藤原道長の生涯(八)一帝ニ后

こんにちは。左大臣光永です。子供の頃、文鳥を飼ってたんですが、いまだにその可愛さを思い出します。寝てる時、鼻でちゃんと息してるのがいいですね。指近づけるとスースーと呼吸が感じられます。

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本日は藤原道長の生涯の第八回「一帝ニ后」です。一条天皇に定子と彰子、二人の后が立つところまでです。

▼過去配信分はこちら▼

藤原道長の生涯(四)花山天皇のご出家・寛和の変
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藤原道長の生涯(五)道長、登場
https://history.kaisetsuvoice.com/Michinaga05.html

藤原道長の生涯(六)内覧の宣旨
https://history.kaisetsuvoice.com/Michinaga06.html

藤原道長の生涯(七)中関白家の没落
https://history.kaisetsuvoice.com/Michinaga07.html

紅葉狩

長保元年(999)9月12日、藤原道長は一族引き連れて嵯峨に紅葉狩りに出かけました。平安京東端の土御門邸を出て、

土御門邸跡(現 京都御苑内)
土御門邸跡(現 京都御苑内)

おそらく一条通りを西に向かい、仁和寺の前を通って、広沢の池・大沢の池を見ながら大覚寺に、ついで河原左大臣源融の隠居跡である棲霞観(現・清凉寺)に参拝しました。

大覚寺は嵯峨天皇の離宮跡が寺になったものです。

大覚寺
大覚寺

さて一行の中に道長の又従兄弟・大納言藤原公任(ふじわらの きんとう)がいました。

道長と公任
道長と公任

公任は、おそらくこの時、大沢池のほとりの嵯峨天皇の離宮の滝組跡を見て、

滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こへけれ

名こその滝跡
名こその滝跡

小倉百人一首に有名な歌を詠みました。滝の音はとだえて長い月日が流れるが、その評判は今に伝わり、なおも聞こえている。

屏風和歌

長女彰子の入内に際して、道長は「四尺の屏風和歌」を人々に詠ませました。入内の調度品として作っていた屏風に書く和歌を詠ませたのです。

これに対し、小野宮家(おののみやけ)の藤原実資(ふじわらの さねすけ)は反発しました。

身分の高い者がそのような下々のことをするとは、「往古聞かざる事也」(『小右記』)昔も今もきいたことがないと。しかも花山法皇までが御製の御歌を作って道長に提出している。まったくけしからんと憤って、自分は歌を出しませんでした。

実資と公任
実資と公任

また同じ小野宮流の藤原公任が歌を提出したのに対し、

「近来の気色猶ほ追従に似たり」

この頃の様子は追従に等しい、小野宮家の家風もここまで堕落したのか、嘆かわしい!…なんてことを書いています。

この藤原実資という人は日記『小右記(しょうゆうき)』の中で、何かにつけて道長を批判しています。しかし道長に面と向かって食ってかかることはできなかったようです。

彰子入内

長保元年(999)10月25日。入内を控えた彰子のために方違(かたたが)えが行われます。方違えは縁起をかついで方角のいい屋敷に一時的に移ることです。

「いよいよだな彰子、心構えはできているかい」
「はい父上。私大丈夫ですわ」

彰子は左京京極西の土御門邸から西の京の太秦連理(おおはたのつらまさ)邸に移りました。父道長もこれに同行しました。

そして11月1日、彰子は一条天皇の後宮に入内します。12歳でした。

四十人の女房および、童女(めのわらわ)六人、下仕(しもづかえ。雑用係)六人が彰子に従います。器量や人柄がよく気品があって育ちのいい者ばかりを選りすぐりました。

彰子のありさまは、髪は身の丈の五六寸(15-18センチ)も余り、まだ幼いのに大人びており、見事という言葉が平凡すぎるくらいであったと、『栄花物語』は記します。

姫君の御有様さらなることなれど、御髪(みぐし)、丈に五六寸ばかり余らせたまへり、御かたち聞えさせん方なくをかしげにおはします、まだいと幼かるべきほどに、いささかいはけたるところなく、いへばおろかにめでたくおはします。

『栄花物語』巻第六

■いはけなし 稚けなし。子供っぽい。

この時、内裏は火事で焼けていたので、天皇は里内裏の一条院におられました。一条院は東三条院詮子(道長の姉・一条天皇母)が天皇に献上した屋敷です(現・上京区大宮通中立売上ル糸屋町)。

一条院内裏跡
一条院内裏跡

一条院内裏跡(名和長年の碑)
一条院内裏跡(名和長年の碑)

