藤原道長の生涯(四)花山天皇のご出家・寛和の変

こんにちは。左大臣光永です。

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本日は藤原道長の生涯の第四回「花山天皇のご出家・寛和の変」です。

藤原氏のダマシによって、花山天皇が退位させられるという話です。

花山天皇はその治世はわずか2年ながら、文化を愛好し、役人の不正を正し、よい政治を行いました。

花山天皇
花山天皇

関白には先帝・円融天皇の時代に引き続き、藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が就任しました。

花山天皇は即位当初、意欲的に政治にとり組まれました。側近の藤原義懐(ふじわらのよしかね)と藤原惟成(ふじわらのこれなり)に命じて貨幣(銭貨)を鋳造させたり、新しく荘園を作ることを禁じたりしました。

その一方、父冷泉天皇の狂気を受け継がれたところもあったのでしょうか…あやしい話も伝わっています。

即位式の時、冠が重いといって投げ捨てたり、清涼殿の壺庭で馬を乗り回したり、即位式の直前、高御座(たかみくら・天皇の御座)に女官を引っ張り込んで犯したとか。

「冷泉天皇の狂気は人目にハッキリわかるが花山天皇のそれはわかりにくい。そこが逆にやっかいだ」と言われました。

さて花山天皇の後宮には関白藤原頼忠以下、何人かの公卿が娘を入れていました。しかしいずれも出産するには至っていませんでした。

その中に天皇の寵愛篤かったのが、藤原為光の娘・忯子(しし)でした。忯子(しし)は後宮の七殿五舎のうちの一つ・弘徽殿(こきでん)に住んだため、「弘徽殿の女御」と呼ばれます。

弘徽殿
弘徽殿

「ああ…忯子…お前だけだ」

花山天皇は忯子にべったりでした。やがてご懐妊となります。平安時代の女性は懐妊すると実家にもどって出産しました。忯子も実家に帰って出産準備をしました。しかしその経過はかんばしくありませんでした。

忯子はしだいにやせ衰え、ついに妊娠8か月で亡くなってしまいます。寛和元年(985)7月18日のことでした。

「ああ…忯子…お前がいなくて、世はどうすればよいのだ」

花山天皇の落ち込みようは大変なもので、政治への意欲など、すっかり無くなってしまいました。ついには、周囲に出家をほのめかすようになりました。

「なに?帝が出家を望んでおられる?」

ぴくりと眉を動かしたのが、藤原兼家です。

花山天皇の皇太子は藤原兼家の娘詮子(せんし)と円融天皇との間に生まれた懐仁(かねひと)親王です。

藤原兼家としては、さっさと花山天皇に退位してもらって孫の懐仁親王が即位すれば、天皇の外戚となれるわけで、こんなにトクなことはありません。

「出家をお望みとは願ったりかなったり。
心変わりをされない内に、手をうっておこう」

そこで兼家は、息子たちに、ある策を授けます。

寛和二年(986年)6月23日、夜。

花山天皇は清涼殿の縁側で月をながめておられました。

現京都御所 清涼殿
現京都御所 清涼殿

「ああ…去年は忯子とこの月を見ていたのに。
忯子はもういない。人の世のむなしさよ。
やはり出家してしまおうか」

おそばに仕えていた藤原道兼が花山天皇に申し上げます。

「それはよいお考えです。
この際出家して仏道に帰依なさることこそ、
亡き女御さまの菩提を弔うためによいことです。
帝が御出家なさいましたら、道兼もお供いたしましょう」

