日露戦争(七)日本海海戦

こんにちは。左大臣光永です。

実家の熊本に戻りました。今は関西空港から直接熊本に行く便がないので、福岡空港でおりてバスで熊本まで移動しました。福岡空港はいつ見ても驚きます。街の中心部に近すぎることがです。着陸寸前まで街なので、飛行機の腹とビルがぶつかるんじゃないかとハラハラします。騒音もかなりのものでしょう。住んでる人はどんな気持ちなんでしょうか…

「日露戦争」について連続して語っています。

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前回は、満州で戦われた黒溝台の会戦、奉天の会戦について語りました。いずれも日本軍勝利に終わりましたが、兵力物資に余裕がなく、ロシア軍を追撃することができませんでした。

一方、ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊が、対馬海峡を通過せんとしていました。

日本海海戦

1905年5月26日、連合艦隊はバルチック艦隊が上海港外の呉淞(ウースン)にあるとの情報をつかみます。

翌27日早暁、哨戒任務についていた仮装巡洋艦「信濃丸」が五島列島白瀬島(しらせじま)の西北40海里でバルチック艦隊を発見。午前4時50分、全艦艇に連絡。

「敵、第二艦隊見ユ」

この第一報は、対馬の浅茅湾(あそうわん)にあった第三艦隊の「厳島」を経由して、韓国の鎮海湾にあった戦艦「三笠」の東郷平八郎司令長官に無線電信で伝えられました。午前5時5分でした。

東郷平八郎は東京の大本営に全艦出撃を報告します。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動シ之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレトモ浪高シ」

午前6時。

戦艦「三笠」を先頭に、連合艦隊44隻が鎮海湾を出撃。

東郷平八郎は黄海海戦でロシア艦隊を取り逃がした失敗を繰り返すまいと、今回はわが方を危険にさらしてでもバルチック艦隊を全滅させる覚悟でした。

11時55分。

各艦でははやめの昼食をすませると、総員を甲板などに集合させ、艦長がロシア艦隊の艦名・陣形などを説明し、訓示を行いました。

連合艦隊はバルチック艦隊との接触海域を沖の島付近と想定して進みました。旗艦「三笠」以下、単縦陣(一列縦隊)で、南西に航路を取ります。

13時39分。

旗艦「三笠」の艦橋にいた東郷平八郎司令長官の双眼鏡が、バルチック艦隊の姿をとらえました。バルチック艦隊は、ほぼ真正面に二列縦陣(二列縦隊)で北東に航行していました。この時点で彼我の距離1万1000メートル以上。海上のもやのために艦名までは見えませんでした。

13時40分。

旗艦「三笠」以下の連合艦隊は一列縦陣で航路を北西に取り、いったんバルチック艦隊の航路から離れる動きを取ります。これは最終的にバルチック艦隊と並航し、できる限り長い間砲撃を浴びせるための、布石でした。

13時53分。

「三笠」のマストに信号旗を翻します。上から時計回りに、黄色、青、赤、黒に塗り分けられたZ旗です。トラファルガー海戦(1805年)におけるネルソン提督の信号にならい、

「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」

と信号しました。

13時55分。

連合艦隊は航路を北西から西へ変更。「三笠」の南約1万メートルに二列になって進むバルチック艦隊の先頭艦(右翼「スワロフ」左翼「オスラビア」)の姿が確認されました。

14時2分。西から南西へ航路変更。

この時点で、連合艦隊は南西へ、バルチック艦隊は北東へ進んでいます。このままいけば、日露の艦隊はすれ違い、あとは距離が離れていく一方です。

ロシア側は考えたでしょう。しめた。多少の戦火は交えるにしても、このままウラジヴォストークまで逃げ切れると。そう考えさせることが東郷平八郎の狙いでもあったでしょう。

14時5分。東郷平八郎の右手がさっと左に半円を描きます。

すかさず加藤友三郎参謀長が、

「艦長、取舵一杯」

と伝え、西から東北東に取舵140度の左旋回を行います。

前代未聞の敵前回頭、いわゆる「東郷ターン」です。

この時、バルチック艦隊の旗艦「スワロフ」は南8000メートルに迫っていました。バルチック艦隊は二列縦陣となり、右翼が「スワロフ」、「アレクサンドル」、「ボロジノ」、「アリョール」の第一戦艦隊、

左翼が「オスラビア」、「シソイ・ウェリキー」、「ナワリン」、「アドミラル・ナヒモフ」の第二戦艦隊、大ニ戦艦隊の後ろを「ニコライ1世」、「アブラクシン」、「セニャーウィン」、「ウシャコフ」の第三戦艦隊が続いていましたが、

「スワロフ」以下の右翼第一戦艦隊が左翼第二、第三戦艦隊の前に進み出て、一列縦陣を作ろうとしていたところでした。

14時7分。一斉回頭をすませた連合艦隊は東北東に航路をさだめます。

距離8000。この時、バルチック艦隊左翼先頭の「オスラビア」が砲撃を開始。日本側はしかし、まだ待ちました。

14時10分。「三笠」がバルチック艦隊旗艦「スワロフ」に一斉射撃を開始。距離6400メートル。はじめ右舷の6インチ砲で、ついで12インチ主砲で砲撃しました。

日本側は戦艦というものが簡単には沈まないこと、砲撃により戦艦を沈めるには標的をしぼって、できる限り長い間集中砲火を浴びせねばならないことをよく知っていました。

そのためには自軍の損害を度外視して、並航戦に持ち込むほかありませんでした。連合艦隊がいったんバルチック艦隊の航路からはずれ、西へ向かうと見せかけたのも、バルチック艦隊を西や南に逃さず、そのまま東北東に直進させて並航戦にもちこむための布石でした。

