後白河上皇(五)平治の乱

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スマホで、気軽に、歴史の学びを!第一巻「飛鳥・奈良」から第十一巻「明治維新の光と陰」。特別割引価格での販売は5月31日まで。

こんにちは。左大臣光永です。

非常事態宣言も解除されて、町に活気が戻ってきましたね。昨日、居酒屋に入ったら、お客さんがたくさんか入ってて繁盛してました。うれしくなりました。秋に第二派が来るとかいう話もあるので油断はできませんが…

本日は後白河上皇の第5回「平治の乱」です。

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過去配信ぶん
後白河上皇(一)今様への没頭
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後白河上皇(ニ)近衛から後白河へ
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後白河上皇(三)師弟の出会い
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後白河上皇(四)少納言入道信西
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遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
(『梁塵秘抄』359)

後白河上皇(1127-1192)。77代天皇。平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と渡り合いながらも、衰退しつつある貴族社会が滅びるのを食い止めました。当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者としても知られます。

前回は、保元の乱に勝利した後白河上皇のもと、側近の少納言入道信西が戦後処理を行い、さまざまな改革事業を押し進めたことを語りました。

本日は第5回「平治の乱」です。

藤原信頼

「信西、そのほうの手腕、頼みにしておるぞ」

「ははっ、上皇さま、お任せください」

後白河は政治のことは信西に丸投げでした。任せきっていました。保元の乱に勝利した後は、ますますその傾向が強まりました。とうていわしなどの出る幕ではない。そちに任す。ワシは今様の練習で忙しいからのぅ…そんな感じだったでしょう。

そしてもう一人、信西とは「別の意味で」後白河から可愛がられていた人物がいます。

佐兵衛督(さひょうえのかみ)藤原信頼(1133-1160)。

『平治物語』には「文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし」と、あります。どうしようもない人物だったようですが、後白河上皇から「あさましき程の寵愛」を受け、どんどん出世して、27歳で中納言になりました。

ここで「あさましき寵愛」とは、男色関係のことです。

男と男の関係です。

これは当時、貴族や僧侶のたしなみで、当たり前のことでした。

後白河は、しきりに信頼をかわいがります。

(どんなふうにかわいがったかは…、想像にお任せします)

あまりのかわいがりように、信西は釘をさします。

「上皇さま、あまり信頼をご寵愛しすぎるのは考えものです…は?右大将へ昇進?!もってのほかです」

「そうは言うがのう信西」

「ダメです!」

信西が強く言うので、後白河は信頼が期待していた右大将へ昇進させてやることは、断念しました。

信頼は怒り狂います。

「おのれ信西!上皇さまに、余計なことを吹き込みおって!」


平治の乱前半 おおざっぱな理解

…こんな感じで、平治の乱の前半は「後白河を中心にした三角関係」と見れば、わかりやすいです。そして信西のバックには平清盛がおり、信頼と源義朝が手を結ぶわけです。ほんとはそんな単純じゃないんですが。おおざっぱな理解としては、こんな感じでいいと思います。

安禄山絵巻

信西は後白河が信頼を寵愛するのをあぶないと見ました。それで、信頼を唐で玄宗皇帝に反乱をおこした安禄山になぞらえて、『安禄山絵巻』三巻をつくって後白河上皇に贈りました。

「上皇さま、信頼は安禄山です。必ず背きますぞ」

「信西、そう申すな、信頼はあれで、かわいいヤツなのじゃ」

後白河は信西の言葉を、まったく取り合いませんでした。

「やれやれ…上皇さまの信頼びいきにも、困ったものよ…」

そこで信西は後白河の人物を評して、このように言ったと伝わります。

「和漢に比類なき暗主である。近くに謀反の臣がいるのにまったく気づかないし、こちらが気づくように仕向けても、いっこうに聞き入れない。このように愚昧な君主は見たことも聞いたこともない。ただし2つだけ徳がある。なにかやろうと思ったら人のつくった古い慣習にとらわれず、かならずこれをなし遂げること。そしてもうひとつは、何か聞いたらけして忘れず、心の底に覚えていることである」(九条兼実『玉葉』寿永三年(1184)3月16日条)。

