法然の生涯(十五) 一枚起請文
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遺言
四国から戻ってきた法然は、九条兼実の弟にあたる慈円のはからいで、大谷の禅房で暮らすことになりました。現在の知恩院勢至堂のあたりです。
五年間にわたる配流生活と、それでなくても79歳の高齢であり、法然の肉体は衰えていました。耳は遠くなり、目はかすむのです。明けて建暦2年(1212年)正月二日、とうとう病の床につきました。
ところが病の床につくと、それまでかすんでいた景色がハッキリ見えるようになり、音も聞こえようになりました。
以後、法然はムダな話は一切せず、声高に念仏を唱えるようになりました。寝ている時も念仏をして、モソモソ、口と舌だけは動いていました。
翌3日。病床の法然に弟子の一人がたずねます。
「今度は、御往生は間違いはございませんか?」
問われて答えた法然の言葉。
我、もとより極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし
私はもともと極楽にあった身なので、きっと元いた所に帰って行くに違いない。
また別の日、いよいよ長くないと見た弟子の一人法蓮房信空が訪ねます。
「古来の開祖の方々には、みなその遺跡(ゆいせき)となるお寺がございます。しかし上人は寺は一つも建ててはおられません。御入寂の後は、どこを師の遺跡とすればよろしいでしょうか」
それに答えた法然の言葉。
あとを一廟(いちびょう)にしむれば遺法(ゆいほう)あまねからず、予(わ)が遺跡は諸州に遍満すべし。ゆへいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期(いちご)の勧化(かんげ)なり。されば念仏を修せんところは、貴賤を論ぜず、海人漁人(あますなどり)がとまやまでも、みなこれ予(わ)が遺跡なるべし
一つの寺を遺跡とすれば念仏の教えは広まらない。私の遺跡は日本全国あらゆる所にあるべきだ。なぜなら、念仏を行えというのが私が生涯かけて教えてきたことだ。であれば、念仏をする所であれば、身分の尊い賤しいに関係なく、漁師が住むあばら屋であっても、すべてそこが、私の遺跡なのだ。
一枚起請文
正月二十三日。
弟子の勢観房源智が、病床の法然に言います。
「法然さま、何か形見をいただきとうございます。お教えの一番大切な部分を一筆したためていただけませんか」
「む…」
もっそりと起き上った法然は、一枚の紙にさらさらと書きししたため、さらに内容に間違いが無いことを示すために両手の印を押しました。世に有名な、一枚起請文です。
唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に、もろもろの智者達の沙汰(さた)し申さるる、観念の念にもあらず。又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の子細(しさい)候はず。但し三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候は、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ふうちにこもり候なり。この外に奥ふかき事を存(ぞん)ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身になして、尼入道(あまにゅうどう2)の無智のともがらに同(おなじ)うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
為証以両手印(しょうのためにりょうしゅいんをもってす)
浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために、所存を記し畢(おわんぬ)。
建暦二年正月二十三日 源空
【大意】
私の説く念仏は、中国日本でさまざまな智慧のある人たちが論じているような、仏さまを心に思い描く念仏ではありません。
また学問をして念仏の深い意味を悟ってから念仏するものでもありません。
ただ極楽往生のためには南無阿弥陀仏と唱えて、疑いなく往生するぞと信じ切って念仏する外には、他に特別のことはございません。
ただし往生するための三つの心得とか、四つの行いということが言われておりますが、そうした事はすべて、ただ信じて南無阿弥陀仏と唱えることによって往生するぞと思うことの中に、含まれていてるのでございます。
この他に奥深いことがあるなどと思うなら、お釈迦さまと阿弥陀仏の二尊の憐れみに外れ、あまねく衆生をお救いになるという阿弥陀仏の本願に漏れるのでございます。
念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまが一生かけて悟られた教えをことごとく学んだとしても、自らをまったく物を知らない愚か者の立場に身を置いて、尼や入道といった学問の無い人々と自分を同じくして、知恵ある者のようなふるまいをせず、ただひたすら、念仏をすべきです。
このことを証するために、両手の印を押します。
浄土宗の心の安心、行うべきことは、すべてこの一枚の紙に書いた。源空の考えは、この外には全く何も無い。私が滅した後、よこしまな教えが出てこないために、考えを記しておいた。
■三心 浄土に生まれる者が備える三つの心。至誠心・深心・廻向発願心。 ■四修 浄土に生まれる者がなすべき四つの行い。恭敬修・無余修・無間修・長時修。
一枚起請文のさらに一番大事な所を抜き出すと、
ただ一向に念仏すべし
のみとなります。まさに、法然の生涯そのものです。
43歳で法然が専修念仏に開眼するきっかけとなったのは、善導大師の「観経疏(かんぎょうしょ)」でした。いわく、
一心専念称弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者是名定之業、順彼仏願故
一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節を問わず久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく。かの仏の願に準ずるが故に。
この「観経疏」の教えと、「一枚起請文」の内容は、完全に一致します。43歳で専修念仏に目覚めてから、80歳の入寂まで、法然は少しも脇道にそれず、ひたすら念仏の道を歩み続けたのでした。
往生
一枚起請文をしたためた2日後の
建暦2年(1212)年正月25日正午ごろ。
法然は弟子たちに見守られながら息を引き取りました。
その臨終のさまは、慈覚大師円仁相伝の九条の袈裟をかけ、頭を北に、顔を西に向け、
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」と唱えて、眠るように息を引き取りました。享年80。くしくも釈迦と同じです。
声がしなくなった後も、なお口と舌が十回くらい動いていたと伝えられます。
遺骸は、最後の住居となった大谷の禅房の東の崖の上に葬られました。現在の知恩院法然廟(御廟)です。
知恩院御廟
さて法然入滅後も浄土宗の歩みは山あり谷あり、けして平坦なものではありませんでした。門弟たちには過酷な試練が待ち受けていました。
次回、最終回「嘉禄の法難」に続きます。