書は昭和7年(1932)9月4日に完成し、10月2日に発表されました。

内容は、中国が統一に向かっていることを論証し、9月18日夜の関東軍の行い(柳条湖事件)は正当防衛とはいえないこと、建国の経緯からいって満州国の建国は認められないことを18万語(日本語で)にわたって述べていました。

しかし同時に、満州に「特殊事情」があることを認め、9月18日以前の状態にもどすことは現実解決の糸口にはならないとしていました。

国際連盟特別総会

昭和7年(1932年)11月21日、リットン報告書を受理するための総会が開かれ、日本全権・(政友会代議士)松岡洋右と中国全権・顧維鈞(こいきん)がそれぞれの立場を演説しました。

そして日中それぞれの意見書とリットン報告書をふまえて、

12月6日から9日まで、国際連盟特別総会がジュネーブで開催されました。

日本側全権・松岡洋右、中国側全権・顔恵慶(がんけいけい)。19カ国の代表からなる「19人委員会」が審議に当たりました。

中国側全権・顔恵慶が言うことに、

国際連盟は日本を連盟規約、不戦条約、九カ国条約違反と宣言すべきである。

そして日本軍を満州から撤退させ、満州国を解消してほしいと。

これについて各国代表がリットン報告書をふまえてさまざまに討論しました。

まず、リットン報告書の内容は、一方的に日本を非難するものではありませんでした。

(学校の授業で「リットン報告書は日本に対して一方的に不利な内容だった」と習った方が多いと思いますが、これは事実に反します。報告書は日本の立場、権益にも譲歩した現実的なものでした)

報告書には、中国側が主張する連盟規約違反も、不戦条約、九カ国条約違反も、一文字もありませんでした。

むしろ報告書は満州における日本の特殊権益を擁護していました。

しかし1931年9月18日の日本軍の行動(柳条湖事件)は自衛権の発動とはいえない、満州国の独立は民族自決によるものとは認められないとして、日本側の主張はしりぞけられていました。

柳条湖事件は関東軍による謀略です。みずから満州鉄道の線路を爆破して、中国に戦争をふっかけたものです。しかし一般国民にはそれは知らされていませんでしたので、リットン報告書の内容は多くの日本人を激怒させたでしょう。

さらに報告書は、

日本が主張する満州における優先権は時の経過とともに消滅しており、満州鉄道沿線に守備兵を置く国際法上の根拠もないと、歴史的経緯をこまかくのべて論証していました。

(「時の経過とともに消滅している」の論拠があいまいと思います)

だから、日本の満州における経済活動などは現実問題としてみとめざるをえない部分があるが、法的な原則論からいえば、日本は満州に対してもはや権利を持たないとし、

満州国にかわる具体策として、東三省(黒竜江省、吉林省、奉天省)に中国主権の地方自治政府を築き、日本はそこに駐屯部隊を置くことを提案していました。

これは、当時の日本人にとって、とうてい受けいれがたい提案でした。

「満州の権益は日露戦争以降、日本人が勝ち取った正当なものである。張学良はその正当な権益をおかす悪人である。だから討伐するのだ」

日本人の多くは、新聞やラジオを通じて、このように信じてきました。

それを、リットン報告書はまっこうから否定してきました。

並行線禁止問題

ほかにもリットン報告書が問題にしていたことに「並行線禁止問題」があります。

これは1905年12月(日露戦争後)の「満州に関する日清条約」で日本が清国に認めさせたという秘密協定で、清国政府が満州鉄道と並行する、あるいは競合するような鉄道を敷設することを禁じたものです。

