光明皇后(五)立后

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こんにちは。左大臣光永です。

スーパーのレジのところに、人の顔がくる位置に透明のシートをたらすようになりました。ウイルス感染を避けてのことでしょうが、意味があるのか無いのか…まあ、やらないよりマシなんでしょうね…

全10回の予定で「光明皇后」について語っています。本日は第五回「立后」です。

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光明皇后(一)父と母
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi01.html

光明皇后(ニ)平城京遷都
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi02.html

光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi03.html

光明皇后(四)長屋王の変
https://history.kaisetsuvoice.com/Koumyoushi04.html

光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。娘の孝謙天皇が即位すると宮中に「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

前回は、神亀6年(729)長屋王の変と、藤原武智麻呂が政権を握るまで語りました。本日は第五回「立后」です。

光明子を皇后に

長屋王の変から半年後の神亀6年(729)8月5日、背中に「天王貴平知百年」の文様のある亀が発見されたということで、「天平」と改元されました。

そんな文様のある亀などいるわけがなく、長屋王を自殺に追い込み藤原氏が政権を握ったことを、天平ということさら目出度い元号でごまかしたのでしょう。

しかし「天平」というおおらかな言葉とは裏腹に、この時代、血なまぐさい政争と、悲惨な災害が続くことになります。

5日後の8月10日、それまで夫人であった光明子が皇后に立てられました。29歳でした。皇族以外から皇后が出るのは、これが初めての例です。

長屋王が生きていれば、前例がないといって文句を言うに決まっていました。しかし今や長屋王はいないので、武智麻呂は遠慮なく光明子の立后をすすめることができました。

それに聖武天皇のもう一人の夫人・県犬養広刀自(あがたいぬかいの ひろとじ)にうまれた安積親王(あさかのみこ)のことも気がかりでした。

基王と安積親王
基王と安積親王

いずれ安積親王は競争相手になるに決まっている。今のうちに光明子を皇后に立てて、藤原氏に有利な地盤を作っておく、そのための光明子立后でした。

ただし聖武天皇は、けして藤原氏から光明子の立后を「押し付けられた」わけでは、ありません。

立后は、聖武天皇自身の願いでもありました。聖武天皇は天武天皇・持統天皇夫婦をあるべきモデルと見ていました。だから聖武天皇は光明子には、天武天皇に対する持統天皇のように、みずから力をもって政治に参加してくれる対等のパートナーであることを望みました。

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

それで聖武天皇みずからのぞんで、光明子を皇后としたのでした。

皇后宮職の設置

光明子が皇后となった翌月の天平元年(729)9月、藤原不比等邸跡に皇后宮職(こうごうぐうしき)が設置されます。皇后の身の回りの庶務を行う機関です。皇后宮大夫(長官)は小野牛養(おのの うしかい)がつとめます。この皇后宮職が、後に紫微中台(しびちゅうだい)となり、光明皇后の権力地盤となっていきます。

法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡)
法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡)

興福寺五重塔

天平2年(730)、光明子立后の翌年、興福寺境内に光明皇后の発願により、五重塔が建立されます。建立に際して皇后は夫人・采女・命婦などの女官を従えて、自らモッコをもって土を運んだと伝わります。

興福寺五重塔
興福寺五重塔

興福寺境内には養老5年(721)(9年前)に藤原不比等の供養のため北円堂が建立され、神亀3年(726)(4年前)元正上皇の病平癒を願って東金堂が建立されていました。

興福寺北円堂
興福寺北円堂

興福寺東金堂
興福寺東金堂

今回あらたに建立の五重塔は、聖武天皇建立の東金堂と回廊で接続される形で建てられ、東金堂・五重塔まとめて「東院仏殿院(とういんぶつでんいん)」とよばれました。

聖武天皇建立による東金堂と、光明皇后建立による五重塔が接続されることで、聖武天皇・光明皇后夫婦の結束の強さをしめしていました。

五重塔は建立以来、火事で五度焼けて、現在の塔は応永33年(1426)再建されたものです。高さ50.8m。京都・東寺(教王護国寺)の五重塔につぐ高さです。また現在は、東金堂と五重塔の間の回廊はなく、両者は接続されていません。

施薬院・悲田院

天平2年(730)、五重塔建立と前後して、皇后宮職内(もと不比等邸。平城宮内裏の東側)に施薬院(せやくいん)と悲田院(ひでんいん)が設置されます。施薬院は薬草を栽培して病人に施す施設。悲田院は生活困窮者の援助を行う施設。ともに光明子の提案によって設置されました。

皇后になって二年目、最初の大しごととして施薬院と悲田院を設置しているのは、前々から光明子の中には仏教徒として貧しい民衆の役に立ちたいという思いがあったのでしょう。

浴室

また施薬院・悲田院のほかに浴室(よくしつ)をつくりました。浴室とは現在の風呂ではなく、蒸気が吹き出して僧侶が沐浴をする建物です。

伝説があります。

光明皇后は浴室にて、1000人の貧しい人の垢を、みずから洗った。最後にらい病患者が来た。異様なニオイが充満した。皇后は意を決して垢を洗った。すると患者は、膿を吸い取ってくださいという。皇后は膿を口に含んで吸い取った。すると患者は阿閦仏(あしゅくぶつ=薬師如来のような仏)の化身であることを打ち明け、姿を消した。あたりには馥郁たる香りが立ち込めた。皇后はその地に寺を建てて阿閦寺(あしゅくじ)と号した、と(『元亨釈書』)。