信西に悪く言われて、信頼は怒りをたぎらせます。

「おのれ信西!いつもいつも上皇さまに、余計なことを吹き込みおって!」

源義朝

信西憎しの気持ちを抱いていたのは藤原信頼だけではありません。左馬頭源義朝は保元の乱の恩賞で平清盛に差をつけられました。

清盛は播磨守から大宰大弐(だざいのだいに)に進んだのに対し、義朝は左馬頭(さまのかみ)に任じられたのみでした。そこで義朝は権力者信西への接近をはかり、信西の息子・是憲(これのり)にわが娘を嫁がせようとします。

しかし信西は、

「家柄が違いすぎる。寝言もたいがいにするがよい」

義朝の申し入れを断りました。しかも信西は、もう一人の息子成範(しげのり)を、平清盛の娘に嫁がせました。義朝の面目は大いにくじかれました。

その上、保元の乱の戦後処理では信西によって実の父・為義を斬らされた恨みもありました。

「おのれ信西。もう許さん」

反信西派の結束

信西に恨みを持つ義朝は、同じく信西に恨みを持つ信頼と手を組みます。また院近臣藤原成親、摂津源氏の源頼政も加わり、「反信西派」ともいうべき一派を形成していきました。

三条東殿 焼き討ち

平治元年(1160)12月4日、平清盛は一族引き連れて熊野詣に出かけました。平清盛は信西の軍事面での協力者でした。その清盛が、都を留守にする。これこそ藤原信頼・源義朝が待ちに待っていたことでした。。

平治元年(1160)12月9日夜半。

藤原信頼・源義朝らが院の御所三条東殿(三条烏丸殿)を襲います。

三条東殿焼き討ち
三条東殿焼き討ち

三条東殿遺址(現京都市中京区場之町)
三条東殿遺址(現京都市中京区場之町)

三条東殿遺址(現京都市中京区場之町)
三条東殿遺址(現京都市中京区場之町)

「火を放てーーッ」

ヒュン、ヒュンヒュン!

(これより前、院の御所・高松殿が火事で焼けたため、三条東殿が院の御所になっていました)

しかしクーデターの情報は信西にもれていました。信西は事前に三条東殿を脱出し、奈良方面に逃げていました。

後白河は突然の襲撃に驚き、姉の上西門院統子とともに車に乗り、脱出しようとしましたが、信頼方に捕らえられ、内裏の東側にある一本御書所(いっぽんごしょどころ)に移されます。

信西の息子、俊憲(としのり)と貞憲(さだのり)は炎をくぐって脱出しました。信西の妻(紀二位=後の阿波内侍)は上西門院の御衣の裾に隠れて三条東殿を脱出しました。

ボストン美術館収蔵の『平治物語絵巻』三条殿夜討巻(さんじょうどのようちのまき)はこの日の焼き討ちのすさまじさを伝えていきます。

義朝らは三条東殿を焼き討ちにすると、さらに姉小路西洞院(あねがこうじにしのとういん)にある信西宅を襲い、これを焼き討ちにしました。

しかし信西はいない。もしかしたら変装して逃げ出すかもしれない。そこで、信西邸を逃げ出す者は女・子供も容赦なく殺しまくりました(『平治物語』)。

信頼、内裏を占拠

12月10日、藤原信頼は太政大臣以下の非常招集を行いました。

「信西の息子たちの官位を解く」

ざわざわっ…

(なんですかあの者は)
(上皇さまのお気に入りですよ…)

大臣公卿たちは信頼に従いながらも反発を感じたことでしょう。

信西の最期

「ふうふう…ここまで逃げれば…」

信西は家人の藤原師光とともに大和国田原(たわら)という所まで逃げのびていました。

そこで信西は穴を掘って、中に入ります。

「信西さま、唐国へお渡りください。私がお連れしましょう」

家人の藤原師光はそういいますが、信西は「いかにものがるまじ(どうやっても逃れることはできない)」といって穴に入る。

しかし信西の居場所は輿かき人夫の口から露見し、

12月13日、検非違使源光保(みつやす)が、穴にこもっていた信西を見つけて、引っ張り出してみると、もう胸の上に刀を突き立てて死んでいました。光保は信西の死体をひっぱり出して、首を切りました(『愚管抄』)。

※信西の死のようすは史料によって微妙に異なります。
『百錬抄』→「志加良木山(近江国信楽)」にて自害
『愚管抄』→「大和国田原」にて穴に隠れていたが、見つけられて自害

※信西は、穴の中で餓死して、即身仏になろうとしていたようです。それにしては刀を突き立てて死んだのは妙です。追っ手が来たのを知って急遽、餓死から自殺に切り替えたのか?当時、刀による自殺も往生極楽への作法だったのか?