日本は清国が倒れた後もこの秘密協定を根拠に、中国側が満州に鉄道を敷設することを禁じてきました。

しかし実のところ「並行線禁止」などは条文として明記されておらず、単に会議の席でそういう話が出た、というだけです。

それを日本は「約束したんだから守れ」と、中国にゴリ押ししてきたのです。

しかも対ソ戦に有利な路線なら満鉄に並行していても敷設を許可するなど、日本側の都合でみずから「秘密協定」を破ってもいました。

リットン報告書は、「並行線禁止」が明記された条約は存在せず、国際法上認められないと、ズバリ指摘していました。

・「並行線禁止」が明記された条約は存在しない。
・だから国際法上認められない。

これは反論の余地のまったくない「事実」であり、日本側はぐうの音も出なかったでしょう。

妥協案を拒否

それでも国際連盟は日本をとことんまで追い詰めようとは考えていませんでした。

日本の要求もある程度みとめ、現実路線ですりあわせようとはかりました。

1932年12月10日、イギリス外相サイモンは駐英大使・松平恒雄(まつだいら つねお)に妥協案を提案します。

十九人委員会に日中の代表と、米ソの代表を加えた協議委員会をつくり、満州問題を話し合うというプランでした。

しかし。

内田康哉外相が、これを拒否します。

内田康哉外相は元満鉄総裁で関東軍に協力的な人物で、はやくから満州国承認・満州国建国論をとなえていました。

いわゆる強硬論者、ファッショ的人物です。

当然、柳条湖事件は自衛であり満州国は民族自決にもとづく正当な国家と考えています。リットン報告書には大反対です。

その上、アメリカが介入すると日中の直接交渉にもちこめなくなると内田はおそれました。

ジュネーブにいる松岡全権は困惑しました。

アメリカが加わるなどは大した問題ではありません。このまま話をすすめるべきですと本国に打診しましたが、松岡の意見は容れられませんでした。

そこでイギリスは次の妥協案を出してきます。

米ソをのぞく協議委員会を開き、日中が直接交渉するという提案でした。

内田外相はこの提案も拒否します。松岡全権は内田外相に電報して説得をこころみます。

申上ぐる迄もなく物は八分目にてこらゆるがよし。些のひきかかりを残さず奇麗さっぱり連盟をして手を引かしむると言うが如き、望み得ざることは、我政府部内におかれても最初より御承知の筈なり。(中略)一曲折に引きかかりて遂に脱退のやむなきに至るが如きは、遺憾乍ら敢て之を取らず、国家の前途を思い、此際率直に卑見具申す。

『松岡洋右 その人と生涯』

物事は妥協が大事です。このままでは日本は国際連盟を脱退することになります。それは日本のためになりませんと。松岡の切々たる思いと、苦しい立場がにじみ出ているような文面です。

この間、日本軍は万里の長城の北、熱河(ねっか)に侵攻し、山海関(さんかいかん)を占領していました。

ここに至り、国際連盟は日本に対する態度を急速に硬化させます。昭和8年(1933)2月16日、勧告案をしめしてきました。

それはこれまでのようなゆるい条件でなく、日本に対してとても厳しい内容になっていました。

1 日本軍の駐屯地付属地以外からの即時撤兵。

2 満州における現制度(満州国)については、連盟国は法律上においても事実上においても、引き続きこれを認めない。

脱退へ

日本国内の世論はこれ以前から「国際連盟を脱退する」方向にすすんでいました。そこに、今回の勧告案が、決め手となりました。

昭和8年(1933)2月20日の閣議で、国際連盟総会が勧告案を採用する場合、日本は国際連盟を脱退することが決議されました。

2月22日、日本軍二個師団が、熱河侵攻を開始。

勧告案を審議するための国際連盟特別総会は21日から24日にかけて開催され、最終日に採択が行われました。

投票総数44
賛成42
反対1(日本)
棄権1(シャム)

満場一致で勧告は採択されました。

その場のようすは、佐藤尚武(なおたけ)大使によると、以下のようであったということです。

ここにおいて日本代表松岡は決然として立ち、日本は総会の決議に対して、深甚なる遺憾と失望を禁じえない。日本は極東の平和維持のためにあたう限りの努力を尽くしてきたのであるが、今や平和の維持上、日本は他の連盟加盟国との間に甚大なる見解の相異あることを認めざるをえない。日本はすでに連盟との協力のために最後の努力を払ったのであるが、今後ともあたう限り極東平和の維持、世界平和への寄与を尽くすでろうとのべ、最後に過去十七ヶ月にわたる議長、理事会、および総会参加国代表の努力を謝し、静かに議場を去って行くのであった。

3月4日、日本軍は熱河省の省都、承徳を陥落させました。

昭和8年(1933)3月27日、日本は国際連盟に対して脱退を通告。

同時に、昭和天皇の勅書が発せられました。

今次満洲国の振興に当り、帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すを以て東亜の禍根を除き、世界の平和を保つの基なりとなす。しかるに不幸にして連盟の所見これと背馳(はいち)するものあり。朕すなわち政府をして慎重審議遂に連盟を離脱するの措置を採らしむるに至れり。

……

4月、松岡全権は帰国し、5月1日、ラジオ放送で日本国民によびかけました。

「私は失敗した。何とかして連盟に残っていたかったのだ」と。

次回「ニ・ニ六事件」につづきます。

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解説:左大臣光永