この話は鎌倉時代の仏教説話集に見えているもので、事実とは認められませんが、光明皇后の慈悲にあついことが、後世このような伝説を生んだのでしょう。

藤原氏の独占

光明子の立后後、政治の実権を握ったのは藤原武智麻呂でした。天平3年(731)武智麻呂は、役人たちに会議させ、あらたに参議とするにふさわしい人物を推挙させます。

結果、武智麻呂の弟の宇合(うまかい)、麻呂(まろ)をふくむ六人(藤原宇合、多治比県守、藤原麻呂、鈴鹿王、葛城王(=橘諸兄)、大伴道足)があらたに参議に任命されました。

大納言である藤原武智麻呂と、すでに参議であった弟の房前(ふささき)に加え、10人のうち4人が藤原四兄弟で占められることになりました。しかも光明子は皇后。聖武天皇の母で不比等の娘である宮子も後宮にありました。

名実ともに、藤原氏が政治を独占した時代といえるでしょう。

藤原四兄弟はそれぞれ別の家を築いていました。

長男の武智麻呂は南に家があったので「南家(なんけ)」、次男の房前は北に館があったので「北家(ほっけ)」、三男の宇合は式部卿であったので「式家(しきけ)」、四男の麻呂は左京大夫であったので「京家(きょうけ)」とよびます。

藤原四子
藤原四子

このうちまず勢いをのばしたのが武智麻呂の南家で、南家没落後は北家が勢いをのばし、平安時代の藤原道長などにつながっていきます。

難波宮

聖武天皇は即位早々、難波宮の改築を行います。

難波宮は大化の改新のとき孝徳天皇が宮を置きました(難波長柄豊碕宮)。現在、大阪城の隣に整備されているのがその跡地です。

難波宮跡
難波宮跡

しかし孝徳天皇が亡くなった後は放置されました。天武天皇が再建に乗り出しましたが、朱鳥元年(686)正月、火事で全焼し、ふたたび放置されていました。

その放置されていた難波宮を、離宮として改築することを聖武天皇は思い立ちました。

神亀3年(726)10月、播磨行幸からの帰り道、聖武天皇は難波宮に立ち寄り、藤原宇合を知造難波宮事(ちぞうなにわぐうじ、工事長)に任じます。ほぼ工事が完成したのは6年後の天平4年(732)でした。

式部卿藤原宇合卿の、難波の堵(みやこ)を改め造らしめられし時、作れる歌一首

昔こそ 難波田舎と言われけめ 今は京(みやこ)引き 都びにけり

昔こそ難波の田舎と言われたが、今は都になって都会になった。宇合はお世辞にも風流人とはいえなかったようです。ヘタすぎる歌で、泣けてきます。

海に近い難波宮の改築を行ったことは、国際関係の変化が背景にありました。難波宮には唐からの客人を迎える迎賓館としての役割が期待されていました。

天平4年(732)多治比広成(たじひのひろなり)を遣唐大使とする遣唐使が派遣されています。一行の中には、後に鑑真和上を招く、留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)がいました。

三千代の死

天平5年(733)正月11日、光明子の母三千代が亡くなりました。年齢は70歳くらいと言われています。没後、朝廷から従一位が贈られています。

母を失った光明子の悲しみは大変なもので、ふさぎこんで病にかかってしまいました。聖武天皇も光明子のようすを見て心配のあまり、寝食もわすれるほどであった。天下に大赦を行って、光明子の回復をはかったとあります。また聖武にとっても三千代は育ての親であり、三千代を失った悲しみに加えて、光明子まで病にかかったことで、聖武は心労が重なり政務どころではなくなりました。

興福寺西金堂の建立

光明子は母三千代の一周忌供養のため、興福寺境内西側に西金堂(さいこんどう)を建立します。天平5年(733)正月より造営が始まり、翌天平6年正月に完成しました。内部には本尊の丈六釈迦像を中心に、二十八体の仏像が安置され、釈迦の説法のさまをかたどっていました。

興福寺西金堂跡
興福寺西金堂跡

その後、西金堂は何度も火事で焼け、そのたびに再建されましたが、享保2年(1717)の火事の後は再建されませんでした。現在、土壇が残るのみです。有名な阿修羅像以下の八部衆や十大弟子などの像は取り出され、現在、国宝館に安置されています。

興福寺伽藍配置
興福寺伽藍配置

すぐ北の北円堂は不比等の菩提を弔うために養老5年(721)の建立。

興福寺北円堂
興福寺北円堂

その南に三千代の菩提を弔う西金堂を建てたのです。北円堂と西金堂は、光明子の父と母を供養したもので、光明子の「藤原氏の娘」としての面が強く出ています。

対して、興福寺境内東側には、聖武天皇建立による東金堂と、光明子建立による五重塔が、回廊で結ばれていました。

これらは光明子の「皇后としての」面をあらわしています。興福寺境内西側には光明子の「藤原氏の娘」としての私的な面が、興福寺東側には皇后として、天皇家の嫁としての公的な面が反映されています。そんなことも考えながら興福寺境内を散策するとおもしろいでしょう。

次回「光明皇后(六)藤原氏から橘氏へ」に続きます。

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解説:左大臣光永

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