藤原道長の生涯(七)中関白家の没落

こんにちは。左大臣光永です。11月も終盤。どんな一ヶ月間だったでしょうか?

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本日は藤原道長の生涯の第七回「中関白家の没落」です。道長のライバル・中関白家没落のきっかけとなった「長徳の変」を中心に語ります。

▼過去配信分はこちら▼

藤原道長の生涯(四)花山天皇のご出家・寛和の変
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藤原道長の生涯(五)道長、登場
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藤原道長の生涯(六)内覧の宣旨
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内覧となる

長徳元年(995)5月11日、藤原道長は内覧(ないらん)の宣旨を受けます。

内覧とは天皇への奏上や天皇からの命令文書をすべて事前に読む係です。実質関白と同じですが、正式な関白ではありません。

道長はその後も関白にはならず、左大臣になっても、一条天皇・三条天皇の時代を通して、内覧であり続けました。それは道長には深い考えがあってのことでした。

内覧の宣旨が下った一ヶ月後には、右大臣および藤原氏の氏の長者に就任します。国政のトップに、そして藤原氏のトップに躍り出た形です。

「ええい、何でも道長の叔父貴のやりたい放題。いやじゃのう」

道長と中関白家
道長と中関白家

中関白家の伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟は道長を呪いました。道長の兄道兼のようにさっさと死ぬよう呪詛したともいいます。道長は恨みを買っていることは承知しながら、注意深く中関白家との対立を避けていました。

長徳の変

翌長徳2年(996)正月、とんでもない事件が起こります。中関白家の没落を決定づけた「長徳の変」です。

藤原伊周は法住寺大臣為光の三女のもとに通っていました。同じ屋敷に四女も住んでいました。その四女のもとには花山法皇が通っていました。この年伊周23歳、花山法皇29歳です。

伊周は考えました。

「法皇が通っているのはまさか四の君ではあるまい。私の愛する三の君のもとに通っているのだ。ああどうしたものか」

そこで伊周は弟の隆家に相談します。

どうしたもんだろう隆家。
そんなの、私にまかせてください。何もかもうまくいきますよ。

隆家は二三人の部下を連れて、花山法皇が夜中おしのびで女のもとに通っていくところへ、ひょうと矢を放つと、

「ひいいッ!」

矢は花山法皇の袖を射抜きました。

「ああっ、やってしまった!」
「バカッ!脅すだけという話であったのに」
「やってしまったものは仕方ないです。兄上、逃げましょう」

こうして伊周、隆家の兄弟は逃げ帰ります。花山法皇もあまりのことにしょげかえって、そのまま御所に戻りました。

普通ならすぐに逮捕させるところだが、今回のことは身の不徳から出たことでもあり、恥だ。世間に知られたく無いということで法皇は黙っていました。

しかしどうしたわけか世間の知るところとなり、伊周、隆家に処分が下ります。

中関白家の没落

長徳2年(996)4月24日、伊周、隆家に処分が下ります。

「太上天皇(花山法皇)を殺し奉ろうとした罪が一つ、帝(一条天皇)の御母(東三条院詮子)を呪詛し奉った罪が一つ、宮中でのみ許される大元師法(だいげんのほう)を私に行った罪が一つ。これらの罪により、伊周を大宰権帥(だざいのごんのち)、隆家を出雲権守(いずものごんのかみ)として配流する」

また伊周・隆家兄弟の母方の叔父たちも配流と決まりました。

「あああ…どうしてこんなことに!」

伊周・隆家兄弟は配流先が決まってもすぐには応じずしばらく屋敷に引きこもっていました。伊周は夜中に屋敷を抜け出し、木幡にある父道隆の墓を訪ねると、月は明るいがあたりは鬱蒼として暗い中。茂みをかき分け、木の間にもれる月の明かりをたよりに歩いていき、父の墓前に参って、あれこれ訴え、さめざめと泣きました。

また妹である中宮定子のもとに入り浸ったりもしました。

「頼むよ定子。私は大宰府なんていやだ。お前から帝にとなりしてくれよ」

そんなふうに泣きついてでもいたでしょうか。ちなみにこの時定子は一条天皇の御子をみごもっていました。しかしいかな定子とて、今回の一件はどうにもならず、悲しみのあまり自ら御鋏を取って尼姿になられました。