14時18分、連合艦隊とバルチック艦隊はとほぼ並航する形となりました。

連合艦隊は5400メートルから5800メートルの距離から、距離が離れると4000メートルの距離まで迫っては砲撃を繰り返しました。

「三笠」「敷島」「富士」以下の第一戦隊は右翼先頭艦「スワロフ」(第一戦艦隊旗艦)に、「出雲」「吾妻」「常磐」以下の第二戦隊は、左翼先頭艦「オスラビア」(第ニ戦艦隊旗艦)に的をしぼって砲撃を繰り返しました。

「スワロフ」は左舷に集中砲火をあびて黒煙を上げました。「オスラビア」からも炎が上がりました。ロシア艦隊は混乱状態に陥り、次々と炎を上げました。

旗艦「スワロフ」は舵を破壊され、操作不能に陥りました。ロジェストウェンスキーは頭部を負傷し、開戦30分にして前後不覚に陥り、駆逐艦「ブイヌイ」に移されます。

バルチック艦隊は速力・性能の異なる寄せ集めの艦隊であり、これらが単縦陣をなして進む時、もっとも足の遅い船にあわせる他ありませんでした。しかものべ3万キロ、7ヶ月の航海を経て、将兵は疲れ切っていました。船の整備も不十分でした。

一方、連合艦隊は各艦の性能がそろっており、整備点検も万全でした。将兵はじゅうぶんに訓練をして、士気は高いものでした。そのため持てる力を最大限に発揮できたことが勝利につながりました。

15時6分、「スワロフ」が列外に脱落。15時7分、「オスラビア」沈没。

ロジェストウェンスキー中将は駆逐艦「ブイヌイ」に収用されていましたが、「ブイヌイ」は石炭が欠乏し、機関部にも損傷があるため、ウラジヴォストークまでたどり着くことはできないと判断し、「ベドウイ」に移されます。しかしその「ベドウイ」も午後4時45分、駆逐艦「陽炎(かげろう)」と「漣(さざなみ)」に追われ、白旗を上げて降伏しました。

「スワロフ」にかわって先頭艦となった「アレクサンドル三世」は炎上して、18時頃列外に脱落。つづいて先頭艦となった「ボロヂノ」も炎上。19時23分沈没。

脱落して炎上するロシア艦には、連合艦隊の第三・第四・第五・第六艦隊の巡洋艦などが攻撃を続けました。19時20分、「スワロフ」撃沈。19時30分頃、脱落していた「アレクサンドル三世」の沈没を確認。

バルチック艦隊の新鋭戦艦5隻のうち「スワロフ」「オスラビア」「アレクサンドル三世」「ボロヂノ」が沈没し、残るは「アリヨール」一隻となり、戦いの帰趨はほぼ決しました。

19時30分、東郷司令長官は各戦隊へ戦闘中止と鬱陵島(うつりょうとう。日本海に浮かぶ火山島)への集結を命じ、駆逐隊・水雷隊に対しては残存艦隊への夜襲を命じました。

バルチック艦隊側はロジェストウェンスキーにかわって第三戦艦隊司令官のネボガトフ少将が指揮権を引き継ぎ、残存艦隊10隻をまとめてウラジヴォストークへの脱出をはかります。

しかし19時30分以降、連合艦隊駆逐隊・水雷隊による魚雷攻撃を受け、戦艦「ナワリン」が沈没。戦艦「シソイ・ウェリキー」、巡洋艦「ナヒモフ」と「モノマフ」も大損害を受け、翌28日、沈没しました。

5月28日早朝、ネボガトフ艦隊は旗艦「ニコライ1世」と、戦艦「アリヨール」、装甲海防艦「アブラクシン」、「セニャーウィン」、巡洋艦「イズムルード」の五隻でウラジヴォストークへ向けて北上していました。

5時50分、警戒中の連合艦隊第五戦隊がこれを発見。無線で東郷司令長官に連絡。第四戦隊・第六戦隊も加わり、第一・第ニ戦隊の到着まで接触を続けました。

6時5分、連合艦隊第一・第二戦隊が南下を開始。

9時38分、旗艦「三笠」がネボガトフ艦隊を発見。

10時24分、先行していた第ニ艦隊が砲撃を開始。

10時40分、「三笠」以下の第一戦隊も砲撃を開始。

しかしロシア側は巡洋艦「イズムルード」が単独で脱出した他は抵抗せず、10時43分、「我、降伏す」の万国旗を掲げたため、日本側は砲撃を停止しました。

11時53分、秋山真之参謀らが日本側の軍使として旗艦「ニコライ1世」におもむき、降伏条件について協議しました。その後、13時37分、秋山参謀らが引き返すのにネボガトフ少将は同行し、旗艦「三笠」を訪れ、降伏手続きを行いました。

ロシア側の四隻「ニコライ1世」「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウィン」は佐世保港まで回航され、乗組員は捕虜になりました。

バルチック艦隊38隻のうち、戦艦8隻は全滅。逃げ延びたのは巡洋艦5隻(うち一隻は座礁後自爆)、駆逐艦3隻、特務艦3隻だけでした。対する日本側の損害は、水雷艇3隻でした。

日本側の死傷者700人弱、ロシア側死傷者5000人あまり。捕虜6106人と記録されます。

1905年5月27日28日の2日間にわたった日本海海戦はこうして日本側の圧勝に終わりました。

次回「日露戦争(八)(最終回)ポーツマス条約」に続きます。

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解説:左大臣光永

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