藤原道長の生涯(十三)敦良親王の誕生

こんにちは。左大臣光永です。

先日、京都講演にいらしたお客様から、「きゃらぶき」をいただきました。蕗の茎を醤油で煮詰めたものです。実に美味しかったです!

見た感じ、塩辛いものかと思いましたが、塩辛くはなく、しなやかな歯ざわりと、塩辛くなる直前で踏みとどまる奥ゆかしさを感じました。ありがとうございました!

本日は藤原道長の生涯の第十三回「敦良(あつなが)親王の誕生」です。

敦成親王呪詛事件

寛弘6年(1009)正月。土御門邸にて昨年生まれた敦成(あつひら)親王の戴餅(いただきもち)の儀が行われます。戴餅の儀とは、頭の上に餅を戴き、子供の成長を祝う儀式です。

土御門邸跡(現 京都御苑東北部)
土御門邸跡(現 京都御苑東北部)

この年は正月早々、気の滅入る事件がありました。正月30日、僧や陰陽師らが中宮彰子および敦成親王・藤原道長を呪詛していたことが発覚したのです。

「言えッ!命じたのは誰だ!」

厳しい拷問を加えたところ、白状しました。

呪詛を命じた犯人は中関白家の藤原伊周(これちか)の母の実家・高階(たかしな)家につらなる者たちでした。

中関白家の没落に伴い、伊周の母方である高階家も没落しました。それを彼らは恨んでいました。それで、円能という僧をやとって中宮彰子、敦成親王、藤原道長を呪詛させたのでした。

中にも、主犯格である高階光子(こうし)は関白藤原道隆と結婚して伊周・隆家・定子らを産んだ、高階貴子の妹で、道隆の家に仕えた女官でした。

2月20日、伊周は公務を停止されます。

伊周自身は道長と一緒に賀茂祭を見物するなど、道長との関係は良好でした。中関白家復興をはかって道長を呪詛するなど、伊周には思いもよらぬことでした。しかし身内がやらかしたことまでは、どうにもなりませんでした。

主犯格の高階光子・源方理(かたまさ)らは官位剥奪。円能は絞罪(絞首刑)となるところを禁獄となりました。平安時代はじめの平城太上天皇の変で処刑された藤原仲成以来、死刑は長く停止されていたので、この時も行われませんでした。次に公式な死刑が復活するのは保元元年(1156)保元の乱の直後です。

6月13日、伊周の公務停止は解除されますが、伊周は翌年の寛弘7年(1010)正月29日、亡くなりました。享年37。

一時は大宰府に流され、都に戻ってきた後も叔父の道長が日に日に勢いを伸ばしていく中、伊周の立場は心細いものでした。傾きつつある中関白家の大黒柱として、そのプレッシャーもそうとうなものだったでしょう。

この呪詛事件について藤原道長の『御堂関白記』はまったく記録を欠いています。よって道長の感情を知ることはできません。

頼通の結婚

この頃、道長長男・頼通(18歳)と、具平(ともひら)親王の娘・隆姫(たかひめ、15歳)との結婚式が行われました。具平親王は醍醐天皇の第七皇子。血筋は申し分ないです。

頼通と隆姫
頼通と隆姫

道長はこの結婚を大喜びで許しました。

「いとかたじけなきことなり」と畏まりきこえさせたまひて、「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたらに参りぬべきなめり」

たいそうありがたいことだ。と畏まりおっしゃって、「男は「妻がら」妻の身分や資産によって決まってくる。たいそう高貴な家柄の娘を妻に迎えることこそ、よいことであるようだ」

このように喜んだのですが、頼通と隆姫が結婚して間もない7月29日、隆姫の父・具平親王は亡くなっています。

頼通は生涯隆姫を愛し、ほかの女性にはほとんど感心を持ちませんでした。とても美しい女性だったようです。

ある時、頼通が家に戻ってくると、隆姫が御帳台の前に座っていた。それを頼通が几帳ごしに見ると、衣の裾に流い黒髪が美しく垂れていて絵のようであったといいます。

彰子、ふたたび懐妊

寛弘6年(1009)3月、中宮彰子がふたたび懐妊しました。6月19日、彰子は敦成親王とともに内裏を出てふたたび土御門邸へ。去年に続けて今年も懐妊!でかしたぞ。そんな道長の声もきこえてきそうです。

彰子が里帰りしている間、妹の内侍妍子(けんし)は、生まれたばかりの敦成親王をたいそう可愛がりました。その様子は、そばにいた乳母たちも微笑ましく思い、他人もうらやむほどでした。

五ヶ月後の11月25日、彰子は男子を出産します。今度は敦成親王のときのように難産ではなくスムーズに生まれました。臍の緒を切り、はじめてお乳を与える役は祖母の倫子がつとめました。その後の数々の儀式も、敦成親王のときと同様に行われました。

敦良親王=後朱雀天皇
敦良親王=後朱雀天皇

赤子は敦良(あつなが)親王と命名されました。後に兄後一条天皇(=敦成親王)の崩御を受けて即位する、後朱雀天皇です。

『御堂関白記』には敦良親王誕生後の御湯殿の儀、三夜、五夜、七夜、九夜の産養の儀、五十日祝(いかのいわい)について事細かに書いてあります。読書の儀・鳴弦(めいげん)の儀についても書いています。読書の儀は赤子に書物を読み聞かせること。

鳴弦の儀は邪気払いのため矢をつがえずに弦をはじくことです。こうした記述は後世の我々が平安時代の風俗習慣を知る上で大いに参考になります。

犬宮(いぬのみや)

敦良親王誕生に関して逸話があります。

彰子が懐妊中、帳の中に犬の子が入り込んでいました。見つけて大いに怪しんで、道長に報告します。道長はお抱え学者の大江匡衡(おおえの まさひら)を召して、このことをたずねました。

匡衡いわく、

「吉兆です」

「なぜか」

「皇子ご出産となるしるしです。「犬」という文字は、点を大の下につければ「太」となり、点を大の上につければ「天」となります。だから皇子ご出産というのです。太子(皇太子)に立ち、そののち「天子」に至りなさるということです」

道長は大いに感じ入っているうちに、彰子ご懐妊となったと。これが敦良親王、後の後朱雀天皇であると(『江談抄』)。

ために、道長は敦良親王のことを「犬宮(いぬのみや)」と呼んだといいます。

枇杷殿

中宮彰子は出産後、土御門邸を後にします。しかし帰る先は長年暮らした一条院内裏ではありませんでした。

一条院内裏跡(現 京都市上京区梨木町
一条院内裏跡(現 京都市上京区梨木町)

寛弘6年(1009)10月5日、一条院内裏は火事で焼けました。一条天皇は一時別の官舎(織部司庁)に移った後、10月19日、藤原道長の枇杷殿に移っていました。

枇杷殿跡(現 京都御苑西部)
枇杷殿跡(現 京都御苑西部)

道長は天皇を迎えるにあたって枇杷殿を全面的に整え、まったく内裏と同じように作りました。それまで枇杷殿には東宮・居貞(いやさだ)親王…後の三条天皇が住んでいました。そこで居貞親王には別の屋敷に移ってもらい(頼通邸→道長の一条邸)。10月19日、一条天皇を枇杷殿にお迎えします。

以後しばらく、琵琶殿が一条天皇の里内裏となります。そして年も押しつまった12月26日、彰子は父道長の土御門邸から枇杷殿に還御したのでした。

次回「藤原道長の生涯(十四)不遇の皇子 敦康親王」に続きます。お楽しみに!

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解説:左大臣光永