法然の生涯(二)比叡山
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第二の師・持宝房源光
天養4年(1145年)、13歳の勢至丸は故郷美作を後にし、比叡山西塔北谷の持宝房源光のもとで学問・修行をすることになりました。
「ううむ…この子は!」
真綿に水を吸い込むように、知識を吸収していく勢至丸。そのたぐいまれな向学心と理解力に、源光は驚きます。
源光が紹介した天台宗の文献はことごとく読破し、「あの、質問があるのですが」と質問する内容がまた、
天台宗で議論の争点となっている重要な問題ばかりでした。
(ここまで深く読み込むとは…この子はとうてい私のような浅学の者の手には負えない)
「勢至丸よ、私が教えられることはことごとく教えた。そなたがこれ以上天台の奥義を極めようと欲するなら、東塔西谷の皇円阿闍梨のもとで学ぶがよかろう」
そう言われたのは、源光のもとで学んで二年目のことでした。
出家
皇円阿闍梨は比叡山一の名僧といわれ、たいへん学問のある人物でした。天台宗の教理だけでなく、歴史にも通じていました。後に神武天皇から堀河天皇までのことを記した歴史書『扶桑略記』をあらわしています。この皇円阿闍梨が勢至丸の第三の師となります。
皇円阿闍梨のもと、勢至丸はいよいよ勉学に励み、ついに大乗戒を受戒しました。これで、一人前の僧として認められたことになります。初めて髪もおろしました。
さて受戒・出家する際は、師から僧名(そうめい)を授けられます。勢至丸は、「源空」という僧名を授けられました。これは『菩提心論』という書物に見える
心の源は空寂なり
という言葉によります。心の源は、カラッポであるという意味です。
後に、四番目の師・慈眼房叡空のもとで、「法然」という「房号」を授けられます。「法然」という言葉の由来は、
源空は、させる因縁もなくして法爾法然(ほうにほうねん)として道心を発す故に師匠名を授けて、法然と号す
『徹選択本願念仏集』
源空はたいした理由もなく、道理のまま、自然のままに道心を起こした。だから師匠は私に法然という号を授けた。「法爾法然」は「道理のまま、自然のまま、あるがまま」という意味です。
ところで僧の名前は、親鸞も、日蓮も、道元も「僧名」をもってその人物を呼びますが、法然の場合はなぜか「僧名」である「源空」でなく、「房号」である「法然」で呼ぶことが一般的です。「法然」といえば誰でも知ってますが、「源空」といわれても「えっ…?」て感じですよね。
とにかく、師・皇円のともで正式に出家し僧となり比叡山の一員として認められたのです。前途洋洋…という感じでは、しかし、ありませんでした。勢至丸の心の内には、疑問が渦巻いていました。「これはどうも、違うのではないか」と。
比叡山の堕落
当時の比叡山は権力闘争と出世競争が渦巻く世界でした。
下級の僧侶は武器をもって僧兵となり、園城寺(三井寺)と武力抗争を繰り返していました。かの武蔵坊弁慶も、比叡山による園城寺焼き討ちに加わった一人だと言われています。
また僧兵たちは延暦寺の鎮守社である日枝社(ひえしゃ)の神輿(しんよ。おみこし)をかつぎ都へくりだし、強引な要求をたびたびつきつけました。これを強訴(ごうそ)と言います。
勢至丸が受戒した久安三年(1147年)にも、強訴がありました。
それは、平清盛の部下たちが祇園社(現八坂神社)の田楽奉納の際に警備をしていた時、祇園社の神人(じにん。下級の神官)たちといさかいとなり、死人が出たのでした。当時、祇園社は延暦寺の末社だったので、怒った延暦寺の僧兵たちが都にくりだしてきました。
「忠盛・清盛父子を死罪にしろーーーッ」
「でなければ都を焼き払うぞーーーッ」
たいへんな騒ぎになりました。この時は鳥羽上皇がキ然とした態度で僧兵たちの要求をはねのけたので、忠盛・清盛父子は罰金のみで許されましたが、まことに、僧兵の強引さはどうにもならない、やっかいなものでした。
