日露戦争(六)奉天会戦

こんにちは。左大臣光永です。

最近、昼メシはいつも少し足をのばして堀河通り商店街で食べています。一見、さびれた商店街に見えて、飲食店が多いです。安倍晴明をまつる晴明神社が近いのでついでに参拝していきます。晴明神社は若い娘さんが多くて華やかです。やはり安倍晴明人気ですね。私などが入るのはしのびないほど、晴明神社の境内は若やいでいます。

「日露戦争」について連続して語っています。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_Nichiro6.mp3

前回は、二百三高地の戦いと旅順要塞の陥落、水師営の会見について語りました。

本日は第六回「奉天会戦」です。

バルチック艦隊、さらに東へ

ロジェストウェンスキー率いる第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)は、1904年12月、マダガスカル島で旅順陥落の知らせを受けます。しかしニコライ二世は戦争継続を諦めませんでした。1905年4月はじめ、第二太平洋艦隊はマラッカ海峡に入ります。

バルチック艦隊 航路

4月末、フランス領インドシナ(ベトナム)カムラン湾北方の港にて、戦艦「ニコライ1世」をはじめとする第三艦隊が合流します。

しかし日本がフランスに対して猛烈な抗議をしたため、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)はカムラン湾に長くとどまることはできませんでした。イギリスとの関係改善をめざすフランスはイギリスの同盟国である日本の抗議を無視できませんでした。

5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾を出発しました。目指すウラジヴォストークに至る航路としては対馬海峡、宗谷海峡、津軽海峡の3つの選択肢がありました。

第三艦隊司令官ネボガトフ少将は霧深い宗谷海峡を行くことを考えていたようですが、ロジェストウェンスキーは昨年8月の黄海海戦で東郷平八郎が旅順艦隊を逃したことにのっとり、対馬海峡を選びました。

艦隊は輸送船を含めて38隻。確実に日本側に気づかれる。戦闘になる。しかし戦闘になりつつも、艦隊の大部分はウラジヴォストークにたどりつけるだろうとロジェストウェンスキーは希望的観測を抱いていました。

一方日本側も、「バルチック艦隊は対馬海峡から来る」と予測していましたが、まだ確信までは持てずにいました。

黒溝台の会戦

満州南部では、ロシア軍が奉天を背に、日本軍が遼陽を背にして、にらみあっていました。時に気温は零下15度まで下がる中、住居もないので、穴を掘って中にこもり、薪を燃やして暖を取りました。

奉天(現 瀋陽)には西方から次々と物資と兵力が届き、25万人を超える規模になっていました。満州軍司令官クロポトキン以下、遼陽、旅順の雪辱をはらすべく、策を練っていました。

クロポトキンは増強された兵力を再編成し、左翼に第一軍、中央に第三軍、右翼に第二軍を配し、東西に広く長く布陣しました。

1905年1月24日、ロシア軍が渾河(こんが)を渡ります。25日夜、黒溝台がロシア軍によって占領されました。

しかしロシア軍は大勢力でありながら日本軍の兵力をはかりかね、過剰に警戒しました。次の目標である沈旦堡(ちんたんぽう)へはゆっくり進みました。

その間、日本軍は攻撃されていた左翼方面に、遼陽方面から第五軍、第三軍、第二師団が集結しつつありました。

ロシア軍総司令官クロポトキンは、グリッペンベルグ大将の指揮するロシア軍右翼第二軍に命じて、日本軍左翼黒溝台付近に攻撃をしかけました。

1月27日から28日まで、黒溝台で日露両軍は戦いました。ロシア軍は日本軍を圧倒するも、28日夜、クロポトキンは15分前に出した攻撃命令を突如ひるがえし、撤退を命じました。

ロシア軍は勝っていたのに、クロポトキンはなぜ撤退を命じたのか?