長徳2年(996)12月に伊周は大宰府に入りました。ところが。翌長徳3年(997)3月、東三条院詮子(一条天皇母・道長姉)の病気平癒のために恩赦が行われ、都に帰ってくることを許されました。

伊周・隆家兄弟がわずか3ヶ月で罪赦された裏には、藤原道長の働きがあったようです。政敵である伊周・隆家兄弟を助けるために、道長が動いたというのです。

「さすがじゃのう。敵がいったん敗れるや、それを許すために動かれるとは」

「器が違うわい」

世間はそんなこと言い合ったりしたでしょうか。

道長にとって中関白家は長年争ってきたライバルではありました。しかし中関白家が完全にその政治力を失いつつある今、死人に鞭打つようなマネは道長の好むところではなかったようです。

道長、左大臣となる

長徳2年(996)7月、右大臣道長は昇進して左大臣となります。伊周・隆家兄弟が失脚した3ヶ月後でした。焦らず、地道に、敵の失脚を見守り、状況を見てきた、その成果でした。いよいよ名実ともに、道長はトップに躍り出たのです。

しかし、前途洋々というわけではありませんでした。第一の不安は、健康面です。道長は生涯病がちでした。

病を患う

長徳4年(998)春。33歳の道長は大病を患います。知らせを受けて、夜中に、蔵人頭藤原行成が道長邸に車で向かうと、アイタタタ…わしはもうダメだ。ダメですか。これは物の怪のしわざじゃ。物の怪。そう物の怪じゃ。だから!ワシは出家する。ご出家。そうじゃ出家する。帝に奏上してくれ。すぐに!

行成が夜中の2時に清涼殿・夜御殿(よんのおとど。天皇の御寝所)に参上し、一条天皇に事の次第を奏上すると、

「道長は朕の身内であり、天下の重臣である。道長が辞めては国政が立ち行かぬ。病は邪気のせいだから、御仏に深く帰依すれば治る。出家まですることはなかろう」

そういうお言葉が下り、結局出家は許されませんでした。しかし道長の出家に対する思いは強く、その後もたびたび出家をほのめかしたようです。道長は生涯病がちだったため、死ということについて、思うところが多かったようです。

一条天皇の後宮

年明けて長徳五年(999)はすぐに改元あって長保元年となります。飢饉や干ばつが続いたための改元でした。

年明けて早々、道長は長女彰子を一条天皇の後宮に入内させるために動き出します。藤原北家九条流と天皇家の結びつきを強め、藤原北家九条流の権力地盤を強くする。そのための彰子入内です。

しかし一条天皇の後宮にはすでに中宮定子(ていし)はじめ、義子(ぎし)、元子(げんし)、尊子(そんし)という女性たちが入っていました。このうち定子の父道隆と、尊子の父道兼はすでに故人となっていましたが、義子・元子の父は現役の大臣でした。油断はできませんでした。

その上、定子は身ごもっていました。父道隆の後ろ盾がなくなったとはいえ、男子が生まれたら道長にとって面倒なことになります。

そんな時、出産をひかえた定子が、前但馬守・平生昌(なりまさ)邸に遷ります。出産の準備のためにです。すると道長は一族引き連れて宇治の別業(別荘)に移ってしまいました。

国政のトップたる道長が宇治に移ったわけですから、大臣公卿はじめ役人たちも多くが道長に従います。

これにより定子の平生昌邸への行啓は大臣公卿のいない、まことに情けない状態で行われました。これは道長による定子陣営への嫌がらせであったと言われています。

彰子入内の準備

長保元年(999)2月3日、彰子の裳着(もぎ)が土御門邸で行われました。裳着とは女性における成人式です。三日間にわたって祝宴が行われ、2月11日、彰子は従三位に叙せられます。時に彰子12歳。あからさまに入内に向けての準備でした。

次回「一帝ニ后」に続きます。お楽しみに。

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12/22 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」

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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。
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解説:左大臣光永