彰子もその一条院に入内しました。ために彰子は後に一条女院とよばれ、一条天皇という諡(おくりな)も一条院という里内裏の名から来ています。

入内から一週間目に彰子は女御となり、それを祝って父道長以下大臣公卿集まって、盛大な宴がもよおされました。

道長は宴の席で、藤原宣孝(のぶたか。後に紫式部と結婚)に命じて藤原実資に酌をさせましたが、実資はふだんから道長に反感をもっており、酌をされても不満げでした。宴会の後、道長は

「お待ちください実資殿」

「あ?何か」

「せっかくのめでたい席です。この際、平素の遺恨は忘れましょう」

「なにも私は遺恨など…」

「まあ、そうおっしゃらず」

道長はそう言って彰子の局の御簾を上げて、その衣装を実資に見せました。見事なもんでしょう。父親として嬉しい限りです。…そうですか。

こうまで無邪気に喜んでいる姿を見ては、道長を嫌っている実資とても何も言えませんでした。どうも道長には、政敵すら和らげてしまう愛嬌があったようです。

その後も道長は何かにつけて実資に気を遣ったため、さしもの実資も道長への反感を解いていったようです。

中宮定子、敦康親王を出産

彰子が女御となった同じ日、平生昌(たいらの なりまさ)邸にいた定子(ていし)が皇子を出産しました。一条天皇第一皇子・敦康(あつやす)親王です。

「ついに生まれたか…」

道長の胸の内は複雑でした。

敦康親王
敦康親王

すでに定子の父・道隆は故人であり、後ろ盾がまったくありません。ゆえにこの敦康親王が将来天皇となる可能性はかなり低いです。

だから道長が外戚になる野望をはばむ要素にはなりえないのですが…万一ということがあります。道長は警戒しました。

が、警戒する一方で、道長は定子が第一皇子を産んだことを大いに喜びもしました。

定子は藤原氏のうちでも九条流。しかも道長の父兼家から出ています。

一方、道長の娘・彰子は女御となったといってもまだ12歳。現実に子を産める年ではなく、まだ数年はかかります。

ならば今定子から第一皇子が生まれたことは悪くない。道長はそう考えたようです。

またそういう計算とは別に、道長は単純に子供好きだったようです。

道長が一条院内裏にて敦康親王を抱いて可愛がった。それを見た定子の兄・伊周(これちか)が涙を流したと『栄花物語』にあります。

道長と中関白家は、関白の座をめぐって対立したというだけで、なにも道長と中関白家の人々が、いがみ合い憎しみあっていたわけではありません。両者は根はひとつであり、肉親の情というものもありました。

三女威子、誕生

長女彰子の入内により、外戚として一歩踏み出した藤原道長。

しかし、道長の弱みは病がちなことでした。彰子が入内した長保元年(999)も、たびたび病を患いました。ワシはいつ死ぬかわからん。だからこそ一刻も早く外戚としての地位を固めねば。そんな焦りもあって、彰子の入内を猛スピードで進めたかもしれません。

長保元年(999)暮れ、妻倫子に子が生まれます。三女の威子(いし)です。後に後一条天皇中宮となり、父道長をして「この世をば…」の歌を詠ませるきっかけとなります。

一帝ニ后

長保2年(1000)2月25日、彰子は立后し、正式に一条天皇の中宮となります。ところが彰子の立后には一つ問題がありました。すでに一条天皇には中宮として定子がいるのです。

「どうしたものか…」

道長は頭をかかえました。そこに天の一声がかかかります。それはいつも道長のために働いてくれている、藤原行成の言葉でした。

「中宮定子はすでにご出家しておられます。天皇の強いご要望で中宮にとどまっておられるだけです。ご出家の身であれば神事に奉仕することは出来なかろうと思われます」

だから問題ないのだと。おお!なるほどよく言ってくれた。行成の言葉によって大義名分を得た道長は強引なやり方に出ます。

定子は中宮を格上げして皇后とする。そして彰子を中宮とする。道長はさかんに一条天皇に働きかけ、このやり方を容れさせてしまいます。

一帝二后
一帝二后

本来、中宮と皇后は同じ意味です。どちらも天皇の后ということで、同じです。しかし上皇の后と天皇の后を区別するため、便宜上、皇后と中宮という言葉が作られたに過ぎません。

なので、一人の天皇に対して中宮と皇后が同時に存在するなど、本来ありえない話なわけです。そのありえないことを、道長は強引に押し通しました。

長保2年(1000)2月25日、一条天皇の里内裏である一条院内裏の南殿で、彰子の立后式が厳かに行われました。儀式の後は管弦の音が鳴り響く中、春の夜を徹して明け方まで宴が続きました。

こうして一代の天皇に二人の后が並立する、「一帝ニ后」という異常な事態となりました。

長保2年(1000)4月7日、彰子は一条天皇の一条院内裏に初参内します。時に彰子13歳、一条天皇15歳、藤原道長35歳でした。

次回「皇后定子の最期」に続きます。お楽しみに。

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