藤原道長の生涯(六)内覧の宣旨

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本日は藤原道長の生涯の第六回「内覧の宣旨」です。準関白…ともいえる地位である内覧の地位に、道長が就任するまでを語ります。

兼家薨去

正暦2年(990)5月はじめ、関白藤原兼家(道長の父)は病にかかり、出家します。二条京極の屋敷を寺にあらため法興院とします。

法興院跡(現 法雲寺)
法興院跡(現 法雲寺)

出家の3日後、兼家は関白の位を辞し、2か月後の正暦2年(990)7月2日、亡くなりました。享年62。亡くなった場所は『大鏡』では法興院、『栄花物語』では東三条院とされています。

法興院跡(現 法雲寺)
法興院跡(現 法雲寺)

兼家の遺体は鳥部野で荼毘に付され、木幡山に埋葬されました。

道隆と中関白家の人々

兼家が亡くなると、長男で内大臣の道隆が、父の跡をついで関白および藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)となりました。この時道隆38歳、道長25歳。

藤原道隆
藤原道隆

父兼家の跡をついだ藤原道隆は、豪快な人物で、しかも大酒飲みでした。道隆の酒飲みっぷりはさまざまに伝わっています。

賀茂祭の時、仲間と酔いつぶれて牛車の中でゴロ寝していた。人がすだれを上げて見ると、冠もかなぐり捨てて、衣装もぐしゃぐしゃで、ひどい有様であったと。

ふつうならただのヨッパライで済まされるところですが、「一の人」ともよばれる天下の摂政さまが、しかも冠を脱いで、というのは当時の役人にとっては人前で素っ裸になったと同じです。大変なことでした。

死の間際、念仏をすすめられると、「あの世には飲み仲間の某も某もいるのだろうな」とつぶやいたとも伝わります。貴族風の優雅とか洗練とかとは、ずいぶんかけ離れた人物といえます。

道隆の家(中関白家)は大いに栄えました。道隆は大和守高階成忠の娘・貴子を妻として、長男伊周(これちか)、次男隆家、長女定子をもうけました。

藤原道隆
藤原道隆

妻の高階貴子は宮中で内侍(ないしのすけ)という女官を務め、「高階」出身の「内侍」であることから、「高内侍(こうのないし)」と呼ばれます。小倉百人一首の54番に歌を採られています。

忘れじのゆく末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな

(私のことを「忘れない」といった、あなたのその言葉が後まで頼りになるかおぼつかないですので、今日を最期の命でありたい)

道隆と貴子からは長男伊周、次男隆家、長女定子が生まれます。伊周は19歳で権大納言、21歳で内大臣にすすみ、道長の出世を抜きました。ひとえに親の七光といえます。しかし後に不幸な事件で失脚することになります。

長女・定子は道隆が政権を取った正暦2年(990)、一条天皇の中宮(後に皇后)となりました。

この時一条天皇11歳、定子15歳です。定子の立后にさいし、藤原道長は中宮大夫に任じられました。中宮の身の回りの世話をする役職です。これは兄道隆の指名によるものでしたが、道長はこの役目を「おもしろくない」と言って、定子のもとには近寄らなかったといいます。

次男 道兼

兼家次男・道兼は、寛和の変でハッタリを演じ、まんまと花山天皇を出家に追い込んだ人物です。そのおかげで一条天皇即位、兼家の摂政就任という流れになりました。

藤原道兼
藤原道兼

「すべて私の働きだ。さぞかし父は私を取り立ててくれるだろう」

道兼はそんなふうに期待していましたが、予想に反して、父兼家は年齢順に、兄道隆のほうを先に出世させました。

「なんだこれは!私がやった大芝居はなんだったんだ!
父はわかってない!」

道兼は不満タラタラでした。それで、父兼家が亡くなった時も悲しむ様子も見せず、ふざけていました。寛和の変のハッタリ芝居といい、その後の態度といい、わりと行儀のよくない人物です。

道隆薨去

長徳元年(995)2月ごろから関白藤原道隆は病にかかります。酒の飲み過ぎが祟ったようです。水をたくさん飲んだとありますので、糖尿病と思われます。

「これ以上、帝のお役に立てそうもない…」

そう考えた道隆は、関白職を長男の伊周に譲ろうとしました。

「なにを申すか道隆。おまえ以外に関白など考えられない」

一条天皇は許しませんでした。伊周の軽薄な人柄を警戒してもいたようです。しかし実際病が重く、道隆は働けないので、翌3月、天皇より道隆長男・伊周に道隆の病中に限ってという条件で内覧の宣旨が下ります。

