藤原道長の生涯(十四)不遇の皇子 敦康親王

こんにちは。左大臣光永です。

椅子が壊れたので買いに行きました。四件の家具屋に行きました。理想にあったものはありませんでした。結局、ネットで買うことにしました。直接手に取って触れないという欠点を入れても、ネットのほうがはるかに選択肢が広く、時間もかかりませんね。

本日は、藤原道長の生涯(十四)「不遇の皇子 敦康(あつやす)親王」です。

前回まで、一条天皇中宮彰子の二人の皇子、敦成(あつひら)親王と敦良(あつなが)親王の話をしました。藤原道長の孫という恵まれた立場に生まれた二人の皇子は、やがて、後一条天皇・後朱雀天皇と二代にわたって即位することとなります。

一方、不遇な人物もありました。一条天皇と亡き皇后定子の間に生まれた、敦康(あつやす)親王です。第一皇子でありながら、中関白家の没落によりまったく後ろ盾が無くなり、母定子の没後は、中宮彰子に養育されていました。

今回はその、敦康親王の話です。

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東宮妃 妍子

翌寛弘7年(1010)も、めでたく始まりました。まず正月15日、生まれたばかりの敦良親王の五十日祝(いかのいわい)が行われます。五十日祝は子供に餅を食べさせるまねをする儀式です。

ついで正月20日、道長の次女・妍子が東宮居貞親王(後の三条天皇)の東宮妃となりました。居貞親王には過去、三人の后がいました。

そのうち二人はすでに故人となっていましたが、藤原済時(なりとき)の娘・娍子(せいし)は健在でした。しかも居貞親王と娍子は仲睦まじい関係でした。

そこに道長が、強引に次女妍子をねじこんできたのです。娍子としては心穏やかならぬものがあったでしょう。しかし娍子は動じる様子もなく、夫である東宮居貞親王のお召し物を仕立て、薫物を調合してやったりしました。

革聖 行円

寛弘7年(1010)3月21日、道長は法華経千部および千躯の仏絵像の供養を行った僧行円のもとに三十石の布施を送っています。

この行円という人は鎮西(九州)の人で、この年60歳余り。若い頃、山中で牝鹿を射て殺した時、母の死骸に取り付く子鹿たちを見て殺生の罪を悔いて出家して、行円と名乗り、そして自分の罪を忘れぬため、いつでも鹿の革をまとうようになりました。人々は彼を革上人と呼びました。

行円は平安京のあちこちを遊行して回ったようですが、寛弘元年(1004)左京の一条油小路に行願寺を建てます。近くに住む藤原行成が寺の扁額の文字を書きました。寺は行願寺という本名よりも「一条革堂(こうどう)」という通り名で親しまれるようになります。

行願寺(革堂)はその後火事で場所を二転三転し、現在は京都御苑の東南、寺町丸太町下るにあります。

行願寺(革堂)
行願寺(革堂)

賀茂祭

4月24日、賀茂祭が行われ、道長の次男・教通が近衛府の使いを務めました。道長は幼い二人の孫・敦成(あつひら)親王と敦良(あつなが)親王を抱いて、祭を見物しました。

賀茂祭の中心となるのが「賀茂の斎院」と呼ばれる女性です。現在の葵祭では「斎王代」と呼ばれ、京都の一般女性の中から選ばれますが、かつては皇族の未婚の女子から占いによって選ばれていました。

行列もなかば過ぎ、いよいよ賀茂の斎院を乗せた御輿が通りかかると、道長は桟敷から斎院に呼びかけます。

「斎院さま、どうかこの宮たちをご覧になってくだされ」

すると斎院は御輿のとばりから、赤い扇の端を出して、応えられました。

「なんとお心遣いのある斎院さまだろう!」

道長も、まわりの人々も言い合いました(『大鏡』師輔伝)。

敦康親王元服

7月17日、敦康親王の元服式が行われ、道長が加冠…冠をかぶらせる役をつとめました。敦康親王は一条天皇と亡き皇后定子との間に生まれた皇子です。

母定子の亡くなった後、宮中で中宮彰子によって養育されていましたが、心細い立場でした。

母定子が亡くなり、祖父道隆も叔父伊周も亡くなった今、後見となるのは叔父の隆家のみでした。

「ああ…なんと不憫な親王さま…」

彰子は敦康親王の立場を慮り、亡き定子の忘れ形見である親王を心から愛しく思うのでした。一条天皇も敦康親王を心から愛し、将来は東宮にと考えておいでした。

それで彰子も、一条天皇の在位中に、天皇の御心のままに敦康親王を東宮に立ててやりたいと思うのでした。

信仰心の高まり

年明けて寛弘8年(1011)道長は前々から計画していた金峯山詣でを実行すべく、正月早々、枇杷殿にこもり、精進潔斎に入りました。金峯山におさめる物品を用意したり、法華経を書写したりしました。

3月に出発しようとした所、物忌のため縁起が悪く、かわりに仁和寺の僧都済信を行かせることにしましたが、済信も忙しくて行くことができませんでした。こうして道長にとっての二度目の金峯山詣では実現しませんでした。