また、当時の比叡山では俗世間以上に出世競争が激しく、貴族の子弟でなければ偉くなれませんでした。勢至丸のような地方豪族の息子には出世の道は完全に閉ざされていました。
「やい勢至丸。お前、ずいぶんマジメに勉強しるんだってな!」
見ると、長刀や太刀をもった数人の僧がニヤニヤしていました。
武器はいさましいものの、いかにもつり合いが取れてない感じでした。
(貴族のバカ息子たちだな…)一目でそう見てとれました。
「いくら勉強したって、貴族の出身で無いお前には、出世なんか、できんぞ」
「そうだ!お前なんかは、生涯俺たちにこき使われるんだ」
「別に出世なんて、ぼくは、どうだっていいよ」
「じゃあなぜ勉強してる!」
「天台宗の教理をきわめつくせば、その先に、世の中の人を救う道が見えるかもしれないから…」
「なんだ?こいつ、ややこしいこと言うな!」
「生意気だ!!」
ボカッ、ドカッ、バキーーッ
「ぐううう」
僧たちにタコ殴りにされる勢至丸。
そんな場面もあったかもしれません。
隠遁を願う
「隠遁したいと思います」
「なに!隠遁!」
出家してしばらくして、勢至丸は師の皇円阿闍梨に申し出ます。
隠遁とは、俗世間との関わりを断ち切って、仏門に入ることです。すでに法然は出家しているので、さらに隠遁するというのは「は?」って感じですよね。
これは、当時の比叡山の状況を知らなければなりません。
勢至丸が皇円阿闍梨のもとで学んでいた東塔(とうどう)というエリアは比叡山の中心に位置します。そのため、僧兵たちが強訴をしたり、園城寺を焼き討ちに向かう場面にも、たびたび行きあっていたことでしょう。俗世間の喧騒が、どうしても押し寄せてきます。修行に集中できません。
一方、比叡山には「別所」という七つの集落があります。出世コースからは完全に外れることになりますが、純粋に教理や学問に打ち込むには、むしろ別所に移ることが一番でした。そのため、法然は「別所」への「隠遁」を望んだのです。
「しかし…そなたはまだ僧になったばかりではないか。
せめて天台三大部を学んでからでも遅くはないぞ」
「天台三大部を学べばいいんですね。わかりました」
天台三大部とは『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(ほっけもんぐ)』『摩訶止観(まかしかん)』それぞれ十巻から成り、『法華経』の大切なところを述べたものです。天台宗の教えの、根本となるものです。
それから三年、勢至丸はほぼ自力で天台三大部を読みつくしました。
(なんという向学心…)
これには師の皇円も驚きます。これほどの頭脳を、隠遁させるなど、勿体ないと思いました。
学道をつとめて大業をとげて、円宗(えんしゅう)の棟梁となり給へ
『法然上人行状絵図』
「学問をきわめて大きな事を成し遂げて、天台座主におなりなさい」
皇円は勢至丸に、そう言ったと伝えられます。権威主義がはびこる当時の比叡山で、地方豪族の息子である勢至丸がどんなに頭がよくても天台座主になれるはずはありません。
師が天台座主になれと言ったいう話は、さすがに後世の創作と思われますが、とにかく、師の皇円は勢至丸にたいへんな期待をかけていたのです。
しかし、勢至丸の決心は変わることはありませんでした。
「やはり、行くのか」
「はい。長い間お世話になりました」
久安6年(1150年)9月。
勢至丸は、5年を過ごした東塔西谷の皇円阿闍梨のもとを後にします。時に勢至丸18歳。目指すは、「黒谷(くろだに)の聖(ひじり)」とうたわれた慈眼房叡空のいる黒谷別所。そしてこの慈眼房叡空こそ、勢至丸後の法然にとって四番目の師でありまた、生涯の師ともなる人物でした。
次回「黒谷」に続きます。
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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。