日露戦争(ニ)開戦

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こんにちは。左大臣光永です。

夜型生活が一周して、朝型生活になりました。毎日5時とか6時に起きてます。朝もやの中に見える比叡山、如意ヶ岳。すばらしいです。

夜型がなおらないよ~!なんて声が多いですが、それは中途半端に夜型やってるからです。

テッテイして夜型を追求していけば、時間がずれていって、いずれ朝型になります。

なにごとも、中途半端はよくないです。極端こそ正義。極論こそ美徳。人生は、しつこく、粘着質に!あらためて実感しています。

前回から7回の予定で「日露戦争」について語っています。

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前回は、義和団事変後も満州に居座るロシアに対して日本は日英同盟を結んで対抗するが、ロシアとの交渉は決裂し、国交断絶に至った。伊藤博文は金子堅太郎をアメリカにつかわし、ルーズヴェルト大統領に講和調停の依頼をさせようとする、ところまで語りました。

本日は第二回「開戦」です。

攻撃開始

1904年(明治37)2月8日正午、日本艦隊は旅順港に接近し、旅順港外に停泊中のロシア太平洋艦隊に砲撃を開始しました。日清戦争の時と同じく、宣戦布告をまたない奇襲でした。

結果、ロシア太平洋艦隊は7隻の戦艦と4隻の巡洋艦のうち「レトヴィザン」と「ツェザレヴィッチ」の2隻の戦艦、巡洋艦「パルラーダ」が大破しました。しかしこれらの船は港内に引き入れられ、撃沈することはできませんでした。

翌9日、日本艦隊はふたたび旅順港に近づき港内に砲撃を加えますが、反撃され、戦果は上がりませんでした。

しかし二度の旅順港攻撃は、ロシア太平洋艦隊にプレッシャーを与えるにはじゅうぶんでした。以後、ロシア太平洋艦隊は春になってマカロフ司令官が到着するまで旅順港に閉じこもります。

陸軍先遣隊は8日から9日未明にかけて仁川(インチョン)に上陸しました。

同日午後、仁川(インチョン)沖では瓜生外吉(うりゅう そときち)少将率いる第二艦隊がロシアの砲艦「コレーエッツ」と「ワリャーク」を撃沈しました。

2月10日、ロシア政府に対して宣戦布告。翌11日、東京に大本営が設置されます。

日韓議定書

黒木為楨(くろき ためもと)大将率いる陸軍第一軍は仁川から上陸。

漢城に入り、韓国(大韓帝国)政府に協力を強要します。2月23日、日本政府と韓国政府の間に日韓議定書が交わされました。

・日本は韓国の独立と領土の保全を約束し、韓国王室の安全を守る。
・韓国は施政の改善について日本政府の忠告をいれる。
・第三国の侵略や内乱によって韓国王室の安全や領土の保全に危険が生じた時は、日本政府は臨機必要の処置を取る。これに対して韓国政府はじゅうぶんな便宜を提供する。
・日本政府は軍事上必要な地点を臨機収用できる。
・韓国政府はこの議定書に反する内容を第三国と結んではならない。

事実上、日本が韓国を支配下に置くものでした。この「日韓議定書」が1910年8月22日の韓国併合につながっていきます。

旅順港閉塞作戦

連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、ロシア太平洋艦隊を旅順港に封じ込め、無力化する作戦を立てます。

もしロシア太平洋艦隊が自由に動ける状態で、ヨーロッパ方面から別の艦隊(バルチック艦隊)が到着すれば、日本の連合艦隊は東西から挟み撃ちにされ、制海権を失う。

それを避けるには、早いうちにロシア太平洋艦隊を無力化する必要があったためです。

そこで、旅順港の入り口を廃船で塞ぎ、旅順港内にロシア艦隊を封じ込める作戦を立てます。しかし、敵の砲台の前で作業することは命がけです。志願者をつのったところ2000名が名乗り出て77名の決死隊が組織されます。

駆逐艦と水雷艇に護衛された五隻の廃船が旅順港に近づきました。しかし、ロシア側も水雷艇を繰り出し、旅順港内から砲撃しました。日本側の廃船は入り口につく前に撃沈されたり座礁したりして、失敗しました。

3月27日、第二次決死隊が繰り出されました。この時広瀬武夫(ひろせ たけお)海軍少佐は壮烈な戦死を遂げ、軍神と仰がれるようになります。

4月半ば、日本側が仕掛けた機雷にかかって、戦艦「ペトロパヴロフスク」が沈みました。3月に着任したばかりのマカロフ太平洋艦隊司令官も死亡しました。これによりロシア軍の士気は一気に下がます。

