藤原道長の生涯(十五)一条朝から三条朝へ

こんにちは。左大臣光永です。

京都大学の近くにカレー屋があったので入ろうとすると、カウンター席に店長らしき人物が座って、帳簿らしきものを広げて頭抱えてるんですよ。いかにも絶望的に、「ハァ…今月どうやって乗り切ろう」て感じで。入るのをやめて、そっと立ち去りました。ああいう絶望は、客から見えないところで浸ってほしいです。

本日は、藤原道長の生涯(十五)「一条朝から三条朝へ」です。

一条天皇、崩御

寛弘8年(1011)6月13日、一条天皇譲位。居貞親王が三条天皇として践祚します。譲位の翌日から一条上皇は出家のことを口にされ、病の重い時には「太波事(たわごと)」…つまり、うわ言を仰せられるようになったとあります。6月19日、ご出家。病が重いので御寝所である清涼殿・夜御殿(よんのおとど)でご出家は行われました。

6月21日、一条法皇となられたその御方は、中宮彰子に向かって歌を詠んでいます。

つゆのみの くさのやどりに木みをおきて
ちりをいでぬる ことをこそおもへ

露ばかりである草の宿にあなたを置き去りにして、私は塵にまみれた現世から旅立っていく。後に残していくあなたの身を思うといたたまれない。

時に近習の公卿・侍臣・男女道俗、これを聞く者涙を流さざるなし

『権記』

6月22日崩御。享年32。墓は現在、京都市右京区龍安寺の北山山頂にあります。「圓融寺北陵(えんゆうじきたのみささぎ)」がそれです。

一条天皇陵
一条天皇陵

一条天皇陵よりの眺め
一条天皇陵よりの眺め

関白を辞退

寛弘8年(1011)8月11日、三条天皇はそれまでの東三条院内裏から、新しく造営された新造内裏に移ります。

8月23日。三条天皇より藤原道長に「関白を下す」とお言葉がありました。関白に就任せよということです。しかし道長は「今年、重く慎むべきことあって」と、辞退しました。

道長は関白の位を望まなかったようです。この後も道長は生涯、関白にはならず、内覧で通しました。なぜ道長は関白にならなかったのか?それは国政に直接タッチしたかったからだと言われています。

内覧・左大臣という立場であれば太政官(国政を司る機関。国会)の議決に直接関われます。しかし関白になると国政にかかわる権限を左大臣以下に譲らなければなりません。

ようは直接国政にタッチしたかったから、関白ではなく内覧・左大臣という地位に道長は固執したようです。

妍子と娍子

道長が内覧の宣旨を受けたと同じ日、三条天皇の後宮に仕える二人の女性に女御の宣旨が下されます。一人は道長の次女・妍子(18歳)。もう一人は宣耀殿こと藤原娍子(せいし)(40歳)。

妍子と娍子
妍子と娍子

藤原娍子は三条天皇の寵愛篤く、すでに三条天皇と娍子の間には敦明親王はじめ四人の親王・二人の内親王が生まれていました。三条天皇は当然、愛する娍子(せいし)から生まれた敦明親王を東宮に立てたかったのですが、道長の手前、叶わぬことでした。

また、娍子の父大納言 藤原済時(なりとき)ははやくに亡くなっているので、後見人という意味からも娍子(せいし)の子・敦明親王を東宮に立てることは絶望的でした。

寛弘8年(1011)10月16日、新造内裏の紫宸殿にて三条天皇の即位式が行われました。

息子の出家

年明けて長和元年(1012)正月16日。道長に心痛い事件が起こりました。息子顕信(あきのぶ)が出家したのです(母は源明子)。

『御堂関白記』によると、

この日の道長の子・顕信(あきのぶ)は、比叡山延暦寺に登り出家をしたいと願い出ました。驚いた延暦寺の慶命僧都が、道長のもとに行き、朝10時頃、事の次第を告げました。すると道長は

「思うところあってやったのでしょう。今は言っても仕方ありません。息子の思うままにしてやってください」

言われて慶命僧都は比叡山に帰っていきました。その後、道長が顕信の母・明子の屋敷を訪ねると、明子も乳母もボーゼンとして心神喪失状態でした。

翌正月17日、道長は比叡山に当面必要なものを送り、

「私も出家したい思いがあるがいまだ実現できていない。顕信を止めるのは罪つくりになるので、もう考えるのはよそう」

そう記しています。

5月23日。道長は顕信の受戒式に列するため、比叡山に登りました。この時、ちょっとした事件が起こります。

東坂本から馬に乗って、大臣・公卿に先駆けさせて登っていくと、壇那院のところで僧たちが石を投げつけてきました。

「これは左府殿の御登山ぞ。何者の仕業か」

すると僧兵たちが、

「ここは檀那院ぞ。下馬所ぞ。馬から降りよ。大臣公卿はものの道理を知らぬか」

そう言ってしきりに石を投げてくる。石の一つが道長の馬の前に落ちる。

「おのれ悪僧!」

すぐに下手人を絡め取りましたが、道長はもともとの非はこちらにある。確かに馬に乗って比叡山に登るのは間違いだったと思ったようで、かの者の処分を前大僧都・院源に任せました。

たしかに比叡山に馬で登るのは前代未聞です。なぜ道長はそんなことをやってしまったのか。藤原実資は「人に非ざるの所為」と道長を大いに批判しています。

しかし顕信の受戒式そのものはとどこおりなく行われました。剃髪した顕信を見送る段になって道長は大いに泣き、それを見ていた頼通・教通・頼宗といった息子たちも、みな涙を流しました。

道長と三条天皇・実資の関係

さて。三条天皇と道長の関係はぎくしゃくしていました。お互いに距離をはかり、腹のさぐりあいをし、時には道長が天皇の意向を完全無視するという具合でした。

「道長は腹の底が読めぬ。やはり頼るなら実資だ」

三条天皇は反動でアンチ道長派の藤原実資になんでも相談するようになります。実資はこれまでも何かにつけて道長に批判的でした。道長と実資は、それぞれ藤原北家の九条流と小野宮流を負って立つ立場でした。

ことに実資の小野宮流は道長の九条流に押されているので、実資はそれにコンプレックスを感じ、道長に対抗意識を燃やしていました。

とはいえ、道長と実資が完全に敵同士であったかというと、そうではありません。

実資は宮中の有職故実に詳しい小野宮流藤原氏です。宮中で節会や儀式が行われる時は、実資の知識が大いに活かされます。その点においては道長は自分など実資の足元にも及ばないことを重々承知していました。だからそうした知識が必要な場面では、道長は実資を大いに頼りにしました。

たとえば三条天皇が、実資に道長の悪口をもちかける。

「お前も思うであろう道長はひどい」
「はっ…帝、それはまあ、その」

いまいち煮え切らない実資でした。実資は日記『中右記』に道長の悪口を書きまくっているわりには、正面から道長と対立する度胸はありませんでした。だから三条天皇からずばり道長批判を持ちかけられると返事に困ることが、しばしばでした。

道長と三条天皇と藤原実資。三者の関係は、こういう微妙なバランスの上に成り立っていました。

次回「ふたたび一帝二后」に続きます。お楽しみに。

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解説:左大臣光永