法然の生涯(十四) 土佐配流

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鳥羽から経の島へ

後鳥羽上皇の寵愛あつき女房を、法然の弟子安楽と住蓮が無断で出家させてしまったことが、「建永の法難」を引き起こしました。

安楽と住蓮は処刑され、法然は土佐へ流されることとなります。

「うう…法然さま、お痛ましゅうございます」
「なぜ法然さまがこんな目に…」
「上皇様のなさりよう、あまりといえばあまりです!」

悲しみ、怒り、嘆く弟子たちに、法然は言います。

「恨んではならぬ。わしはもう80歳に近い。同じ都にいたとて、別れの時は近いであろう。遠い配所にあって多くの山や海を隔てていても、浄土で再会できることは疑いないのだ。それに私は地方へ行って田舎の人たちにも念仏を説きたいと思っていた。それがかなえられるのだ。この流罪は、朝廷からの恩恵というべきものである」

建永2年(1207年)3月16日、法然は輿に乗せられ、都を出発します。道すがら六十名もの僧が、お供をしました。

「法然さま、返す返すもお痛ましい…」

「悲しむことは無い。たとえば古の聖人である役の行者も、流罪になられた。菅原道真公のような神仏の化身とされる方も、通られた道なのだ。ありがたいことではないか」

京都の南・鳥羽から舟に乗り、淀川を下り、淀川河口から瀬戸内海を西へ、摂津経の島で一度船を下ります。

経の島は平清盛が日宋貿易のために造営した人口島です。現在の神戸市兵庫区あたりと見られます。法然上人が来られた!ああ、ありがたや!法然上人がわれらの島に!法然は島の人々から大歓迎を受け、大いに説教し、人々は涙を流して阿弥陀仏に帰依しました。

高砂の浦

次の停泊地は播磨の高砂(兵庫県高砂市)です。ここでも法然は大歓迎を受けます。老若男女、法然の説法を聞こうと押し寄せます。その中に、年老いた漁師の夫婦が法然にすがりより、

「法然さま!わしら子供の頃からずうっと漁師をしとります。生物を殺すと地獄行きじゃということですが、そんな、ひどい。生きるために、外に道が無いんでございます。それでも、地獄行きはどうしようもないんでしょうか」

涙ながらに訴える漁師の老夫婦に、法然は言いました。

「あなた方のような生業の方でも、口に南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀仏の広大無辺の御慈悲により、極楽に往生できます」

「お…おおおお…!!」

その後も老夫婦は、魚を捕ることは生業でありやめることはできませんが、昼間は念仏を唱えながら仕事に精を出し、夜は家で静かに念仏し、ついに極楽往生を遂げたということです。

生物を殺す職業の者は地獄に落ちる、まして極楽往生は絶望的とされた時代に、南無阿弥陀仏と唱えれば救われると説く法然の教えは、老夫婦を大いに励ましました。

室の泊

高砂を出航した法然の船は、次に室の泊に到着します。室の泊は瀬戸内海を行き来する船の寄港地で、行基上人が修造したと伝えられます。

さて法然の乗った船に近づいてくる小舟がありました。お供の僧が、む。何事だと見ると、小舟には、大笠を掲げ、きらびやかな衣装をつけた女たちが、ポーーン、ポーーンと皷を打ちつつ舟を漕ぎよせてきます。遊女の乗った船でした。

「法然上人が来られると聞いてやってまいりました。
世を渡る手だては色々ありますが、私たちは前世にどんな罪があって、
このような生業に身を落としてしまったのでしょうか。
この罪業は、どうやったら救われるのでしょうか」

船端から、法然が答えます。

「もしそのようなことをせずに生きていく術があるなら、今の生業をお捨てなさい。もし他に生きる手立てがなく、また身を投げ出すほどの決心もつかないなら、今の身のままで、もっぱら念仏に努めなさい。阿弥陀仏は、そのような罪深い人にこそ誓願を立てられたのです。卑下することはありません。信じて念仏すれば、必ず往生できます」

「ああ…法然上人!よよよ…」

涙を流して喜ぶ遊女たち。後に法然が配所から帰京の折、この時の遊女が発心して念仏往生を遂げたことをと村人から教えられました。

塩飽~小松

室の泊を出港した法然は、讃岐国塩飽(しあく)の笠島(かさじま)に至り、讃岐国の地頭である高階保遠(たかしなやすとお)の接待を受けます。高階保遠は出家して西忍(さいにん)と名乗っていました。どうぞ上人、薬湯を設けております。長旅でお疲れでしょう。やこれは、かたじけない。西忍は法然に心づくしの接待をします。

その後、法然は四国に渡り讃岐の小松に到着します。当初、配流先は土佐の西の果て・幡多(はた)という所に決まっていました。しかし、法然に深く帰依する九条兼実が、九条家の領土がある讃岐に変更するよう朝廷に取り計らってくれていたのでした。

讃岐滞在中、法然は生福寺(しょうふくじ。香川県まんのう町)でしばしば説法を行い、また弘法大師建立の善通寺(ぜんつうじ。香川県善通寺市)に参詣しました。

赦免

承元年(1207年)12月。法然に赦免の宣旨が下されます。後鳥羽上皇のお怒りはまだ解けていませんでしたが、太政大臣藤原頼実がしきにり法然赦免を奏上したことと、後鳥羽上皇御願の最勝四天王院建立にあたっての恩赦によるものでした。また後鳥羽上皇の夢の中に、法然上人を救えとお告げがあったということも言われています。

しかし、すぐに都へ入ることは許されませんでした。それから四年間、法然は摂津箕面(みのお)の勝尾寺(かつおうじ)に逗留し、現地の人々に教えを説きました。

ようやく帰京が許されたのは建暦元年(1211年)。
この年の11月17日。法然は京都に戻ってきます。

「五年ぶり京か…
思えば配流先ではいろいろなことがあった…」

すでに79歳の高齢でした。以前に使っていた東山吉水の庵は荒れ果てていたので、九条兼実の弟にあたる天台座主慈円のはからいで、大谷に居を設けることとなりました。現在の知恩院勢至堂のあたりです。


知恩院勢至堂

次回「一枚起請文」に続きます。

解説:左大臣光永

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