17日、信西の首は鴨河原にして源光保から検非違使にわたされ、平安京の町中を渡された末、平安京の西の果、西獄(さいごく)(右獄)まで運ばれ、獄門前の樗の木の上にさらされました。

西獄(右獄)は平安京の西にあった牢獄で、現中京区西ノ京西円町あたりです(私ん家のすぐ近所です…)

西獄あたり(現中京区西ノ京西円町)
西獄あたり(現中京区西ノ京西円町)

「なんてひどい」
「なにもここまでやんなくってもなあ…」

人々は信西の死を悲しみました。

(信西さま、この無念、かならず晴らしてみせますぞッ…!!)

最期まで信西に従った家人の藤原師光は、信西の死後、出家します。後に「鹿ヶ谷の陰謀」に加わり、平清盛によって処刑される、西光法師です。

信頼、除目を行う

14日、信頼は臨時の除目を行い、みずから大臣・大将に就任。源義朝を従四位下播磨守に、義朝の三男頼朝を右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に、源頼政を伊豆守に任じました。

こうして信頼は信西にかわって権力を一手に握りました。

しかし信頼・義朝がおこしたクーデターはあまりにお粗末でした。

まず、信西憎しといってもそれは信頼・義朝はじめ一部の者のみで、前関白藤原忠通、関白藤原基実以下、多くの公卿殿上人はべつだん信西を憎んでいませんでした。二条天皇の側近の藤原経宗・惟方も、信西による改革事業を支持していました。ことに信西の掲げた宮廷文化の復興、その具体策である大内裏再建事業には共感する者も多かったでしょう。まして民衆は信西に特に恨みはありませんでした。

藤原信頼・源義朝の挙兵は単なる「私怨」であって、まるで大義名分がありませんでした。いずれ瓦解することは目に見えていました。

平清盛の帰還

一方、熊野参詣の途上にいた清盛は、12月10日、紀州田辺の近くのニ川宿(ふたがわのしゅく)で信頼・義朝そむくの知らせを受けると、急遽引き返し、

12月17日、京に戻り六波羅の館に入ります。

六波羅蜜寺
現 六波羅蜜寺

此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府
此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府

清盛はすぐに家人を信頼のもとに遣わし、名簿(みょうぶ)を提出します。

名簿とは名前や官位を記したもので、名簿の提出は相手に全面的に従うことを意味していました。こうして清盛は信頼を油断させます。さしあたって問題は、内裏にいる二条天皇の安全確保でした。

そこで清盛は二条天皇の側近藤原経宗・惟方らに連絡を取り、二条天皇脱出の手はずを整えます。藤原経宗・惟方は、いきがかり上、信頼のクーデターに取り込まれたものの、心底信頼に手を貸すつもりはありませんでした。それで、すぐに清盛に手を貸しました。

12月25日深夜、藤原経宗の手引で、二条天皇を女装させて脱出させ、六波羅にお迎えしました。一方、後白河は、お供の一人もないまま勝手に逃げ出し、馬を飛ばして、仁和寺に入りました。

平清盛はその夜のうちに天皇の六波羅遷幸のことを京中に知らせました。

「朝敵となりたくなくば、六波羅へ馳せ参れ」

すると、前関白藤原忠通、関白基実以下、ほとんどの公卿・殿上人が六波羅に集まりました。

清盛の反撃

翌26日、皇居となった六波羅で、二条天皇より、信頼・義朝追討の宣旨が下されます。

平家軍は信頼・義朝の占拠した大内裏を攻撃しました。前年、信西によって再建されたばかりの、大切な大内裏です。平家軍は内裏・大内裏が燃えることを避け、たくみに退却して義朝軍をおびき寄せ、六条河原で合戦となります。

六条河原
六条河原

「我こそは左馬頭義朝なりーーッ」

キン、カン、ズバア!

