皇后定子の最期
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本日は藤原道長の生涯の第九回「皇后定子(ていし)の最期」です。清少納言がお仕えしたことで有名な藤原定子(ふじわらの ていし)。その最期は侘しいものでした。
病状悪化
長保2年(1000)2月25日、藤原道長の長女・彰子が一条天皇の中宮となりました。それまで中宮だった定子は皇后となりました。こうして一人の天皇に二人の后が並立する、「一帝ニ后」の異常事態となりました。
一帝ニ后
彰子立后よりより8日後、京都では賀茂祭が行われました。道長は妻倫子(りんし)とともに牛車を立てて見物しました。
賀茂祭(現 葵祭)
「今年の賀茂祭は、格別じゃのう…ごほっ」
「あなた、いかがなされました?」
「少し疲れが出ているようだ。なにしろ彰子の立后に向けて、働きづめであったからのう」
賀茂祭の後、道長の体調は悪化しました。藤原行成(ゆきなり)が土御門邸(つちみかどてい)に見舞うと、
土御門邸跡(現 京都御苑内)
「田鶴(たづ)のことを頼む…」
嫡男の頼通(よりみち)の幼名・田鶴丸(たづまる)を出して、道長は行成に頼むのでした。道長は死を覚悟し、すっかり消沈していました。しまいには一条天皇に辞表を提出します。
「そんな弱気を、おっしゃいますな」
行成は道長が病気の間、何度も土御門邸と一条院内裏の間を往復し、道長と一条天皇の意思疎通の役を果たしました。
一条院内裏跡
しかし5月に入っても道長の病は癒えません。そんな中、5月9日に、土御門邸から呪詛…呪いに使う厭物(えんもつ)が見つかります。
「ああ、これであったのか」
行成は理解しました。道長の病は誰かが呪詛しているせいだと。すぐに行成は道長にこれを伝えます。
「さもありなん。失脚した甥の伊周(これちか)あたりがワシを恨んでいるのであろう…長く権力にしがみつくとロクなことにならん。この上は何としても辞職すべし」
道長はさらに続けて一条天皇に辞表を提出し、三度目でようやく許されました。それでも道長の病は癒えませんでした。
ある日、行成が土御門邸で道長に面通りすると、道長はカッと目を見開き、声を荒げて言いました。
「藤原伊周をもとの官位に戻せ。そうすれば病は癒えるであろう」
行成はすぐに一条院内裏に飛び、一条天皇に事の次第を告げると、一条天皇は、
「そんな道理に反したことはできぬ」
そこで行成がふたたび土御門邸に飛び、天皇のお言葉を道長に伝えると、道長は「目を怒らせ、口を張」ったと。まったく正気の沙汰ではありませんでした。
怨霊の恐怖
この時代の権力者が何よりも恐れたのが怨霊です。桓武天皇が生涯、弟早良親王の怨霊に悩まされたように、藤原時平が菅原道真の怨霊に取り殺されたように、中世の人々にとって、怨霊はさしせまった現実の問題であり、なにより恐ろしいことでした。
道長は甥の伊周(これちか)が失脚したこと、それは自分のせいではないけれど、結果として中関白家(なかのかんぱくけ)を追い落として権力の座についたことに強い引け目を感じていたようです。それが怨霊の恐怖となってあらわれたのでしょうか。
「さしも権力を極めた左大臣殿も、怨霊に対してはどうにもならぬのか…」
行成はつくづく感慨を深くしました。左大臣殿はもう長くない…そう思いながらも、たびたび土御門邸と一条院内裏を行き来して、道長と一条天皇の間の意思疎通をはかりました。
ところが、二ヶ月後、行成が土御門邸に行ってみると、晴れ晴れした顔で道長が行成を迎えました。
「よくご無事で…」
「心配をかけたな行成、これからもよろしく頼む」
道長の病はすっかり良くなっていました。間もなく道長は辞職した左大臣に復帰しました。
「その後の左府殿は、病にかかり出家を考えられる前よりも、いっそう人間が大きくなられた」
とは、藤原行成の弁です。
皇后定子の最期
藤原定子(976-1000)一条天皇の中宮。後に皇后。関白藤原道隆の娘。正暦元年(990)、15歳で一条天皇の後宮に入内。同年、中宮となりました。