「おお…道兼。お前も出家してくれるというのか」

「朝廷では臣下としてお仕えし、御出家後もお供申し上げる…
これも前世からの宿縁でございましょう」

しかし、いざ出家となると花山天皇は心配になってきました。

「こんな月の明るい晩に出家をするのは、
見つかってしまいそうだ」

「帝、今更引き返すわけにはまいりません。
すでに神璽と宝剣も、東宮のほうに移っております」

「そうじゃな。急ごう」

そこで道兼が先導して花山天皇は進んでいかれますが、

「ちょっと待て」
「まだ何か?」
「なくなった忯子と交わした文があるのじゃ。
破ることもできずに取っておいたものじゃ。
あれを置いていくわけにはいかぬ」

道兼はジリジリあせってきました。

「帝。早くしないと邪魔が入ります。そのような
俗世への未練はキッパリ断ち切って、さあ、参りましょう」

「う…うむ、そうじゃな」

こうして、花山天皇と藤原道兼は内裏北側の朔平門(さくへいもん)から外へ出ます。

現京都御所 朔平門
現京都御所  朔平門

そこで牛車に乗って土御門大路を東へ向かい、山科の元慶寺(がんけいじ)を目指しました。

寛和2年(986)6月23日午前2時でした。

その頃、陰陽師安倍晴明は、館で式神に指示を与えていました。

現 晴明神社
現 晴明神社

「今夜、帝がご退位なさるとの天の知らせがあった。
我が式神よ、内裏に行って、見てまいれ」

「晴明さま、おまかせください」

目に見えない式神がすうーと門を開けて、安倍晴明の館を出たところ、ちょうど花山天皇の乗った牛車が通り過ぎたところでした。

「あちゃ~っ、間に合わなかったか」

安倍晴明の式神は、そのままもどって晴明に事の次第を報告しました(『大鏡』より)。

一行が鴨川にさしかかると、松明を持った武士団があらわれ、天皇の乗った輿の前後を警護します。

「道兼よ、なんじゃあの者たちは」
「ははっ、源満仲率いる武士団でございます。
帝のことを警護させております」

「うむ…?そうか」

後で考えると、急に出家を思いついたのに、そこに武士団が警護にあらわれるというのは、変な話でした。すべて兼家があらかじめ手配していたのでした。

一行は山科の元慶寺に入ります。

元慶寺
元慶寺

持仏堂に入る花山天皇と藤原道兼。

まず花山天皇から髪をおろされます。19歳でのご出家でした。

元慶寺
元慶寺

「ああ…これでいよいよ仏弟子となれるのか。
心が洗われるようじゃ」

次に藤原道兼の番となると、道兼は言いました。

「父に挨拶もしないでは親不孝となります。
まずは父に挨拶をしてきます」

「そんなこと言って、騙すのではないか」

「めっそうもございません。すぐに戻ります

こうして道兼は元慶寺を去り、二度と戻りませんでした。

この時、警護の武士たちは道兼が強引に出家させられそうになったら助けよと兼家から命じられていました。それで刀に手をかけていたといいます。

その頃宮中では、藤原兼家が長男の道隆、次男の道綱に命じていました。

「今のうちに、神器をおさえるのだ」

「ははっ」「ははーっ」

道隆、道綱は清涼殿にあった皇位継承の証たる神璽と宝剣を懐仁(かねひと)親王のいる凝花舎(ぎょうかしゃ)に遷し、御所のすべての門を閉じました。

寛和の変 清涼殿→凝花舎
寛和の変 清涼殿→凝花舎

末っ子の道長は、やはり父兼家の命令で関白頼忠のもとに赴き、「大事出来」と報告していました。

一方、花山天皇の側近藤原義懐・藤原惟成は花山天皇を必死に探し回っていました。

「帝、帝どこにおられるのです」

そして、たどりたどって山科の元慶寺に到ったとき、二人はそこに見たのです。御髪(みぐし)を下ろされた、花山天皇のお姿を。

「なんと!帝…」
「お前たちか。すっかり騙されてしまったようだ。
馬鹿な帝王と笑ってくれ」
「そんな、帝。この上は、私たちも出家いたします」

こうして花山天皇側近の藤原義懐・藤原惟成は責任を取る意味からも花山天皇とともに出家しました。

かくして7歳の懐仁親王(かねひと)親王が一条天皇として即位します。また冷泉上皇と兼家の娘超子との間に生まれた居貞(いやさだ)親王が皇太子に立てられました。後の三条天皇です。

一条天皇
一条天皇

兼家は天皇の外戚として摂政に就任。それまで関白だった藤原頼忠は引退しました。

「よし。すべてうまくいった!」

天皇の外戚となって権力を握る。それが兼家の長年の願いでした。いまこそ、その願いが実現したのでした。

さて花山法皇はご出家の後、紀伊国熊野を基点として三十三所の観音霊場を巡礼され大きな法力を身につけられたと伝えられます。また花山天皇は風流を愛好し、邸宅や調度品に工夫をこらし周囲を驚かせました。和歌の名手でもありました。

花山法皇の三十三所巡礼のコースは「西国三十三所」として今に伝わっています。

花山法皇は退位後22年、寛弘5年(1008)に崩御なさいました。享年41。墓は京都市北区衣笠北高橋町。紙屋川のほとりにあります(紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ))。

花山天皇陵(紙屋川上陵)
花山天皇陵(紙屋川上陵)

次回「道長、登場」に続きます。お楽しみに。

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聴いて・わかる。日本の歴史~平安京と藤原氏の繁栄
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桓武天皇による平安京遷都から摂関政治の全盛期を経て白河上皇の院政が始まる直前までを語った「平安京と藤原氏の繁栄」、白河上皇の院政から平家一門全盛期を経て、後白河法皇の院政期が終わり、政治の中枢が京都から鎌倉に移るまでを語った「院政と武士の時代」。

約400年間にわたる平安時代の歴史の流れを、上下ニ巻に分けて語ったcd-romです。詳しくはリンク先まで
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12/22 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」

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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。

解説:左大臣光永