藤原道長の生涯(十一)敦成親王、誕生
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本日は藤原道長の生涯の第十一回「敦成(あつひら)親王、誕生」です。一条天皇と中宮彰子の間に道長の孫にあたる敦成親王が生まれるまでを語ります。
嬉子の誕生
寛弘4年(1007)正月5日、妻倫子の腹に、四女嬉子(きし)が生まれます。後に後朱雀天皇中宮となり後冷泉天皇を産む女性です。3日夜、5日夜、7日夜、産養(うぶやしない)の儀が行われました。
藤原道長の娘たち
産養とは子供が生まれた後に行う儀式で、初夜、3日夜、5日夜、7日夜、9日夜に親類縁者から衣類や調度品が贈られ、宴会を開くものです。
7日の産養には、中宮彰子(しょうし)より、絹と襁褓と、さまざまの贈り物が贈られてきます。
「嬉しいことだ。今までも娘を中宮にした親はあった。しかしそれは老後のことなのだ。私はまだ老後でもないのに娘が中宮に立っている。こんなに嬉しいことはない」
道長は素直に喜びをあらわしました。この時、道長42歳の男盛りです。
2月28日、息子教通(のりみち)・能信(よしのぶ)が春日祭に出るのを見物。3月3日、道長の土御門邸にて曲水の宴を楽しむ。3月9日。石清水臨時祭にて息子四人が舞人となる。
4月19日、賀茂祭。息子頼宗(よりむね)が祭りの使いとなる。息子たちの成長を喜ぶ父親のさまが、『御堂関白記』には素直に綴られています。また閏5月17日から、長女彰子の皇子出産を祈願して、吉野の金峯山(きんぷせん)に参詣しました。
寛弘4年(1007)の後半も、政務と仏事のうちに暮れました。
敦成親王誕生
嬉子の戴餅
寛弘5年(1008)。正月一日は、四女嬉子の戴餅(いただきもちい)が行われました。戴餅とは正月に子供の頭に餅を戴かせて前途を祝う儀式です。
嬉子の母倫子(りんし)は、頼通・彰子はじめ六人の子を産んでいますが、この時、息子娘たちに劣らぬほど若く輝いていたといいます。
「見よ、かの母の御有様はいかが見たてまつる。なかなか御女の君達の御さまには劣らぬ御有様にこそ若やぎたまへれ。なほ御髪の有様よ」(『栄花物語』巻第八)
彰子、懐妊
まもなく、一条天皇のもとより使いが来ました。
「何でございましょう。正月早々に…?」
「左府殿、おわかりになりませぬか」
「…?もしや、中宮ご懐妊!」
「おめでとうございます。お察しの通り、ご懐妊でございますよ」
「ああ!」
道長は目に涙を浮かべ、
「昨年、金峰山詣でをした功徳だろうか。嬉しいことだ!」
素直に喜びをあらわしました。
花山法皇崩御
2月8日、花山法皇崩御。藤原兼家によってだまし討のような形で退位させられた人物ですが、その後は道長との関係も良好でした。和歌や芸術の分野に広く活躍し、まずまず幸福なご生涯だったと言えるでしょう。
享年41。墓は京都市北区衣笠北高橋町。紙屋川のほとりにあります(紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ))。
花山天皇陵(紙屋川上陵)
彰子、出産
4月13日、彰子は出産のために一条院内裏を出て、生まれ育った父道長の屋敷・土御門邸に移ります。多くの女房をともなっての里下がりでした。その中には宮仕えして三年になる紫式部もいました。
土御門邸跡(現 京都御苑内)
秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。
『紫式部日記』冒頭
秋の気配が深まってくるにつれて、土御門邸の様子は、言いようもなく風情がある。池のあたりのたくさんの梢、遣水の脇に草が生い茂っているの、それぞれ見渡す限り色づいて、秋はおおかたの空も艶やかだ。それらは中宮さまご出産を応援しているよう。絶えることない御読経の声々に、風情は深まってくる。だんだん涼しくなってくる風の気配に、いつもの絶えない水の音が、一晩中混じり合って聞こえる。
■もてはやされて 自然の風物までもが中宮ご出産を応援しているようす。 ■聞きまがはさる 風の音と水の音が混じる。
出産を待つ日々、天皇の勅使がひっきりなしに土御門邸に訪れ、密教の修法(すほう)が行われ、読経の声が響き、今様歌が歌われ、皆一様に彰子の出産を祈願しました。
この間、道長は落ち着かない日々を過ごしました。
寛弘5年(1008)9月11日昼頃、彰子は男子を出産しました。
午の時に、空晴れて朝日さし出でたるここちす。たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ
『紫式部日記』
正午頃、空晴れて朝日が出たように思える。無事にお生まれになった嬉しさの類ない上に、まして男子でさえあられた喜び、どうして一通りであろうか。
紫式部の筆が興奮に躍っているのに対し、藤原道長のほうは淡白です。
午の時、平安に男子を産み給ふ。候する僧・陰陽師らに録を給ふ、
『御堂関白記』
あまりに嬉しかったので言葉にまとまらなかったのでしょうか。この皇子は敦成(あつひら)親王と名付けられます。後の、後一条天皇です。
『紫式部日記』より
『紫式部日記』には敦成親王の3日夜、5日夜、7日夜、9日夜すべての産養の様子が細かく詳しく描かれています。キリがないので省略しますが、こういう記事が今日、平安時代の風俗習慣をしるのに大いに役に立つわけです。
その間、道長は夜中にも暁にも孫(敦成親王)の顔を見に訪ねてきました。道長がいきなりやってきて乳母の懐をさぐって若宮を抱き取るので、乳母が寝ぼけまなこで目をさます。それが気の毒だと、紫式部は乳母に同情しています。
ある時、道長が若宮(敦成親王)を抱いていると、おしっこをかけられました。そこで、濡れた直衣を脱いで几帳の後ろで火にあぶって乾かしていました。通りかかった公卿に道長は、
「あはれ、この宮の御しとに濡るるは、うれしきわざかな。これ濡れたるあぶるこそ思ふやうなるここちすれ」と、よろこばせたまふ。
『紫式部日記』
ああ、この宮(敦成親王)のおしっこに濡れるのは、うれしいことだなあ。この濡れた衣を火であぶっているのこそ、思いがかなった心地がするよ」とお喜びになったと。
紫式部の藤原道長に対する観察は、微笑ましく温かいものがあります。
次回、「一条天皇の土御門邸行幸」に続きます。お楽しみに。
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