しかし5月半ばには、日本の戦艦「初瀬」と「八島」がロシア側が仕掛けた機雷にかかって沈没。

このように旅順港閉塞(へいそく)作戦は一進一退くりかえし、なかなか決着がつきませんでした。

ロシア本国では、マカロフの死亡を受けて、第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を組織して極東へ送ることが決議されました。

しかし、本当にそこまでやる必要があるのか?旅順の太平洋艦隊は案外うまく日本軍を蹴散らしてくれるのではないかと期待をかけ、すぐに出発させず、様子見の状態でした。

鴨緑江会戦

1904年4月8日より、日本の第一軍前衛部隊が、鴨緑江河口付近に到着しはじめます。5月1日、ロシア軍との最初の本格的な会戦が行われました。

鴨緑江(おうりょくこう)会戦です。日本軍は4万2500人のうち1036人が死傷、ロシア側の損害は死傷者・捕虜あわせて2700人という結果でした。初の会戦に、日本は勝利をおさめました。

日本軍が初の会戦においてロシア軍に勝った。その効果は、軍事的にはともかく、政治的には絶大でした。

それは戦費の調達がやりやすくなったことです。

日本銀行副総裁高橋是清(たかはし これきよ)は、ニューヨークで、ロンドンで外債の募集を進めていましたが、当初うまくいきませんでした。世界一の軍事国家であるロシアに、極東の小国が勝てるなど、誰も思わなかったからです。

「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」と揶揄されました。

しかし意外にも、日本が勝った。しかも快進撃を続けている。日本株は暴騰し、ニューヨークでロンドンで、外債の発行に応じるようになりました。

日露戦争の戦費は総額17億円かかりましたが、そのうちほぼ半額の8億円を外債で調達できました。残りは国内で募集した国債と増税でまかないました。

鴨緑江渡河

4月30日から、日本軍第一軍は鴨緑江(おうりょくこう)を渡り、満州へ攻め入ります。4万2500人が参加したと記録されます。対するロシア側は鴨緑江沿岸に長く広がっており、すぐに防衛戦を突破されました。

ロシア軍は日本軍がどこから攻めてくるかわからず、広い地域に兵力を分散させる必要がありました。よって兵の総数としては多くても、実際に戦う地点では日本軍の兵力が勝っているという現象が生まれました。

第二軍上陸

1904年5月5日、奥保鞏(おく やすかた)大将率いる第二軍が大連付近の塩大澳(えんだいおう)に上陸しました。13日までに上陸したたけでも4万8800人を数える大勢力でした。これだけの大勢力が上陸するとなると敵に迎撃されることは確実です。しかし、営口(えいこう)方面から海軍の牽制があり、上陸はスムーズに行われました。

5月25日から大連北方の南山へ攻撃を開始。4400人の死傷者を出しながら翌26日、南山を陥落させました。

ロシア軍の混乱

開戦時の日本の作戦目標は「黄海の制海権の確保」と「朝鮮半島の確保」であり、それぞれを海軍と陸軍がになっていました。

そして海軍と陸軍はほぼ独立して行動しており、連携はほとんどありませんでした。海軍の旅順港閉塞作戦が失敗つづきであることから陸軍の次の作戦目標がなかなか決まらないといった場面もありました。

しかし戦争が進むにつれて、海軍と陸軍は意見を調整しあい、連携するようになっていきました。

対してロシア側は、混乱していました。

第一に、旅順の防衛に当たっていた太平洋艦隊が、緒戦で旅順港に封じ込められてしまったこと。

第二に、日本軍の目標がどこにあるのかわからなかったこと。

第三に、輸送力をすべてシベリア鉄道一本に頼っていたこと。そのため3月末になっても満州にいた兵力は55大隊(5万5千人)に過ぎませんでした。

第四に、司令部の混乱。

満州軍司令官クロポトキンと、最高総司令官アレクセーエフとの間に意見の不一致が生じていました。

クロポトキンは教科書通りの軍事理論にのっとり、大軍を一箇所に集中させてから、一気に敵を殲滅すべしという考えでした。

対してアレクセーエフは、大軍が輸送されてくるのを待っていたら時を失う。兵力が集中していなくても、鴨緑江の日本軍を必要に応じて攻撃すべきだと主張しました。

クロポトキンはアレクセーエフの意見を容れず、4月末になっても兵力を動かしませんでいた。すでに10万の兵力があるのに!理解できない!アレクセーエフは皇帝ニコライ2世に苦情を申し立てていました。

このようにロシア側がゴタゴタともめていたのに対し、日本側は政府と軍部、海軍と陸軍が(対立はあったものの)比較的スムーズに意思疎通をしていました。それが緒戦における快進撃の理由だったでしょう。

次回「日露戦争(三)遼陽の会戦」に続きます。

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歴史とは何か?(15分)
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清少納言と紫式部(15分)
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堀部安兵衛 高田馬場の決闘(6分)
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解説:左大臣光永

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