法然の生涯(最終回) 嘉禄の法難
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嘉禄の法難
『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』は、浄土宗の根本聖典です。法然が前関白九条兼実の信心のためにあらわした書物です。
浄土宗では「せんちゃくほんがんねんぶつしゅう」、浄土真宗では「せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」といっています。
法然の生前はごく一部の弟子にのみ書写を許されていた秘蔵の書物でした。他の宗派を刺激しかねない部分があり、法然は注意深く扱っていたものと思われます。それが、法然入寂後、一般に公開されるようになりました。
「けしからん!法然はこんなことを考えていたのか!!」
すぐにその内容に噛みついたのが、華厳宗の明恵(みょうえ)上人です。明恵は『選択本願念仏集』に対して『摧邪輪(さいじゃりん)』をあらわし、法然を厳しく批判しました。
「一つ。念仏さえ称えれば救われるというなら、自ら悟りを求める菩提心(ぼだいしん)は無くていいのか。ばかな!自ら悟りを求める菩提心こそ、すべての行の中で最も尊く、仏道を求める根本である」
「二つ。法然は浄土門以外の仏教を聖道門と称し、念仏に向かおうとする者を引き留める盗賊の群にたとえている。これら二つは、法然の犯した大きな間違いである。」
そのほか、ぜんぶで13の過失を挙げて明恵は『選択本願念仏集』と法然を手厳しく批判しました。
ついで嘉禄三年(1227年)、天台宗の僧定照(じょうしょう)が『弾選択(だんせんちゃく)』をあらわし、『選択本願念仏集』を批判しました。これに対して法然の弟子の隆寛(りゅうかん)が、『顕選択(けんせんちゃく)』をあらわし、反論しました。
「お前たちの批判は、まるで闇夜に小石を投げているようなものだ。
的外れというものだ」
「ぐぬああああああああ!!」
思いっきりバカにされた定照は激怒し、比叡山中にふれまわります。
「専修念仏者の横暴、もうガマンできぬ!」
「法然の墓を暴いて、遺体を鴨川に流すべし」
「法然の墓を暴いて、遺体を鴨川に流すべし」
怒りに燃えた比叡山の悪僧どもがガオーーと大挙して、大谷の法然上人の墓に押し寄せてきました。
「やばい。煽りすぎたか」
「まったく煽り耐性の無い連中だなあ。しかしどうしよう」
「とにかく、上人のご遺体を安全な所へ!!」
あわてて法然の遺体をおさめた棺桶を担ぎ出しますが、そこへ比叡山の悪僧たちが
「そこかーーーッ」
ズガーーーン
「死ねーーーーッ」
バガーーーン
「ひいいい!!」
ムチャクチャに暴れ、法然の門弟たちに殴る、蹴るの暴行を加えます。
「えーい、鎮まれッ、鎮まれーーーッ」
パカカッパカカッパカカッパカカッ
駆けつけた六波羅探題の役人が両者の間に割って入りますが
「六波羅の出る幕かは」
「我々は、朝廷からの勅許も得ているのだぞ」
「たとえ勅許があろうとも、六波羅の許可なき暴挙は、
見過ごすわけにはゆかぬ」
「なにを!」
「念仏信者どもと共に、たたき殺してくれるわ」
ドガーーン
ズガガガガガァーーーン
ついに比叡山の悪僧たちが法然の墓所を叩き壊したので、六波羅探題の武士たちは、
「うむむ。やむを得ぬ。矢を放てッ」
ひゅん、ひゅんひゅん
いっせいに矢を放つと、わーーーと比叡山の悪僧どもは逃げ散っていきました。
ひとまず危機は去ったものの、安心できませんでした。すぐに法然の遺骸を安全な場所に移そうということになります。
改葬、荼毘に付す
嘉禄3年(1227年)6月22日夜。
ごとごとっ、ごとっ、
ひそかに棺桶を運び出します。その時、少し棺桶の蓋を開けてみると、上人の御顔は生きておられるようで、よい香りを放っていました。
「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」
人々は涙を流しました。
道中、比叡山の悪僧たちの襲撃が心配されたので、法然に帰依している武士たちに警護してもらいました。
嵯峨清涼寺に着きます。
しかし、まだ安心はできませんでした。
「延暦寺の悪僧どもが、すでに気づいて、探してるそうだぞ」
「ぐぬう…ここも安心できないか…」
6月28日、法然の遺骸は太秦の広隆寺に移されます。
その間、比叡山の悪僧たちは京都中から『選択本願念仏集』をかき集め、印版を没収し、延暦寺の庭にこれを積み上げて燃やしました。仏の道に反した悪書として、焚書にしたのです。
太秦広隆寺で年を越した法然の遺骸は、翌安貞(あんてい)2年(1228年)正月、西山粟生野(あおの)の幸阿弥陀仏のもとに移されました。このあたりは、比叡山を下りた法然が最初に庵を結んだ地です。この地に先に庵を結んでいた専修念仏者・遊蓮房円照をたずねて、法然はこの地に庵を結んだのでした。
正月25日。
門弟たちが念仏を称える中、法然の遺骸は荼毘に付されました。その場所の跡に建立された堂宇が、後に浄土宗西山(せいざん)派総本山・光明寺(こうみょうじ)となります。
光明寺 参道
光明寺 本堂
ご意見・ご感想をお待ちしています。
16回にわたって法然上人の生涯について語ってきました。いかがだったでしょうか?私は京都の知恩院や金戒光明寺を歩く時、法然上人の暖かな笑顔であたりが満たされているような、なんとも言えない心地よさを感じます。
しかし、肖像画などでおなじみの、法然上人のあのおだやかな表情は、9歳の時に父を殺されたことに始まり、さまざまな戦いを経ての後に、己の愚を徹底して悟った果てに得たものでした。おだやかな法然上人の御影のむこうに、どんな人生が、物語があったのか?そう考えて今回の企画を立てました。
法然や浄土宗のみならず、広く日本の仏教や歴史について興味を持つきっかけとしてくだされば幸いです。
ご意見・ご感想・今後採りあげてほしい人物・事件などぜひお送りください。