そのかわりでしょうか。道長は土御門邸にて等身の金色阿弥陀如来仏像の開眼、および阿弥陀経百巻の供養を行います。土御門邸に常住の僧、30人に加え、延暦寺・興福寺から招いた名僧20人が務めに当たりました。

もともと道長は宗教心が強い人物ではありました。政務のかたわら仏事を行い、『摩訶止観』などの仏典を熱心に学び、先祖代々の藤原氏の墓場である木幡に浄妙寺三昧堂を建立したり、延暦寺根本中堂で舎利会を開催したり、僧に布施をしたりしていました。

しかしこれまではどちらかというと現世利益を願ってのことでした。つまり、娘が天皇家に嫁いで、男子を産み、その男子が天皇として即位してほしい。どうかわが願い、かねえてくださいというわけです。

ところが今回の阿弥陀如来仏像の開眼とと阿弥陀経百巻供養は、これまでとは性質が違っていました。現世利益ではなく「此の度只後生を思ふ」(今回は後生のことを思ってやるのだ)と、道長は願文に書かせました。

講師を務めた院源僧都の説法はまことに道長の意にかなった素晴らしいもので、道長は感激のあまり涙を流し「皆、一様に感動した」と日記に記しています。

この時、道長は左大臣・内覧の地位を占め、長女彰子は中宮。次女妍子は東宮妃。およそ人臣として望みうる最高の栄誉を手にしていました。その絶頂期にあって浄土への思いがましているのは興味深いことです。

4月17日、賀茂社参詣。翌18日、賀茂祭。道長は去年と同じく、孫の敦成親王・敦良親王をひざに抱いて、次女・妍子とともに一条院桟敷で見物しました。

敦康親王の立場

寛弘8年(1011)5月末より一条天皇は重体となります。5月23日、知らせを受けた道長が一条院内裏に参上します。

「道長か」

「はっ、道長はこれに」

「東宮を呼んでくれ」

「東宮さまを…」

そこで道長は東宮・居貞(いやさだ)親王に使いを立てます。天皇が東宮に対面を求めておられる。これはいよいよご譲位の話に違いありませんでした。

一条天皇が譲位すれば東宮の居貞親王が即位するわけですが、問題はその次の東宮でした。

一条天皇も、中宮彰子も、亡き皇后定子の腹である13歳の敦康親王の立太子を望んでいました。しかし敦康親王には後ろ盾がまったくありませんでした。

母定子は亡くなり、祖父道隆も、叔父伊周も故人になっていました。唯一の後ろ盾は叔父の隆家ですが、あまりに心細い立場でした。

それに対して、彰子腹の敦成親王は権力者・藤原道長の孫であり、後ろ盾は申し分ありません。

世間の大方は、いくら天皇と中宮が敦康親王の立太子を望んでも敦成親王が立太子するだろうと見ていました。

5月27日、侍従中納言・藤原行成が一条天皇の御前に召されます。

「譲位の意思は固まった。ついては東宮のこと、いかがすべきであろう」

「畏れながら、左大臣(道長)は当今の重臣であり帝の外戚でございます。その孫である第二皇子(敦成親王)を東宮に立てるべきです。

その昔、文徳天皇は第一皇子の惟喬親王をこよなく愛されましたが、第四皇子の惟仁親王の祖父・藤原良房公は国家の重臣であるによって、惟仁親王のほうを御即位させたのです。

帝が第一皇子の敦康親王を立太子しようとしても、左大臣はなかなか承知しないでしょう。争いのもとです」

「それは朕とてわかっている。しかし…敦康があまりに不憫でのう。道理のままならば敦康をこそ東宮に立てるべきところ…後見が無いばかりに…」

「帝の御心中、お察しいたします。ならば親王に年官年爵を下されてはいかがでございましょう」

年官年爵とは、毎年、誰かを一定の地位に任命したり叙爵する(従五位下の位を与える)権利のことです。

「ううむ…そういうやり方もある…か」

6月2日、一条天皇は東宮居貞親王を一条院内裏に召して、譲位の意思を告げます。居貞親王が天皇の御前を下がると、次に道長が参上しました。天皇は道長におっしゃいました。

「たった今、東宮に譲位の意思を伝えた」

「はっ…」

「それでな道長、東宮が早く席を立ってしまったので、敦康の処遇について話すことができなかった。敦康には別に禄を加え、年官年爵を与えてほしい。そなたから東宮にそう伝えてくれ」

「はっ、確かに」

すぐに道長は東宮居貞親王のいる一条邸へ向かい、天皇のお言葉を伝えると、

「帝がご病気であるので長居は失礼と思って早く退出したのだ。敦康親王の処遇のことは当然である。たとえ天皇の仰せが無くとも、そうするつもりであった。その旨、帝に奏上してくれ」

とのお言葉でした。

中宮彰子は、敦康親王を幼い頃から養育してきたことでもあり、ぜひ将来は敦康親王を東宮にと思っていました。しかし父道長のゴリ押しによって、彰子の産んだ敦成親王のほうが東宮に立つことになりました。

彰子は一条天皇の譲位について父道長のことを「恨み奉り給ふ」とまで書かれています(『権記』)。

次回「一条朝から三条朝へ」に続きます。

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解説:左大臣光永