義朝は鬼神のごとく戦うも、摂津源氏の源頼政が盟約を破り、兵を動かしませんでした。これが義朝方の敗因になりました。

「くっ…かくなる上は東国に落ち延び、再起をはかるぞ!」

信頼の最期

一方、藤原信頼は、合戦の途中で逃げ出し、仁和寺に入りますが、翌27日、召し捕られ、取り調べもないまま、即日六条河原で斬首されました。後白河が助命に動いた様子は、ないです。見捨てたようです。男同士、愛し合った仲にしては薄情なことです。

義朝の息子たち

源義朝は長男義平(よしひら=悪源太)、次男朝長(ともなが)、三男頼朝とわずかな共連れて東国に落ち延びていきます。

途中、何度も落ち武者狩りにあいます。三男頼朝は疲れ果てて馬の上で寝ていたところ一行とはぐれてしまい、関ヶ原をさまよっている所で平家方に捕えられます。

後日、清盛の前に引っ立てられるも、池禅尼の取りなしで救われ、伊豆に流されることはよく知られた通りです。

次男朝長は落ち武者狩りで受けた傷がもとで、美濃の青墓(現 大垣市内)で亡くなりました。

長男義平は別行動を取り北陸道を目指しましたが、ふたたび京へ戻り清盛暗殺を試みます。しかし失敗して六条河原で斬首されました。

義朝の最期

義朝は郎党の鎌田正清(かまた まさきよ)以下、わずかな従者とともに東国めざして落ちていきましたが、途中、尾張国知多半島の野間というところで、

源義朝 敗走ルート2
源義朝 敗走ルート

正清の舅・長田忠致(おさだただむね)をたよったところ、裏切られ、風呂の中でメッタ刺しにされて、殺されました。

その時言った言葉が、

「我に木太刀(きだち)の一本なりともあれば…」

だったと伝えられます。そのため義朝の墓のある知多半島の野間大坊(のまだいぼう)では、今日なお、木太刀の奉納が絶えません。

野間大坊 源義朝の墓
野間大坊 源義朝の墓

野間大坊 案内板
野間大坊 案内板

平治2年(1160年)正月4日のことでした。正月9日、義朝の首は京の東獄(左獄。現京都府庁西あたり)にさらされました。

結局、「平治の乱」とは何だったのか?

いまいちわからん、という方がほとんどだと思います。

そうなんです。

平治の乱は、よくわからんのです。

誰と誰が対立したのか?

なぜ対立したのか?

基本的な対立図式すらよくわかりません。

しかも史料が少なく(もっとも有名な『平治物語』はたんなる「お話」です)、さまざまな説が分かれ、さっぱりわかりません。

大雑把なところで、信西憎しで信頼と義朝が手を組んでクーデターを起こした。信西は逃げたが結局、自害した。平清盛が上洛して、クーデターを鎮圧した。これくらいの理解で、いいと思います。

論功行賞

平治の乱に勝利した平清盛と平家一門は以後、強い発言力をもつようになります。

合戦後の論功行賞で、清盛の長男重盛は伊予守に、清盛の弟経盛は伊賀守に、教盛は越中守に、頼盛は尾張守となりました。清盛自身は合戦直後の恩賞は受けませんでしたが、永暦元年(1160)6月、正三位にのぼり、8月、参議となって、公卿に列せられました。

後白河にとっての平治の乱

平治の乱における後白河上皇の活躍は、ほとんどゼロです。唯一、仁和寺に逃げたことぐらいです。信頼・義朝が旗印にしていたのは二条天皇であって、後白河は問題にもなりませんでした。平治の乱において後白河は終始、カヤの外でした。

しかし後白河がもっとも頼りにしていた信西は死に、彼氏であった信頼は処刑されました。後白河にとって、失うものばかり多い事件だったといえます。

次回「後白河上皇(六)天皇派と上皇派の対立」に続きます。

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