日露戦争(三)遼陽の会戦

こんにちは。左大臣光永です。

吉田山に登ってきました。京都大学の東にある標高105mの山です。山頂に山小屋のような喫茶店があり、窓から、愛宕山など、京都を取り巻く山々が見えます。気分よかったです。赤く染まった葉桜が、時折はらはらと視界をさえぎって舞い落ちるのも、よかったです。

前々回から「日露戦争」について語っています。

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前回は、日本軍連合艦隊が旅順港を攻撃、宣戦布告後、陸軍が仁川から上陸し、韓国政府に「日韓議定書」をつきつけ、韓国を実質支配下に置く。日本軍第一軍は鴨緑江の会戦にロシア軍を破り、鴨緑江を越えて満州に侵攻する。第二軍は遼東半島に上陸する、ところまで語りました。

本日は第三回「遼陽(りょうよう・リャンヤン)の会戦」です。

得利寺の会戦

満州軍司令官クロポトキンは教科書通りの軍事理論にのっとり、「大兵力が集まるのを待ってから日本軍を一気に叩く」と考えていました。

一方、最高総司令官アレクセーエフはヨーロッパ方面から増援が届くのを待っていたらきりがない。兵力が集中していなくても、順次日本軍を攻撃すべきだと主張しました。

両者の意見は平行線をたどりました。

しかし日本軍によって南山が奪取されると、クロポトキンも理想ばかり言っていられなくなります。旅順方面に援軍を送ることにします。

しかし完全に意見を曲げるのはしゃくだったのか、アレクセーエフの主張した48大隊でなく32大隊を旅順に遣わします。

この援軍が旅順に向けて南下する途中、北上する日本軍33000人と得利寺(とくりじ)付近でかちあい、6月14日から翌日にかけて戦闘になりました。

結果、ロシア側は3563人の死傷者を出し、敗走していきました。日本側にも1145人の死傷者が出ました。

遼陽への道

1904年5月31日に第三軍が編成され、乃木希典中将(6月6日より大将)が軍司令官に、伊地知幸介(いぢち こうすけ)少将が参謀長に任じられます。6月6日、第三軍司令部は大連に上陸しました。

この時点で、日本軍の目標は二つにしぼられました。

一、極東艦隊の拠点である旅順の攻略
二、南満州一帯に展開するロシア陸軍の撃破

一の旅順攻略は、乃木希典率いる第三軍に任されました。二のロシア陸軍の撃破は黒木為楨(くろき ためもと)大将率いる第一軍、奥保鞏(おく やすかた)大将率いる第二軍、および独立第十師団が当たります。

第一軍、第二軍、独立第十師団はロシア軍野戦兵力を排除するため、北へ向かいました。6月末にはさらに野津道貫(のづ みちつら)大将率いる第四軍が編成され、ここに加わります。

対するロシア軍は大石橋(だいせききょう)から遼陽(りょうよう)にかけて広い地域に19万6000人の兵力を展開していました。数において日本軍にはるかに勝っていましたが、ロシア軍の士気は低下していました。緒戦以来退却を重ねていることと、日本軍の規模がわからないことによる恐怖心からでした。

日本軍は7月半ばから8月はじめにかけて、摩天嶺(まてんれい)付近で、大石橋(だいせききょう)付近で、遼陽東部(楡樹林子(ゆじゅりんし)・様子嶺(ようしれい))で、次々とロシア軍を破り、圧迫していきました。勝利を重ねる日本軍の士気はいよいよ上がりました。

遼陽をまもるロシア軍の兵力は圧倒的に勝っているため、日本軍としては旅順攻略中の第三軍が旅順を落とし、合流するのを待ってから遼陽攻略にかかるという選択肢もありえました。

しかし、時が経てばロシア側にも次々と増援が到着する。いつになるかわからない第三軍の到着を待っているよりも、現存兵力のみで遼陽に総攻撃をかけることに決まりました。

黄海海戦

8月10日早朝、旅順港に大きな動きがありました。ロシア太平洋艦隊が強行出撃し、ウラジヴォストークへ向かったのです。ウラジヴォストークからは釜山まで艦隊が迎えに出る手はずになっていました。

日本側連合艦隊はこの動きをとらえ、昼頃、旅順港南東方面で海戦となりました。いったんは取り逃がしましたが、夕方には黄海沖で太平洋艦隊に追いつき、旗艦「ツェザレヴィッチ」に損傷を与えましたが、艦隊を殲滅するには至りませんでした。

ロシア太平洋艦隊は散り散りに逃げていき、中には樺太にまで至って自沈した船もありましたが、

戦艦4隻をはじめ10隻のロシア艦隊は、翌11日、旅順港に帰還しました。しかし、もはや戦える状態ではありませんでした。二度目のウラジヴォストーク移動は考えず、武器や弾薬はきたる旅順攻略戦に備えるため、旅順に移動させました。

東郷平八郎連合艦隊司令長官は、太平洋艦隊がすでに無力化したことと、人員物資が旅順要塞に移動していることをつかめず、引き続き旅順港の封鎖を続けました。

ロシア第二太平洋艦隊の出発

8月23日、ロシア本国では皇帝ニコライ二世のもと、御前会議が開かれます。議題は、バルチック艦隊から組織した第二太平洋艦隊を極東へ送るのか?送らないのか?

