藤原道長の生涯(十)政務と信仰
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本日は藤原道長の生涯の第十回「政務と信仰」です。道長は、若い頃から宗教心があつい人物でした。権力の座についてからはいよいよその傾向が強くなります。今日はその様子を語ります。
東三条院詮子、崩御
長保3年(1001)10月9日、東三条院詮子の四十の賀が土御門邸で行われました。東三条院詮子は一条天皇の母であり道長の姉です。
東三条院詮子
土御門邸跡(現 京都御苑内)
東三条院詮子は末の弟である道長をなにかと贔屓にしました。道長が左大臣にまで至ったのは姉の働きあってこそでした。道長もそれを十分自覚しており、生涯姉詮子に感謝の気持ちを忘れませんでした。
四十の賀の前日から詮子は道長の土御門邸に渡御しました。翌10月9日昼頃、一条天皇の行幸となります。大臣公卿のあまた列席する中、酒が運ばれ、舞が始まります。
日が傾く頃になって道長の長男、10歳の鶴君(つるきみ)が、「陵王(りょうおう)」の舞を、ついで次男で8歳の巖君(いわおきみ)が「陵王」の番舞(つがいまい)である納蘇利(なそり)を舞います。特に巌君の舞は好評をはくします。
おお…
なんと愛らしい
一条天皇以下、人々は絶賛し、涙を流す者もありました。
この鶴君が後の頼通(よりみち)、巌君が後の頼宗(よりむね)です。ただし頼通の母は倫子、頼宗の母は明子(めいし・あきらけいこ)。別腹の兄弟です。
頼通・頼宗
平等院鳳凰堂
一条天皇は夜の12時に一条院に還幸(天皇が外出先から戻ること)され、詮子はさらに一泊して翌日に東三条院に戻りました。
まことに華やかな、夢のようなひと時でありました。
その三週間後には、詮子は弟の道長や道綱をさそって、石山寺に参詣しました。これが道長が姉と遠出した最後となりました。
閏12月。詮子は腫物が出来て、具合が悪くなります。
「姉上、すぐに医者を呼びます」
「よして道長。医者に診せるくらいなら死んでしまいます」
「そんな姉上、わがままを仰せになりますな」
詮子がどうしても医者にみせることを聞き入れないので、病平癒のために大赦を行います。しかし効き目はないです。
翌日、一条天皇行幸となり、これが母子の最後の御対面となりました。天皇還幸後、詮子は御髪をおろして御出家し、6日後の 長保3年(1002)閏12月22日、崩御なさいました。享年41。
2日後の雪の降りしきる中、葬送が行われ、詮子の遺骸は荼毘に付されました。遺骨は『栄花物語』によると道長が首にかけて木幡(こはた)まで運び、埋葬したといいます。
道長は出世した後も、自分を引き立てくれた人々への恩を忘れず、こまめに顔を出したり贈り物を贈りしました。ことに姉詮子は道長の出世の第一の功労者。道長は生涯姉に感謝していました。その詮子が亡くなったのです。道長の胸中おしはかるに余りあります。
子供たちの成長
年明けて長保5年(1003)、一条天皇は24歳。中宮彰子は16歳となりました。
皇后定子が亡くなって以来、一条天皇の后は彰子一人となりました。一条天皇は彰子を深く寵愛し、他の女御など近づく隙もありませんでした。道長はその状況を喜びました。
「後は彰子に皇子さえ生まれてくれれば…」
それが父道長の望みでした。わが娘を天皇に嫁がせ、その子が男子を産み、その男子が天皇として即位。晴れて天皇家の外祖父となるというのが、道長が長年願ってきたことでした。
また彰子以外の子供たちも成長していました。
2月20日、枇杷殿にて、長男頼通の元服式と、次女妍子(けんし)の裳着(女子の成人式)が行われます。このとき頼通12歳、妍子11歳。妍子は後に三条天皇の中宮となります。
枇杷殿跡(現 京都御苑内)
法華経三十講
道長は、若い頃から宗教心があつい人物でした。権力の座についてからはいよいよその傾向が強くなります。土御門邸で「法華経三十講」を毎年行うようになります。
「法華経三十講」とは、法華経の序章である「法華経無量義経」に始まり、法華経二十八品と、終章にあたる「普賢経」、あわせて30経を、毎日1経ずつ、30日かけて講義するというものです。
長保4年(1002)3月初日から一ヶ月かけて行ったのを始めとして、翌長保5年(1003)5月に、以後毎年5月に行いました。一ヶ月かけて行うこともあれば、午前午後分けて二度の講義を行い15日間というケースもありました。いずれにしても、道長は仏道に深く帰依していました。
また、賀茂社や石山寺など、寺社にも道長はよく参詣しました。
道長の浄土への思いは年々膨らんでいきました。
頼通、春日祭使を務める
長保6年(1004)(改元して寛弘元年)、この年は道長にとって飛躍の年となりました。
新年早々、13歳の頼通が従四位下に叙せられ、2月6日、春日祭(かすがのまつり・かすがさい)の勅使を務めることになったのです。
現 春日大社 拝殿
春日社(現 春日大社)の祭に遣わされる、天皇の勅使です。ことに春日社は藤原氏の氏神なので、藤原氏の師弟から選ばれることが多かったのです。それに頼通が選ばれたのです。大変な名誉です!