まったくの謎です。

クロポトキンは神経質で、判断に精彩さを欠きました。なにか悩むところがあったのかもしれません。

たまらないのは現場で指揮をとっていた第二軍司令官クリッペンベルグです。

「勝っていたのに!撤退とは何事だ!」

クリッペンベルグは病気と称して辞表を提出し、首都ペテルブルグに引き返してしまいました。

黒溝台周辺の戦いにおける死傷者は日本側9300人、ロシア側1万2000人と記録されます。

奉天会戦

奉天は南満州第一の都市です。1625年、清の太祖ヌルハチが明の都北京にならって都を建設し(当初は盛京)、北京に首都が移ってからも奉天は南満州の中心地として栄えました。

2月20日、満州軍総司令部は各軍司令官を集めて、次の会戦こそ日露戦争における関ヶ原であると訓令を与えました。

この時点で、日本軍は奉天南に東西に長く広がって布陣していました。最右翼から最左翼まで順に、鴨緑江軍、第一軍、第四軍、第二軍、第三軍、総勢25万人、砲992門、機関銃268挺からなりました。

奉天会戦

最右翼、川村景明(かわむら かげあき)大将率いる鴨緑江軍は旅順を戦い抜いた第十一師団を中心に再編された部隊。

最左翼、乃木希典率いる第三軍は旅順の戦いの後再編され、北上してきたもので、本作戦の要となります。

対するロシア軍は奉天前面に、最右翼から最左翼まで順に、第二軍9万1700人、第三軍6万700人、第一軍10万6500人、最右翼の背後に騎兵隊7000人、左翼の背後に歩兵隊8000人、奉天南の予備兵力とあわせて29万2300人、砲1386門、機関銃56挺という陣容でした。

日露の戦力を比較すると、ロシア側は兵力では日本側に勝っているものの、砲・機関銃の数では劣っていたことがわかります。

日本側の軍事行動は2月20日から始まりました。最右翼の鴨緑江軍が北へ動き、奉天東48キロの撫順(ぶじゅん)に向かいました。2月24日、鴨緑江軍は清河城(遼寧省 本渓市)を占領し、ロシア左翼の第一軍を東から牽制します。

中央では2月27日より、砲撃が開始されます。最左翼、乃木希典の第三軍は西へ大きく弧を描きながら旋回し、奉天北方、ロシア軍の背後に向かいます。

クロポトキンは日本軍右翼こそ攻撃の中心であると読み違えて東側に兵力を集中したので、左翼第三軍の旋回行動はスムーズに進みました。

3月3日、ロシア軍第二軍司令官カウリバルスは日本軍第三軍の戦線が横に長く伸びており攻撃する絶好の機会であったにも関わらず、撤退を命じてチャンスを逃しました。これによって第三軍はいっそうスムーズに北上し、ロシア軍の背後をつくことが可能となりました。

第三軍が北上する間、他の各方面軍も一進一退の戦いを続けました。

クロポトキンは日本軍第三軍によってロシア全軍が北方(長春方面)と分断されることを恐れました。

3月7日、クロポトキンは全軍を挙げて日本軍第三軍に当たるしかないと判断し、ロシア軍左翼第一軍と同中央第三軍を渾河の北側(奉天に近い方)に撤退させます。しかしクロポトキンの判断はおそすぎました。各方面の日本軍を活気づけただけに終わりました。

クロポトキンの指揮は終始、おどおどして精彩を欠きました。

3月8日、クロポトキンは全軍撤退を命じ、9日から10日にかけてロシア軍は北方へ撤退していきました。日本軍は弾薬不足と兵士たちの疲労から、追撃を断念しました。

奉天の会戦における日本側の死傷者7万人、ロシア側死傷者9万人と記録されます。

ニコライ二世は知らせを受けるとクロポトキンを解任し、後任にリネヴィッチ将軍を任命しました。

講和に向けて

奉天会戦の勝利後の3月31日、大本営はさらなる積極的な軍事行動を満州軍総司令部に要求してきました。その要求とは、ハルビンとウラジヴォストーク、カムチャッカ半島の三つを奪うという、勇ましいが現実ばなれしたものでした。

児玉源太郎は急遽、上京し、すみやかに講和を目指すべきと大本営を説得します。児玉の説得が功を奏したか、

4月8日の閣議では、事情の許す限り講和をめざすことが決議されました。

次回「日露戦争(七)日本海海戦」に続きます。

発売中

日本の歴史10 幕末の動乱
http://sirdaizine.com/CD/His10.html

嘉永6年(1853)ペリー来航から慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いまで

日本の歴史11 明治維新の光と陰
https://sirdaizine.com/CD/His11-01.html

慶応4年(1868)江戸城開城から、明治10年(1877)西南戦争まで

解説:左大臣光永

Warning: include(../AdsecneUnder.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_Nichiro6.html on line 185

Warning: include(../AdsecneUnder.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_Nichiro6.html on line 185

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../AdsecneUnder.inc' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_Nichiro6.html on line 185