わざわざヨーロッパから艦隊を送るのではなく、チリとアルゼンチンから購入した巡洋艦を旅順に送ればよい、という意見も出ました。しかし。

第二太平洋艦隊司令長官ロジェストウェンスキー海軍少将は、これに異を唱えます。

「旅順と太平洋艦隊は危機に陥っている。今、これを救わねば、ロシアに先はない」と。

結局、ロジェストウェンスキーの意見が通りました。秋に第二太平洋艦隊を出発させることが決議されました。マダガスカルにおいてチリとアルゼンチンから買い付ける巡洋艦も合流することとなりました(結局入手できなかった)。

しかし第二太平洋艦隊は各艦隊からの寄せ集めである上、準備がじゅうぶんにできませんでした。合同演習も行わず、実弾訓練も不十分なままの出発となります。

遼陽の会戦

遼陽は満州第二の都市で、太子河(たいしが)と東清鉄道(とうしんてつどう)南部支線が交差する交通の要衝です。

中国四大奇書のひとつ『紅楼夢』の作者、曹雪芹(そうせつきん)の先祖代々の本籍地で、現在、曹雪芹記念館があります(曹雪芹の出身は南京)。

ロシア軍ははやくからここ遼陽に防御陣地を築いていました。

日本軍の攻撃は1904年8月25日から始まりました。

参加した総兵力は日本軍13万4500人、ロシア軍22万4600人(日本側の史料による)。

日本軍の戦略は、第一軍が遼陽の東南から太子河右岸(北側)に渡河し、奉天のロシア軍との連絡を断つ。これを遼陽南から第二軍と第四軍が支援するというものでした。

しかし第一軍が進む道は険しく進軍は困難で、高所に布陣したロシア軍から銃撃・砲撃を浴びました。

状況は日本軍に不利でした。しかしクロポトキンは負け続けから恐怖心に取り憑かれていました。高地で戦うことは不利といって、翌26日、全軍を遼陽に撤退させます。おかけで遼陽東南から第一軍は進撃が容易となりました。

28日から、日本軍は遼陽へ総攻撃にかかります。

8月31日未明からの、遼陽城南西の首山堡をめぐる戦いでは歩兵大隊長の橘周太(たちばな しゅうた)少佐(享年40)が壮烈な戦死を遂げました。

橘周太(たちばな しゅうた)少佐は名古屋陸軍地方幼年学校長もつとめた文武両道の人で、漢詩をよくし、幼年学校校長時代はみずから教壇に立ち、漢文の講義を行いました。

旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中将(死後、昇進して大将)とともに橘周太少佐は「軍神」として前大戦まで祭られることになります。

クロポトキンは日本軍が太子河の渡河にかかったのを見て、万事休すと判断。撤退命令を出しました。

9月4日、日本軍は遼陽に入城しました。遼陽攻撃をはじめてから11日目でした。勝ったとはいえ日本軍は疲弊しきっており、ロシア軍を追撃する余力はありませんでした。

死傷者は日本側2万3533人、ロシア側2万人と記録されます。しかも同じ時期、旅順攻略戦で日本軍は1万5800人もの死傷者を出しています。

予想外に犠牲が出ることに軍指導部は焦りました。各師団に兵力を補充し、徴兵令を改正し服役年限を5年から10年に延長し、国内に残っていた2個師団までも遼陽および旅順にまわしました。

それで翌年の3月に新しい師団が創設されるまで、国内の予備兵力は完全にゼロになりました。

武器や弾薬の不足も深刻な問題でした。工場を増設し、作業量をふやし、外国の各社に砲弾銃弾を発注し、これを確保しました。

日露戦争はまさに国を挙げての「国家総力戦」でした。

次回「日露戦争(四)旅順攻略」に続きます。

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歴史とは何か?(15分)
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清少納言と紫式部(15分)
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新選組 池田屋事件(19分)
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堀部安兵衛 高田馬場の決闘(6分)
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解説:左大臣光永

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