清少納言らを擁した華やかな文芸サロンを形成するも、父道隆が亡くなり、兄伊周・隆家が失脚すると定子は後見を失います。そんな中にも定子は長保元年(999)一条天皇第一皇子・敦康(あつやす)親王を出産。
翌長保2年、藤原道長の強引な後押しにより道長の長女・彰子が中宮になると、定子は皇后とされ、一人の天皇に二人の后が並立する「一帝ニ后」の異常事態となります。
一帝ニ后
そしてと道長政権下で定子の居場所はもはやありませんでした。賑やかだった定子のサロンも、日に日に寂れ、定子自身も衰弱していきました。
主君・定子がやつれ衰えていくさまを清少納言はどのような思いで見ていたか…その間の事情について『枕草子』は一切語りません。
長保2年(1000)12月15日夜、平生昌(たいらのなりまさ)邸にて。
「姫宮さまご誕生ーーーッ」
おお、ようやく。やりましたなあ。
兄伊周はじめ、見守る人々は一安心して、皇女・媄子(びし)内親王の誕生を祝いました。護持僧たちはしきりに読経し、皇后定子の産後の安全を祈願しました。しかし、皇后定子の褥があまりに静かでした。不自然でした。
「定子…ああっ」
伊周が燈火で照らすと、すでに定子は冷たくなっていました。
長保2年(1000)12月15日、藤原定子、崩御。享年25。
「定子、定子…!」
兄伊周、隆家は声も惜しまず泣き叫びました。
すぐに一条院内裏に使いが飛び、一条天皇に事の次第が告げられます。
「なんと、定子が…ああ…」
一条天皇はたいそうお嘆きになりました。残された定子の子ら…姫宮脩子(しゅうし)内親王(4歳)、若宮敦康(あつやす)親王(2歳)、そして今回生まれた媄子(びし)内親王のことを慮り、限りなくお心を痛められました。
定子の子ら
定子の遺骸は鳥辺野(とりべの)で荼毘に付され、埋葬されました。泉涌寺(せんにゅうじ)裏手にある、鳥辺野陵(とりべののみささぎ)が、それです。
鳥辺野陵
鳥辺野陵
清少納言は晩年、定子の陵の近くに住み、菩提を弔ったといいます。
定子の没後、定子の子らは宮中で大切に育てられます。道長はことに第一皇子の敦康親王の成長を見守り、何かにつけて世話をしました。
今宮御霊会の始まり
道長が病に苦しみ、皇后定子が亡くなったその年、世間では疫病が流行しました。長保2年(1000)末、九州に上陸した疫病は、東に進み、平安京にも至り、年改まって長保3年(1001)となっても勢いがやみませんでした。
平安京は死体で溢れました。朝廷ではさまざまに加持祈祷を行わせ、神社に奉幣をたてまつりましたが、効果はありませんでした。
どうしたらいいのか。こうなったら御霊会(ごりょうえ)を執り行いましょう。御霊会とは悪霊を祓うための祭です。京都紫野の今宮社(いまみやしゃ)で御霊会が行われました。
これが今宮御霊会のはじまりです。
今宮神社
今宮社は江戸時代に入り、五代将軍綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)によって今宮神社として整えられます。今宮神社の御霊会は、今宮祭(いまみやまつり)として今も毎年5月に行われています。
洪水の被害
長保3年(1001)打ち続く秋雨により、鴨川が氾濫し水が洛中に流れ込みます。鴨川近くの家々はことごとく被害にあいました。藤原道長の土御門邸は鴨川のすぐ西にあるため、庭と池の区別がつかないくらいに被災しました。
沓を脱いだり袴を括って、人に背負われて避難するという有様でした。
「疫病に洪水…まさに末法の世となったか」
人々はいやが上にも考えさせられたことでしょう。
次回「政務と信仰」に続きます。お楽しみに。
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12/22 京都講演
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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。