藤原伊周
藤原伊周

内覧とは天皇への奏上や天皇からの命令文書をすべて事前に読む係です。実質関白と同じですが、正式な関白ではありませんでした。伊周の母方…高階氏は伊周が正式な関白に就任できるよう、さまざまに働きかけます。こういうしつこさが伊周が嫌われた所以でしょうか。

この間、末っ子の道長は一切口を出さず、状況を見守っていました。

長徳元年(995)4月10日、関白藤原道隆が薨去(亡くなること)しました。享年43。この時世間では疫病が流行っており。現役の公卿も一年のうちに8人亡くなりました。しかし、道隆の死は疫病とは関係なく、酒の飲み過ぎによる糖尿病と思われます。

とにかく道隆は亡くなりました。そしてこれが、中関白家にとっての没落の始まりでした。

「次に関白になるのは伊周さまか?道兼さまか?」

役人たちはすぐに言い始めました。

伊周と道兼。どっちにつくかによって自分の将来も決まって来ます。当の伊周・道兼も気が気でなくさまざまに占いをさせました。

藤原伊周・藤原道兼
藤原伊周・藤原道兼

伊周は先に内覧の宣旨を受けているのだから、当然自分が関白にされるはずだと思いました。道兼も今こそ寛和の変の時の働きが評価されるべきだという気持ちがあります。

4月27日。天皇より宣旨が下ります。

関白に選ばれたのは…

道兼でした。おそらく伊周陣営は売り込みが強引すぎ、そこを一条天皇に嫌われたのでしょう。すぐに道兼は関白に就任し、伊周は内覧の職を停止されます。

「いよいよ私の時代だ!」

大喜びする道兼はこの年35歳。しかし、体はすでに病に犯されていました。この年の春から疫病が流行し、道兼もやられていたのです。この時の病は赤斑瘡といい、今でいうはしかと思われます。

5月2日、道兼は病を押して参内し、関白就任のお礼を述べます。そして7日後の長徳元年(995)5月8日、亡くなりました。享年35。世にこれを称して七日関白といいます。

詮子、弟道長のために頑張る

こうして二人の兄、道隆・道兼が相次いで亡くなったことにより、急に末っ子の道長にチャンスがめぐってきました。

しかし道兼から道長への政権移譲はスムーズに進みませんでした。

そこには一人の女性の働きがありました。

道長の姉である詮子は円融天皇に嫁ぎ一条天皇を生んだ女性ですが、すでに出家して東三条院と号していました。この東三条院詮子は末の弟である道長をことに可愛がり目にかけていました。

東三条院詮子
東三条院詮子

東三条院跡(中京区 押小路通釜座上松屋町)
東三条院跡(中京区 押小路通釜座上松屋町)

なので詮子の甥にあたる伊周は詮子と距離を置きました。その上、伊周は妹の定子か一条天皇中宮となっている関係から一条天皇のおそばに侍ることも多かったわけですが、伊周はそのたびに、道長や詮子の悪口を一条天皇にふきこみました。

それで一条天皇も感化されて、道長や詮子を避けるようになりました。そこで詮子はわが子一条天皇に、強く働きかけます。

「道隆や道兼には関白の宣旨を下したのに、道長に下さないというのは、帝のために不都合なことですよ」

「母上はそうおっしゃいますが…」

一条天皇はますます鬱陶しく思い、母・詮子を遠ざけるようになりました。詮子は、もうグズグズしていられないと、清涼殿の夜御殿(よんのおとど。天皇の御寝所)にまで出向いて、どうかどうか、道長を関白にしてたもれと、泣き落としにかかります。

現京都御所 清涼殿
現京都御所 清涼殿

「わかりました。母上がそこまでおっしゃるなら…」

ついに一条天皇は折れました。この時道長は隣の部屋で控えていましたが、そこへ姉詮子が顔を出し、

「宣旨が下りましたよ!」

と言ったその目には涙があふれ、口には笑みを浮かべていたといいます。以上は『大鏡』にある話ですが、もしこれが史実とすれば…姉!さまさまですね。道長のその後の大躍進も、姉・詮子のはたらきあったればこそと言えます。

詮子が道長を推したのは、『大鏡』にあるように贔屓、というだけでないでしょう。中関白家とその外戚である高階家が出張ってくることを警戒したためと思われます。

長徳元年(995)5月11日、道長は内覧の宣旨を下されます。道兼が死んで三日後のことでした。

次回「中関白家の没落」お楽しみに。

静岡講演

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第二回。長篠の合戦、武田家の滅亡、本能寺の変を経て、小牧・長久手の合戦までお話します。地図や系図を用いてわかりやすく語りますので、「まったく知識がない」という方でも大丈夫です。

12/22 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」

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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。

解説:左大臣光永