道長の得意の顔も目に浮かぶようですね。
前日の5日、枇杷邸にて出発に際しての饗応が行われました。饗応を取り仕切ったのは道長の家司(職員)である橘道貞。かの女流歌人・和泉式部の夫として知られる人物です。午後から頼通、奈良へ出発。
翌6日。京都は夜明け前から大雪で20センチあまりも積もりました。
「このぶんでは奈良も雪だろうのう…」
道長は頼通のことがよほど心配だったのでしょう。又従兄弟の左衛門督・藤原公任と歌のやり取りをします。
わかなつむ春日のはらに雪ふれば 心づかひを今日さへぞやる(道長)
新春の若菜摘みをする春日の原に雪が降るので、心遣いをこんな晴れの日にさえも、させられることよ。
身をつみておぼつかなきは雪やまぬ 春日のはらの若菜なりけり(公任)
私にとっても他人事ではありません。はっきりしないのは雪がやまない春日の原で若菜つみがちゃんとできるかということです。
これは、公任の息子・定頼が頼通のお供をして春日社に参詣していたためです。
ついで花山法皇から、女に持たせて歌が届けられました。
三笠山雪や積むらむと思ふ間に 空に心の通ひけるかな
三笠山に雪が積もるだろうかと思っている間に、空に心が通ってほんとうに雪が降ってしまったとこよ。
花山法皇は寛和の変で道長の父・兼家に騙されて出家させられた方です。花山法皇にとって藤原氏は仇敵ともいっていいはずですが、特に藤原氏と対立した様子もありません。まして法皇は道長に個人的な恨みなど一切ありませんでした。
道長と花山法皇の関係は、このように歌を詠み合ったりする「親しむべき友」だったようです。
父道長の心配をよそに、頼通は春日祭の使を立派になしとげ、翌7日に京に戻ってきました。父道長はじめ諸大臣らが頼通を迎え、ふたたび宴会がもよおされ、出席者に録が与えられました。
翌3月の28日、道長は花山法皇から誘いを受けて白河に同行し、花見を楽しみました。一行は摂関家所有の御殿「白河殿」を見た後、馬に乗り観音寺勝算の房に入り酒宴となりました。その場に藤原公任もいました。
「なんだ公任、お前も来てたのか」
「やや、左府殿に法皇さま」
そこで歌を詠み、酒を飲み、春のうららかな一日を過ごしました。残念ながらこの時詠まれた歌は伝わりませんが、道長と公任、花山法皇の親しき交流が目に浮かび、微笑ましいです。
道長 政務と信仰の日々
その後、道長の信仰心はいよいよ深くなっていきました。政務のかたわら仏事を行い、『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などの仏典を熱心に学びました。
宇治に近い木幡は藤原氏先祖代々の墓がありましたが、道長の時代にはすっかり荒れ果てていました。道長はそれを嘆き、木幡に浄妙寺三昧堂を建立し、祖先を祭りました。
木幡
浄妙寺は現在、跡形もありませんが、宇治市立木幡小学校の前に碑が立っています。
浄妙寺跡(宇治市立木幡小学校の前)
次回「敦成(あつひら)親王 誕生」に続きます。お楽しみに。
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12/22 京都講演
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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。